雪あかり

 二十年ぶりの寒波が関東を襲った日、勤務から帰る途中で同じく勤務帰りの耳郎に会った。横風に綿雪が乗ってびゅうびゅう吹いて、アスファルトの上をさあっと白く塗り替えていく。周りに風を避ける建物がない歩行者信号の前で、耳郎は寒そうに腕を抱いて傘を手に持っていた。開くだけ無駄だって分かってるんだろう。暗い色の髪も黒いコートもかわいそうなくらい真っ白だった。

「耳郎!」

 吹雪にかき消されないよう声を張ると、呼ばれた本人は振り返った。反対側の歩行者信号の青が点滅する。上鳴、と寒さで固くなった唇をふるわせながら、隣に並んだ俺を見上げた。
 耳郎から風を遮るように立つと、頭に乗った雪を大雑把に手で払った。それから自分が首に巻いていたマフラーをほどいて、頭にかぶせる。信号が青に変わった。
 マフラーが落ちないように小さい頭を手で押さえながら、行こ、と促して二人で足を踏み出す。寒さに身体を縮めたまま耳郎が、ありがと、と言った。それきり何も言わず黙々と前に進むことに集中して、冷たい風にさらされながら、俺らの住む部屋に向かって歩き続けた。




「ひっでーな、これ」
 アパートに辿り着くと、エントランスの手前でコートの雪を払った。
「ほんとにね」
 耳郎も隣で、俺のマフラーを両手で持ってぱたぱた振っている。最後に二人でお互いの背中をはたき合って、冷え切った部屋に帰った。
 靴を脱ぐや否や浴室に入って、リモコンを操作する。浴槽の栓を閉めてからリビングに行くと、耳郎が起動させたばかりのエアコンが静かに音を立てていた。
「今日風呂溜めて良かったよね?」
「当然」
 ハンガーを持った耳郎が、空いてる方の手を俺に差し出した。コートを脱いで、ありがと、と言って手渡す。生地の繊維に入り込んだ雪が溶けて、少し重たくなっていた。すでにカーテンレールに掛けられていた耳郎の黒いコートの隣に俺のも並んだ。手を洗ってうがいをして、ようやくソファに腰を落ち着ける。同じタイミングで二人、安堵のため息をついた。
「上鳴、先で良いよ」
 まだ冷えている脚をさすりながら耳郎が言った。
「何が?」
「お風呂」
「はあ? 今日は一緒だろ」
「えっ」
 ちょっと照れたように耳郎は短く声を上げた。



 耳郎は絶対に俺と風呂に入りたがらない。二人とも芯から身体が冷え切っているのに、こんな時でもやっぱり嫌なのか。ぶれねえな、と思う。何だか寂しいような、いっそ清々しいような。
 付き合い始めたのは半年前、一緒に暮らし始めたのは三ヶ月前。お互い去年に二十歳を迎えたカップルだけど、耳郎にはぐらかされ続けてまだキス以上には進んでいない。同棲しているとは言え、二人とも身体が資本のヒーロー、寝室は別々だ。
 こんな進展具合だから、一緒に風呂に入ることのハードルが高いのは分かるけど、諸々のきっかけ作りに俺は一緒に入りたいとずっと思っている(し、言っている)。でも耳郎が嫌なことは強要したくないから、頑張って色々と我慢をしているのだった。

 けど今日は駄目だ。もちろん風呂の話だ。

 耳郎も充分寒いのが分かっているのに、言われた通りに一人だけ先に入る気にはなれないし、かと言って、お先にどうぞと譲れるほどの余裕がないくらい俺も寒い。
「さっさと一緒に入って早くあったまった方が良いだろ? 電気代も節約できるし、合理的な判断じゃね?」
 人差し指を立ててニッと笑い顔を寄せると、耳郎は一瞬口をぎゅっと閉じた。迷いながら、でも、と呟いたのと、風呂が沸いたことを知らせる音が鳴ったのが同時だった。
 俺は耳郎の手を取って立ち上がり、そのまま脱衣所に押し込んだ。
「入った頃に行く」
 何か言われるかと思ったけど、観念したのか、単純にあたたかい風呂の誘惑に負けたのか、耳郎は黙って頷いた。内心「やったー」と万歳したけど表情には出さず、ひらひら手を振って部屋に戻った。

