花火のあとで

「駄目だ、出ねえ」
 いつまで経ってもコール音しか鳴らないから、俺は諦めてスマホの画面をタップして発信を切った。耳に集中していた意識が散ると、大勢の楽しそうな話し声が流れ込んできて、太鼓や笛の音がぬるくて煙たい風に乗ってやって来る。俺は隣に居る耳郎に目をやった。
「どう? 既読ついた?」
「ううん。つかない」
 耳郎は静かに首を振って、スマホの画面の明かりを消した。顔の周りがふっと暗くなる。
「たぶん皆、普通に楽しんでてスマホ見てないんだよ」
「俺ら居ないの気づいてないんかな」
「適当にばらけてるんでしょ」
 クールな調子で言うと、耳郎はスマホを小さい籠バッグに仕舞った。テンションはいつも通り。だけど見た目は全然そうじゃない。
 浴衣を着ている耳郎の唇には薄っすら赤い色が付いていて、つやつやしている。それをずっと見ていると変な気分になってきて、俺は慌てて目を逸らした。



 今日はA組の皆で雄英高校の近くの夏祭りに来ている。寮を出た時は皆ひとかたまりになって歩いていたのに、いざ夏祭り会場に着いたら人、人、人で、気がついたら俺ははぐれてしまっていた。傍に居たのは耳郎だけ。とりあえず二人で出店の並んだ道から外れて、すぐ皆と連絡を取ろうとしたんだけど、誰も電話は繋がらないしメッセージも返ってこない。
 どうしよう、どうしよう、やばい。俺は内心めちゃくちゃ焦っていた。なぜなら、普段と雰囲気が全然違う耳郎と二人きりで居るのがどうも落ち着かないからだ。周りのもわもわした空気のせいもあってか、汗が止まらないし。ちらっと隣を見れば、耳郎は何てことない顔をして道行く人を眺めている。



 夏祭りに行くと決まってから、芦戸と葉隠が女子皆で浴衣を着ようと言い出した。それを聞いてからというもの俺のテンションは上がりまくりだった。夏祭りに女子の浴衣とか最高じゃん? 言い出しっぺの二人は可愛い感じだろ、麗日もそうだな可愛い系で、赤とかピンクの浴衣が似合いそう。ヤオモモと梅雨ちゃんはきっと大人っぽい感じで大和撫子になるんだろう。
 それは訓練と勉強に明け暮れる厳しい日々に射し込んだ癒しの光。共有スペースでファッション雑誌を開いて盛り上がっている女子達を峰田とソワソワしながら眺めていたら、なぜか眺めているだけだったのに(いや、峰田は何か言ってたかもしれない)、耳郎のイヤホンジャックで攻撃された。耳郎曰く、視線の感じがアウトだったそうだ。
 床に這いつくばったまま俺は、「お前も着んの?」って聞いた。そうしたら耳郎は、「ウチはいいかな」って言ってた。動きづらそうだし、って。うん、まあ言いそうって思った。俺も、ロックファッション好きの耳郎と浴衣が頭の中で上手く結びつかなかったし。
 でも、ちょっと見てみたいような気がしたけどな。実際には言わなかったけど。

 ……ところが、だ。実際今日の夕方に共有スペースに現われた女子達は、六人全員浴衣を着ていたのだった。つまり、着ないと言っていた耳郎も。だから俺はめちゃくちゃ驚いた。びっくりし過ぎて手に持っていたスマホを落としてしまった。キズ大丈夫かって、瀬呂が床の心配をしていた。
 しかも、もし耳郎が浴衣を着るなら、黒とか紺とかそういう色を選びそうだと俺は思っていたんだけど、その予想も外れた。浴衣は白っぽいクリーム色の生地に薄紫色の紫陽花の柄で、濃い赤紫色の帯を締めていて、髪には帯と同じ色の花飾りが揺れて、おまけに薄くメイクまでしてるっていう、何て言うか耳郎は、すごく女の子っぽい感じに仕上がっていたのだった。



 もう一度俺は、そっと耳郎を見た。その瞬間、心臓がどきんと跳ねる。さっきからずっとそう。耳郎なのに、全然耳郎って感じがしない。どうしちゃったんだろう、俺。耳郎なのに。やっぱりすぐに視線を外す。
 誰でも良いから早くクラスのやつらと合流して心を落ち着けたかった。だけど、ずっと握りしめているスマホは何の通知もしてくれない。
「せっかく来たんだし、ウチらも回ろうよ。歩いてれば誰か会うかもしれないし」
 耳郎の耳たぶのプラグが俺の肩をつついた。反射で振り返ると、ばっちり耳郎と目が合った。瞬きをするたびに、まぶたの上でラメがきらきら光っている。そんなことを見つけて、またドキドキしてしまう。
「そ、そうだな! せっかくの祭りだもんな!」
 小さく耳郎が頷いて、髪飾りにぶら下がっているビーズがゆらゆら揺れた。それを見た瞬間に俺は気づいた。耳郎のことを、可愛い、って思ってしまっていることに。





