過ぎゆく夏

 耳郎が玄関のドアを開けると、部屋の中に漂っていた熱気が外に向かってゆっくりと流れてきた。二時間半ほど外出していたのだが、夕方のもわっとした空気は確かにまだそこにあった。隣で松葉杖をついているこの部屋の主は、わざわざ自分から室内に顔を突っ込んで、
「うわ、やっぱあちー」
 と眉を寄せた。汗で束になった金色の前髪が額に張り付いている。耳郎はそれに対しては何も言わず、ドアを手で支えた。
「上鳴、先に入りなよ」
 空いている方の手で入室を促す。ギプスで固定されていない左足と松葉杖を交互に踏み出して、上鳴はちょっとずつ前進していく。完全に玄関の中に入ったのを見届けてから、耳郎はようやくドアから手を離した。





「ほら、風入るじゃん」
 上鳴が扇風機のスイッチを押したと同時に、耳郎がそう言った。カラカラと網戸を引く音がする。
 外を歩いていた時は涼しくて快適だったけど、上鳴はこのアパートの階段を二階まで上るだけで汗をかいてしまった。数日前までは一段飛ばしで軽快に上っていたくらいなのに、今は一歩一歩気を遣わなければならない。普段の倍の時間を掛けながら階段の上り下りをしているこの数日間、エレベーターがあったらと何度思ったことか。耳郎が傍で付き添ってくれただけ、さっきは気が紛れて助かったが。
 網戸の隙間からそよそよと入ってくる夜風だけで汗だくの身体が満足するはずもなく、上鳴は透明な羽が送り出してくれる風を身体の正面で受けていた。

「あー、何で壊れたかなあ」
 声が小刻みに震える。久しぶりにやってみた遊びが思いのほか面白くて、上鳴は扇風機に向かって意味のない言葉を語りかけ始めた。
「ちょっと、独り占めしないで」
 窓辺から耳郎がやって来る。耳たぶから下がるコードが上鳴の方に伸びてきて、先端のプラグが彼の肩をつついた。上鳴は少し右にずれて耳郎を隣に寄せる。しゃがみ込んだ彼女は、扇風機が首を振るように直し、「強」に設定していた風量を「中」にした。
「日頃の行ないでも悪かったんじゃないの」
「はー? 俺めちゃめちゃ良いことしかしてないからね」
 涼しさを求めている身体が、自然と扇風機の首振りに合わせて動く。耳郎の前に上体を乗り出すと、邪魔そうに手で押し返された。 
「ま、壊れたもんはしょうがないじゃん。でも明日には修理来てもらえるんでしょ」
「そーだけど……。すぐ直っかな」
 上鳴は不自由な右足を気にしながら、その場に大の字に仰向けになる。そして、今日の昼過ぎから機嫌の悪いエアコンを見上げた。


 昨夜から今朝にかけてちゃんと仕事を全うしていたエアコンは、彼が午前中に病院へ行って帰って来てからはなぜか、ぬるい風を吐き出すだけの機械になってしまっていた。
 すぐ修理業者に電話を掛けたが今日は無理だと言われ、明日の午後来てもらえることになった。少なくともあと十五時間は、暑さを扇風機でしのがなければいけない。それを思うとげんなりするが、翌日に来てもらえることになっただけ良かったと思うべきだろう。

 足の怪我のため出掛ける選択肢はハナからなく、上鳴は電話を切った後すぐに、ずっとエアコンに頼りきりでろくに使っていなかった扇風機を引っ張り出してきた。それで何とか夕方までの時間をやり過ごした。
 我慢ができたのは、耳郎が仕事を早く上がって見舞いに来てくれると分かっていたからだ。五時過ぎに部屋のインターホンが鳴ったと同時に、上鳴は財布をハーフパンツのポケットに突っ込み、よちよちと玄関まで歩いた。ドアを開けた瞬間、
「大丈夫?」
 と心配してくれた恋人の言葉に彼は見事かぶせて、
「飯行こう、飯!」
 彼女の肩を掴んですぐに回れ右させた。
 唐突な提案に抗議しようと耳郎は口を開きかけたが、額から玉のような汗を流す上鳴の様子に気が付くとぎょっとして素直に従ってしまった。
 近所のファミレスで夕飯を食べ、店内が空いていることに甘えてすっかり日が暮れた後も涼ませてもらったところである。