 もしかしたら俺が入る前にシャワーだけ浴びて出てくるんじゃないかとひやひやしたけど、流石にそれはなかった。浴室のドアを閉める音がしてから、ゆっくり二分を数え、俺も脱衣所に入った。
「入るよー」
 服を脱ぎながら言うと、すりガラスの向こうからほとんど聞こえないくらいの音量で了解の合図が返ってきた。めっちゃドキドキするけど、深呼吸を繰り返して努めて平常でいるよう自分に言い聞かせた。せっかくオーケーしてくれたんだから、機嫌を損ねないようにしないと。裸になって、ドアに手をかけたときに一応、
「開けるよ」
 と伝えた。今度は返事がなかったけど、ちゃぷん、とお湯が跳ねる音がした。数秒待ってから開けると、やっぱり思った通りだった。耳郎は浴槽の端っこに寄って身体を小さくしながら、背を向けていた。
 シャワーの蛇口をひねってお湯を浴びながら、
「あー生き返るぅ」
 と大げさに言ってみたけど、反応はなかった。ガチガチに緊張しているのが、空気から伝わってくる。
 湯船に入る時も声を掛けた。耳郎は小さい声で、うん、と言うと膝を抱いてますますコンパクトになった。さほど大きくない浴槽は、俺が入ると空間がほとんどなくなった。水面が上がってお湯があふれる。
 本当はその色白で引き締まった身体を見たかったし、向かい合ってお喋りなんかしたかったけど、とてもじゃないけどそんな感じじゃないから、俺も耳郎に背を向けた。三十秒くらいして、後ろで耳郎が身じろいだのが分かった。

「……何でそっち向いてんの」

 うざいくらい俺が構いに来ると思ってたんだろうな。おずおずとした口調で言われた。ここまで色んなことを我慢して来たんだから、今日も紳士でいようと俺は決めたのだ。気を紛らわすために素数を数えるのに忙しい。
「だって、見られんの嫌っしょ」
 話し掛けられてどこまで数えたか分からなくなり、面倒だから普通に数字を数え始めた。
 しばらく沈黙した後、ふいに背骨をつつっとなぞられた。くすぐったがりな俺は、変な声を上げて肩をふるわせた。
「……び、びっくったー……」
 思わず振り返りそうになって、気付いて慌てて顔を前に戻す。思わぬ耳郎の行動にやっぱり冷静ではいられず、素直に心臓はドキドキし始めた。

「べ、別に嫌じゃないよ……」
「え?」
 消え入りそうな声で耳郎が言う。
「……恥ずかしい、だけで……」
 身体が風呂の温度よりも熱くなった気がした。たった今聞いた言葉を頭の中で反芻しながら、間違ってないよな、と自分に問いかける。
「振り返って、いーんすか」
 もうすでにのぼせそうだ。
「……いーっすよ」
 ざばっと湯をすくって乱暴に顔を洗うと、その勢いのまま振り返った。耳郎は相変わらず俺に身体を横に向け、体育座りしていた。入浴剤も何も入れていないから、全部丸見えだった。太腿に押された胸の輪郭に目が離せなくなって、気を紛らわすように頭をぶるぶる振る。
 あの耳郎が勇気を出して歩み寄ってくれたのだ、俺も頑張らなくては。
 腕を伸ばし、そっと肩に触れた。耳郎の身体が小さく跳ねる。

「こっち、見て」

 耳郎は遠慮がちに首をこちらに傾けると、真っ赤な顔で見上げてきた。どこを見たら良いか分からない様子で、俺の上半身の辺りで目が泳いでいる。うつむくわけにもいかないもんな。
「照れ過ぎ」
「だって……」
「俺も、照れてる」
 もっと距離を詰めて、細い身体を抱き寄せた。上半身だけ寄り掛かるような格好になったのを、どうにか仕草で促して膝の上に座らせる。
 初めて触れた素肌はやわらかくて、下心よりも何だか感動を覚えた。恥ずかしそうに俺の首筋に顔を押しあてている耳郎の頭に顎をのせる。上から身体を眺めると、すみずみまで女の人だった。俺の胸に添えた手も、膝の折り方も、肩のすくめ方も、全部。
 これは参った。やっぱり下心も湧いた。緊張して喋れないなんて、初めて経験した。