 屋台のある通りはごった返していた。緊張のあまり歩くことに必死になり過ぎて、最初耳郎を置いてきぼりにしてしまった。いくら話し掛けても返事が来ないことに気づいて、慌てて引き返したらすぐに見つかって安心したけど。耳郎は下駄を履いているからゆっくりしか歩けない。そんな当たり前のことを忘れてしまっていた。
「あんた絶対モテないね」
 と耳郎にからかわれたけど、どぎまぎし過ぎて全然上手く言い返せなかった。

 とりあえず歩き回ってるだけじゃ仕方ないから、何か食べようということになった。耳郎に提案されて、腹が減っていたことを思い出した。焼きそば、お好み焼き、たこ焼き、鶏の唐揚げ、あちこちから良い匂いが漂ってくる。
「祭りで食うもんって何でも美味いんだよな~。不思議だよな~。あり過ぎて迷うな」
 食べ物のことを考え始めたら、少しずつ精神が安定してきた。食欲ってすげえ。食欲ありがとう。色んな出店をきょろきょろ見ていたら耳郎に笑われた。
「ウチこだわりないし、あんた選んで良いよ。違うの買って、分けて食べる?」
「お、良いじゃん。そうし……」
 耳郎の姿が目に入って、俺はふと言葉を止めた。
 耳郎は白っぽい浴衣を着ている。全体的に柄は入っているけどその色も薄い。今俺が食べたいと候補に挙げたものは全部、ソースとか油の染みを付けてしまう可能性があるものばかりだった。
「あ、やっぱりカキ氷にしよっかな」
 せっかく新しい浴衣を着ているのに汚してしまったら可哀想だと思った。着慣れないもの着てる時に限って、食べ物を落っことしちゃいそうだし。
「え、お腹空いてるんじゃないの?」
「でもあちーしさ。やっぱ冷たいもんの方が良いかも!」
 急に変わった意見に耳郎は首を傾げたけど、俺は耳郎の肩を押してカキ氷屋の方へ向かった。


 行列に並んでやっとカキ氷を買うと、もうすぐ花火が上がる時間になった。普通の花火大会は明日で、今夜は音楽に合わせて花火が上がる華やかなプログラムがある。去年も一昨年も行けなかったから、俺はずっと楽しみにしていた。
 カキ氷をちびちび食べつつ会場の河原に到着したら、土手は人でびっしり埋まっていた。
「すごいね、人。場所あるかな」
「二人だしどうにか……。あ、あそこら辺空いてる!」
 花火が上がる場所の正面から少し離れた場所は、まだスペースがちらほら空いていた。
「たぶん迫力には欠けるかもしんねえけど」
「いいよ、見れるなら。行こ」
「おう」
 何だかんだで結局二人きりのままだった。皆マジでどこに行ったんだろう。下駄に慣れてきたのかさっさと歩く耳郎の後ろを付いていく。
 最初に比べたらドキドキはマシになってきたけど、今でもふと、色白のうなじとか、片方だけ出している耳とか、きらきらした目元とか、つやつやした唇とかを意識すると平常心では居られなくなってしまう。何かもう、疑似デートしてる気分になってきた。耳郎に言ったら馬鹿にされるかぶっ飛ばされそうだけど。

 石の階段を下りて、土手の斜面の空いているスペースに移動する。二十代くらいのカップルと親子連れのグループの間が空いていたから、そこに落ち着くことにした。雑草が生い茂る足元に座ろうとして、はっとした。
「あ、こんなとこ座ったら汚れるよな。わりぃ気づかなくて!」
 俺はジーパンだからちょっとくらい汚れても全然気にしないけど、耳郎はそうじゃない。土とか草の汁とかが浴衣に付いたら目立ってしまう。あわあわしている俺をよそに、耳郎はバッグから大き目なハンカチを取り出した。
「これ敷くから平気」
「そ、そっか。さすが耳郎、準備万端だな!」
 ぱさっとハンカチを広げて潔く座る耳郎を見て、俺も腰を下ろした。
 俺らはほとんど水みたいになっているカキ氷をすすって、花火が上がるのを待った。スマホを確認したら、ようやく皆に送ったメッセージが既読になっていて、「ごめん今気づいた」とか「花火終わったら合流しよう」とか返事があった。確かにこの人混み、せっかく腰を落ち着けたんだからこのまま動かない方が良いかもしれない。
「芦戸が花火見たら待ち合わせしよう、だって。見た?」
 空になったプラスチックのカップを持った耳郎に聞くと、ぼーっとしていたみたいで、「まだ見てない」とだけ返事が来た。スマホの画面を見せてやると、小さく頷く。何か言うかと思ったらそれきりまた黙った。あれ、と思う。耳郎のテンションが急に下がってしまったように見えたからだ。
「どうした? 何か元気なくね?」
 俺がじっと見つめていると耳郎はカップを足元に置いて、耳たぶのコードを指でいじった。しばらくずっと人差し指をくるくる回していて、何十秒も経ってからやっと、ぽつりとこう言った。
「やっぱり、着てこなきゃ良かった。浴衣」

――まもなく、音楽花火ショーが始まります!