 ふいに耳郎が、あ、と呟いて立ち上がり、ベランダの方へ歩いて行った。網戸の前に立つ。夜空にぱっと花火が咲いた。花火、と耳郎が独りごちる。
「おー、今日だったのか。明日だと思ってた」
 個性のおかげで耳郎は先に花火に気づいたらしかった。上鳴はゆっくり身体を起こす。
 この地域の夏祭りが今開催されていることは、ファミレスが空いていたことで先ほど思い出した。もちろん職業柄、町のイベント事はくまなく把握しているが、ここ数日の上鳴は自分のことでいっぱいいっぱいで、色々なことが記憶の片隅へ追いやられていた。耳郎の傍へ行くと、もう一度その場に横になる。
「初めてなんじゃない?」
 立ったまま外を見ている耳郎が言う。ん、と上鳴が聞き返すと、続けた。
「自分の活動区域で上がる花火を、自分の部屋から見てるのがさ」
 振り返ると、彼女は静かに上鳴の隣に腰を下ろす。
「そういやそうだな。毎年パトロールか事務所待機だったし」
「今年はずっこけたから強制的に留守番だもんね」
「うるせー」

 右足をギプスで固定されているのは、一昨日暴れる敵を捕まえる際に段差を踏み外して変な転び方をしてしまい、運悪く足首の骨が折れたからだ。その時はアドレナリンが出ていたからか全く痛みを感じなかったが、時間が経つにつれて患部は腫れ上がり、足を床につけることさえ辛くなっていった。
 事務仕事ならできるものの、連日休む間もなくヒーロー活動をしていたこともあり、せっかくだからゆっくり休んでおけと事務所からは休暇を与えられている。

 耳郎はからかうように笑って、イヤホンジャックを上鳴の顔に向けた。猫を猫じゃらしで構うみたいな動きで目の前にちらつかせる。ムッとして彼がそれらを掴もうとするが、するっと簡単に逃げていく。それが面白かったのか、耳郎は口角を上げて満足そうな表情をした。無邪気なその姿が目に映ると、うっかりムキになった気持ちがすーっと消えていく。我ながら単純だ、と上鳴は思った。
 耳郎はショートパンツから伸びる色白の脚を投げ出して座っている。肩につかないくらいの短い髪が扇風機のあわい風に吹かれてなびいている。しばらく二人で黙って花火を眺めた。


「この部屋って結構穴場だったんだな。知らなかった」
 さほど大きくは見えないが、住宅やビルに掛からずに花火全体が綺麗に夜空に映っている。このコンディションにならなければ今年も気が付かなかったことだ。昨年まで、パトロールの最中に背中で音を聞くばかりだった花火が、こんなに綺麗だったことも知ることはなかっただろう。
 上鳴は顔に滲んだ汗を手の甲で拭った。すると、それに気付いた耳郎が床に落ちていたうちわを拾い、それで彼の顔をあおいだ。ビビッドカラーで彩られたファッションビルのセール情報が、目の前でちらちら踊る。

 しばらく瞳を閉じて、耳郎が送ってくれるやわらかな風を感じていた。ドーンという音を三回聞いた後、上鳴はもぞもぞと動いて無防備な耳郎の太腿に頭を乗せた。驚いたのか、枕にしたしなやかな筋肉が一瞬だけ固くなる。
「重い」
 居心地悪そうに耳郎は身じろいで、わざと脚を揺らした。
「いーじゃん」
 がんがん首を振られながらも逃すまいと、上鳴は太腿にしがみつく。
「怪我人だから優しくして」
 語尾にハートマークを付けるつもりで上話目遣いでお願いする。全然可愛くないと言いたげに耳郎はクールな瞳で見下ろしてきたが、抵抗は無駄だと悟ったようで止めた。今度はうちわで顔をばしっと叩かれる。うわ、と思わず上鳴の口から声が漏れた。
「さっきドリンクバーもサラダバーも、あんたの注文通りに取ってきてやったでしょ」
「……はい、あざっした!」

 ファミレスではドリンクやサラダを持って来てもらい、行き帰りの歩くペースは自分に合わせてもらい、暑い暑いと愚痴ればうるさいと叱りつつ会話に付き合ってくれた。そして今はうちわであおいでくれている。今日の耳郎が普段よりも優しいことは、本人に言われるまでもなくちゃんと言動の端々から感じていた。
 だから嬉しくて甘えてしまっているのだ。頼んでも滅多にしてくれない膝枕を死守したくて、上鳴は慌てて耳郎の持っているうちわを取った。下から顔をあおぐと、力が強過ぎたのか耳たぶのプラグが揺れて彼女は目を細めた。様子を見ながら少しずつ力の加減を調整する。
「何、お返しのつもり?」
「そーそー」
 献身的にあおぎ続けると、耳郎は一瞬だけ表情を緩めて、でも何も言わなかった。立て続けに上がる花火をずっと見ている。時々自分もあおぎながら、上鳴も耳郎と同じく網戸の向こうに目をやった。