 この後のことは、まあまあまあ。一つだけ言えるのは、こういうのはタイミングだったんだなってこと。あんなに恥ずかしがってはぐらかされてた時間は何だったんだって思うくらいには、自然だった、と思う。







「外が明るい」

 耳郎がかわいた声でつぶやく。何も考えず枕元に置いたスマホで時間を確認すると、四時過ぎだった。もともとまどろんでいたのか、耳郎の声で目を覚ましたのかはよく分からなかった。
 俺の腕をすり抜けて、耳郎はベッドから出ていく。窓際に行くとカーテンを分け、曇った窓ガラスを指でぬぐった。
「すごい、積もってる」
 眠たい目をこすりながら、俺もベッドから下りた。男物のグレーのスウェットを着ている耳郎に後ろから抱きつく。昨夜は風呂場から俺の寝室に直行したから、俺の寝間着を貸した。ぶかぶかで可愛い。自分の服を彼女に着せるって男のロマンだよなあ、と思いながら肩に顔を埋めると、良い匂いがした。

「……さみぃ」
「見てってば。ほら、積もってるよ」
 きゅ、きゅ、と耳郎はもう一度窓ガラスをぬぐった。
 まだ夜中みたいに真っ暗な景色の中、雪がしんしんと降りつづいていた。まだ誰にも踏まれていない真っ白な道路が、遠くの電柱の明かりに照らされている。
「うわ、すげえ。ずっと降ってたんだな」
「ね」
 まだ全然止む気配がない。雪を吹き飛ばす風は夜の間に止んだようだった。音もなく雪が降り積もっていく。このままだと数時間後には、慣れない天気に焦る人たちで溢れるだろう。ここはヒーローの出番だ。

「雪かきすっかあ。アパートの皆さんが出勤する前に」
「そうだね」
 同じことを考えていたらしい、耳郎もすぐ頷いた。俺は耳郎の顔を覗いた。
「俺がやるからいーよ」
 腰をさすってやると、突然イヤホンジャックが飛んできた。鼻の穴に刺さりそうになったところを間一髪で避ける。
「うお、あっぶねー」
「できるから。変な気、遣わないで」
 窓の外を眺めたまま、耳郎は耳たぶのコードをするすると元の長さに戻した。薄暗いから顔色はよく分からないけど、こっちを見ないのは照れてるからだろう。無表情を装っている横顔が、何だかむしょうに愛しく見えた。
「さすが、頼りになるぜ」
 俺は腰に回していた腕に力を込めて、そのまま耳郎の身体を抱き上げた。耳郎は、わ、と声を上げる。床から数センチ浮いて足をぷらぷらさせた耳郎をベッドサイドまで運んで、そのまま二人でどさっとベッドに倒れ込んだ。

「とりあえず、もうちょいあったまってから、な」

 マットに横たわると、まだちゃんと二人分の体温が残っていた。掛け布団をきれいに直して鼻の上までもぐれば、いつもはしない耳郎の匂いがする。それが嬉しくて深呼吸をしたら、何にやけてんの、と腕の中の耳郎に鼻をつままれた。素直に理由を伝えたら、キモッ、って言われた。その仕返しに脇腹をくすぐってみたけど、耳郎には全然効かなくて、逆に俺がやられてしまった。容赦なく腰の辺りを絶妙な力加減でいじってくる。
「あんたが先にやったんだからね」
「ちょっ、……ギブ、ギブッ!」
 笑い過ぎて苦しい呼吸を整えながら、力にものを言わせて何とか、悪戯してくる手を拘束することに成功した。はあはあ言って必死な俺とは対照的に、耳郎は憎たらしいくらい楽しそうな顔をしていた。こんなに自分から触りに来てくれるなんてな、としみじみ思う。これは間違いなく幸せだ。耳郎を抱き込むように身体を丸める。

 耳郎が中途半端に開けたカーテンの隙間から、淡く白い光が射し込んでいた。それは床やベッドや壁の上に細く這って、薄ぼんやりと、俺らの初めての朝を照らしていた。




2020.02.08
2020.12.13 修正



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