 明るいお姉さんの声でアナウンスが入ると、音楽が鳴り始めた。夏の定番ナンバーが流れて、辺りがざわざわ期待に満ちて賑やかになる。だけど俺にとってそんな喧騒は他人事のようだった。静かな耳郎の横顔に俺の目は釘付けで、他のことは全然気にならなかった。
「な、何でそんなこと言うんだよ。良いじゃん夏祭りって感じで」
 いきなり変わってしまった表情の理由が俺には全然分からなかった。ここに来た時までは普通だった、と思う。座ってからも特に何も起こっていないから、耳郎が機嫌を損ねる原因なんてなかったはず。そもそも耳郎は、こんな風にいきなり感情がぶれるやつじゃないし。
 ただでさえ今日は見慣れない格好で落ち着かなかったのに、中身までいつもと違うなんて、頭の中の処理が全然追いつかない。

「……だって、上鳴つまんないでしょ」
「え?」
 耳郎はハンカチの上に座り直して、浴衣の裾をいじった。
「さっき何か食べようって言った時、あんたさ、ウチが浴衣着てるの気にして食べたいもの変えたでしょ」
「それは、」
「歩くのだってウチに合わせなきゃいけないし、どこ座るかもいちいち気遣わなきゃいけないし。上鳴すごく楽しみにしてたじゃん、今日のお祭り。なのに食べたいものも食べれなくて、ウチと二人になったせいで全然楽しめてないよなって」
 そこまで一気に言うと、耳郎は自分の膝の上に手を置いて俯いた。
「せめて着るなら、もっと汚れが目立たないような色にすれば良かった」
 平坦な声の調子に、ちょっと湿っぽい響きが混ざっていた。最後の方は俺に聞かせているというよりは独り言みたいだった。
 この言葉を聞いて俺は、夕方に共有スペースで待ち合わせをした時に、葉隠とヤオモモが耳郎を囲んでいた景色をふっと思い出した。

――やっぱりこっちにして良かったね! すっごく似合ってるよ!
――紺色もお似合いでしたが、こちらの方が涼し気で素敵ですわ。
――うん、ありがと。皆と選ばなかったら白なんて買わなかったかも。

 女子達皆で浴衣を買いに行った時の話をしていたんだろう。今着ている浴衣は皆にすすめられて手に取ったのか、それとも自分で着てみたいと思ったのかは分からないけど、どうやら耳郎は紺色の浴衣とこの白い浴衣で迷っていたみたいだった。それで皆の意見を聞いて、ちょっと冒険をしてみた。そんな感じだったんだろう。
 ヤオモモと葉隠からストレートに褒められて、耳郎のイヤホンジャックはぷらぷら揺れていた。それは明らかに照れている合図。ちょっと頬を赤くした耳郎は恥ずかしそうにしながらも、でもすごく、嬉しそうにしていた。

 日曜日、どこへ出掛ける用事がなくても耳郎はよくシルバーのアクセサリーを着けていて、自分の好きなロックテイストの服を着ていて、いわゆる女の子っぽさは全然ないんだけど、自分のこだわりを持ってお洒落をするのが好きなんだろうなってのはすごく伝わってくる。
 だから今日だってきっと、最初は着ないなんて言っていたけど、こういう格好をするのをすごく楽しみにしていたんだと思う。実際、女子達で楽しそうに何枚も写真を撮っていたし。俺だって気に入ってる服を着るとテンション上がるから、あの嬉しそうだった耳郎の気持ちは分かるつもり。
 だから、「着てこなきゃ良かった」なんて言葉を聞いた瞬間に、心臓がぎゅっと握られたみたいに胸が痛くなった。白い浴衣にして良かったと喜んでいた耳郎が、違う色にすれば良かったと後悔している姿が、俺はすごく嫌だった。だって今、耳郎めちゃくちゃ悲しいじゃん。