「明後日リカバリーガールがこっち来るらしくて、昨日電話で話したんだけど。久しぶりにちゅーしてくれるって」
「良かったじゃん」
 高校時代、数え切れないくらい世話になった看護教諭の治療シーンを思い浮かべたのか、耳郎が笑う。
「でも、耳郎がちゅーしてくれたらもっと早く治るかも」
 上鳴はうちわの縁で彼女の脇腹を触った。全然くすぐったがりではない彼女はびくともしない。だが何回か繰り返されると煩わしそうに身をよじって、乾いた笑いを漏らした。
「ごめん。知らなかったかもしれないけど、ウチの個性そういうんじゃないんだ」
「ちぇっ、ケチ」
「てか汗かきすぎ。脚湿ってきたんだけど」
 返事をするのが面倒になったのか耳郎は話題を変えた。そして、上鳴の髪に手櫛を通す。口から出た文句とは対照的に、仕草はとても優しかった。彼女が労わってくれていることを上鳴は改めて感じる。これでお願い通りキスしてくれたら最高なんだけど、と思いつつ、子どもをあやすような指先の動きだけで心が満たされていく。

 自分の汗で濡れた膝枕に頭を置き直して、上鳴は再び外を見た。大きな赤い花が夜空をスクリーンにきらきらと咲いて、その花びらが散った跡に金色の光がいくつも垂れ下がる。
 そういえば耳郎と二人きりで花火を見るのは初めてだということに、上鳴は気が付いた。
 高校時代は花火大会があればヒーロー科の皆でわいわい出掛けたし、そもそもその時耳郎とはただの友達同士だった。プロヒーローになって付き合い始めてからは、夏にそんなイベント事を楽しむ暇もなく過ごしている。お互いの誕生日だけは遅れてでもちゃんと祝うことにしているが。
 
 今気が付いたことを耳郎に伝えると、彼女はちょっと考えた後に、
「そうかもね」
 と言った。
 プライベートな時間を削ってでも、人々の平穏な暮らしを守る仕事を選んだのは自分たちの意志だ。だから不満はないが、同年代の若者が海や街で夏を謳歌しているのを見れば羨ましいと思ってしまうのも本音だ。ヒーローと言えども、二人ともまだ二十二歳になったばかりである。地元の友人はまだ学生の者も多い。

 喧騒の中に身を置くことが日常になっているから、ヒーローコスチュームを脱いでいる時だって、休んでいるつもりで無意識にいつでも気を張る準備はできている。眠っていたとしても、緊急出動のアラーム一回目で飛び起きられる自信がある。
 本当に気を緩める時間なんていうのはだから、一瞬一瞬の間だけなのかもしれない。それはたとえば、耳郎の指の腹で地肌を撫でられる瞬間であったり、お互いうちわであおぎ合っている瞬間だったり。
 気づけばもう、耳郎と出会って七年目だ。上鳴にとって彼女はすっかり気の置けない存在になっていて、むしろなり過ぎてデリカシーのないことをつい言ってしまうこともあるが、耳郎も心を許す瞬間が自分とともに居る時間であれば良いと思う。

 ふいに触れたくなって、彼女の顎に手を添えた。唇の下を親指でそっとなぞると、視線がこちらに落ちる。
「ウチはそんな暑くないから、もう良いよ」
 汗をかいた頭を撫でていた手が離れ、耳郎は再びうちわを握った。そして上鳴の顔の上でパタパタとそれを動かす。薄っすら浮いた汗の上を風が通り過ぎていく。


 花火大会も終盤か、ドーン、ドーン、といくつも休みなく音が上がっていた。外からは、はしゃいだ人々の話し声がまばらに聞こえる。
 網戸からすり抜けて入ってくる夜風は夏の終わりの匂いがして、ふいに懐かしさを呼ぶ。それを鼻から吸い込んでいる間だけ、胸の中に少年の頃の夏休みの感覚が蘇る。楽しかった思い出ばかりだ。今の子ども達も自分のように、平和な夏を大人になってから思い出して欲しいと、上鳴はしみじみ思う。
 その平和のために働くべき自分は今、ヒーローらしいこともできずに恋人の膝枕の上で甘えているだけだが……。その分明後日からはまた全力で頑張るから、たまには良いだろう。ヒーローにも良い思い出を作らせてくれ、と上鳴は胸の中で言い訳をしながら耳郎の頬を撫でた。珍しく少しだけ肌が荒れている。彼女のスケジュールを思った。

「耳郎ちゃん優しい」
 上鳴は腕を下ろして、耳郎の空いている方の手を握った。
「ま、怪我人だからね」
 夜空にはスターマインが上がり始めた。派手な音が鳴り、色とりどりの光の花が幾重にも夜空に重なる。思わず上鳴が、おおー、っと喜んだのと、外に居る子ども達が歓声を上げたのがほとんど同時だった。
「子どもと一緒」
 耳郎がそう呟くと、自分の声で聞こえていなかったらしい上鳴は、え、と聞き返した。もう一度言う代わりに耳郎はかすかに笑う。すると身体を屈めて、締まりのない目の前の唇をそっと塞いだ。




2019.08.29



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