「全っ然、そんなことねえよ! 俺はすごく良いと思うぞ、この浴衣!」
 俺は耳郎の方に身を乗り出して、周りの音に負けないように声を張った。俺の下手くそな気の遣い方でこんな思いをさせてしまったなんて思うと、たまらなかった。
「大人っぽくて涼しい感じするし! 俺、お前ならもっと黒とか紺とか濃い色選びそうだと思ったからびっくりしたけど、断然白い方が良いと思う。何か意外だけど、すげえ似合ってるし!」
 夜空にはいつの間にか花火が上がり始めていた。だけど俺らはまだひとつも見ていない。足元の雑草に落ちたままだった耳郎の視線が、ようやく俺の方を向いた。
「そうだな、それに……。あ、そうだ、清楚な感じ! 清楚な感じする! この柄とか帯の色は耳郎っぽくて似合ってるし! ちゃんと髪飾りも色合わせてるの良いと思うし!」
 こんなに色々言っているのに、耳郎の瞳はまだ何かを探るような様子だった。そこで俺は、肝心のことを伝えていないことに気づいた。
「そもそも俺、楽しいから! お前と回ってつまんねえなんて一ミリも思ってねえよ!? カキ氷も美味かったし。ブルーハワイ最高!」
 実際はほとんど緊張していた記憶しかないんだけど。でもそれは別に、つまらないってことじゃない。浴衣を着た耳郎と並んで歩いているだけで何だかすごく特別な気分になって、耳郎の表情もいつもよりちょっとやわらかく見えたりして、こんな雰囲気の耳郎も居るんだって新しい発見ができて、俺はすごく。
「それに俺、今日のお前すげえ――」

 ドーン! と一発でかい花火が上がった。続けて何発も休みなく昇っている音が聞こえる。音楽がサビに差し掛かったみたいだった。あちこちからワーッと歓声が上がる。

「……すげえ、何?」
 いつの間にか距離が縮んでいて、目の前に耳郎の顔があった。暗いから顔色なんて全然分からないけど、さっきまでのしょんぼりした感じはもうなかった。遠慮がちに聞き返す声が少し色っぽくて、耳の底にやたら残る。きらきらのまぶたの下で潤んでいる瞳に見上げられて、思わずトクンと胸が高鳴った。

 俺はたった今、何を言ってしまったのか。自分の心に問い掛けつつも、もちろん分かっている。勢い余って今まで耳郎に一回も言ったことのないようなことを口にしてしまった。
 花火の音にかき消されてしまったらしいその言葉は、間違いなく俺の本心だった。今日の耳郎を見てからずっと、ずっと、心の中をいっぱいに占めてしまっている気持ち。
「あ、いや、その……」
「何て、言ったの?」
 だけど本心だとしても、そんな二回も三回も言えるもんじゃない。恥ずかし過ぎる。瞬きの合間に光る瞳に真っ直ぐ見つめられて、そこに俺の視線は吸い寄せられて、目が離せなくなる。近づき過ぎた身体を引けない。
「何って、それは、」
 だって俺、耳郎にそんなこと一回も言ったことがないのに。ていうか、何でこんな時に限って耳郎めちゃくちゃ食いついてくるんだよ。
 強い目力で俺の顔を見つめていた耳郎は、俺がどもっていたらふいっと視線を外した。
「言いたくないなら、いいよ」
 いつも耳郎がこういうことを言う時は、本当にそう思っている感じであっさりと言う。だけど今は、そうじゃなかった。ちょっとむくれて、いじけている感じ。そのままぷいっと首を振って、耳郎は空を見上げた。音楽はいつの間にか変わっていて、相変わらず賑やかなメロディーに合わせて派手な花火がバンバン上がっている。

 つんと上を向いた耳郎の横顔を見ていて俺は、あることに気がついた。風なんか吹いていないのに、耳郎の耳たぶのコードが揺れている。プラグが上を向いたり下を向いたりぷらぷらしている。それは数時間前、ヤオモモと葉隠に褒められていた時と同じような動きだった。

 あ、もしかしてこいつ、本当は――……。

 珍しくしつこく聞いてくる様子や、拗ねた顔、いじけたように首を振った仕草がふっと頭の中によみがえる。今もまだ落ち着きがないイヤホンジャックを見て、確信した。こいつ絶対分かって聞いてきたな。
 ドク、ドク、ドク、と心臓の音が大きく身体の中で鳴り響く。今日で俺、何回心臓うったんだろう。汗がじっと背中ににじむ。そんな何回も聞いてどうすんだよ、耳郎。今日のお前のこと、俺さっぱり分かんねえや。

「……は、花火が終わったら、もう一回言ってやるよ」
 また聞こえなかったなんて言われたら、どうしようもないから。

 やけくそで言った言葉は情けないことに震えてしまって、ちゃんと耳郎の耳に届いたか、周りの喧噪にかき消されてしまったか。分からないけど、俺はもう開き直って花火を楽しむことにして、色とりどりの光が咲いている空を見上げた。隣ではずっと、耳郎の耳たぶのコードが恥ずかしそうに揺れている。




2020.08.23



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