思い出ひとかけ

 最近は朝晩になるとぐっと冷えるようになってきたから、そろそろ鍋の季節だなと思っていた。そうしたら、勤務終わりに確認したスマホには「今夜は鍋だよ」って耳郎から連絡が入っていた。俺より一足先に家に帰った耳郎が今、夕飯の支度をしてくれている。全然夕飯の希望なんて言っていなかったのに、ばっちり心が通じていたみたいなことが起こると嬉しくなる。「お、耳郎も同じこと考えてたんだ!」って。

 耳郎からのメッセージを見て俺は、新発売の缶チューハイを買うためにスーパーに寄り道をした。この間テレビでCMが流れた時に、「美味しそう」と耳郎が呟いていたやつだ。これは、鍋の準備をしてくれている耳郎へのお土産。明日は二人ともオフだから、今夜はちょっとくらいアルコールを飲んでも良い日で、俺もこのチューハイは気になっていたし、せっかくなら二人で飲みたかったし、今夜の献立は鍋だし、まさに今日が良いタイミングだと思った。

 スーパーを出て歩いていると、ズボンのポケットに入れていたスマホが震えた。通知を確認すると「ありがと」という一言と、真顔でピースしているパンダのスタンプが耳郎から届いている。新発売のチューハイを三種類全部買ったって、さっき報告した返事だ。それに対して俺は、「あと10分くらいで着く!」と返した。こんな他愛のないやりとりに、思わず顔がにやけてしまう。


 俺と耳郎は、一ヶ月前に一緒に暮らし始めた。しかもただの同棲じゃない。来月には入籍することになっている、結婚前提の新生活だ。お互いプロヒーローだから勤務が不規則なこともあって、休みが合うことはあまりないけど、同じ家に帰れるっていうのはやっぱり良い。
 しんどいことがあっても、どうでも良いことを話しながら顔を合わせて飯食ってると気が楽になるし、隣で眠ると安心するし、とにかく家に帰るのが楽しみになった。俺にとって耳郎はもちろん彼女なんだけど、やっぱり今でも友達でもある存在だ。最近はさらに家族っていう感じも追加された。耳郎は全然変な気を遣わなくて良い相手だから、初めての二人暮らしはとても快適で信じられないくらい順調だ(耳郎は内心どう思ってるか分かんないけど)。

 俺はスマホをポケットに仕舞って、鼻歌まじりで家路を急いだ。「あー、勇気出してプロポーズしてマジで良かった!」と、今月何回思ったか分からないことを心の中で叫びながら。




 とまあ、玄関のドアを開けるまでは気分が上がりまくりだったんだけど、それはすぐに落ち着くことになった。出迎えてくれた耳郎の様子が何だかいつもと違ったのだ。気のせいかもしれないと思って、飲みたいと言っていたチューハイを見せてみたけど、反応が薄い。
 やっぱり変だなと確信しながら靴を脱いでいると、
「上鳴に言わなきゃいけないことがある」
 と何やら深刻な調子の声が背中に投げかけられた。

 耳郎の後ろについて部屋に入る。何って尋ねても教えてくれなくて、「ちょっと」としか言ってくれなかった。歩き始めてまだたった十秒程度しか経ってないだろうけど、沈黙が怖すぎる。
 まさか、やっぱりまだ結婚したくないとか、一緒に住んでみて無理って思ったとか……?
 嫌な予感が胸を過る。あ、今朝脱いだパジャマそこら辺に投げたまま家出ちゃったわ。使ったマグカップも流しに置きっぱなしだったかもしれない。やべえ。……でもそれくらいなら普通に怒ってくるか。
 思わず手のひらを口に当てて、考え込む。それとも、絶対考えたくないけど、他に好きな人ができたとか……。いや、さすがにそれは……。
 暗い様子の耳郎に良からぬ想像が止まらない。言わなきゃいけないことってマジで何? 今言えば良いじゃん!? うきうきしていた気分はすっかり吹き飛んで、心臓の鼓動がいやに速くなっているのが手に取るように分かった。

 だからキッチンに連れて行かれて耳郎に謝られながらあるものを見せられた時、それはそれでなかなかショッキングな光景だったんだけど、俺の良からぬ予想は外れたということはすぐに理解できた。
 俺が視線を落とした先、キッチンの床には新聞紙が敷いてあって、その上に割れたガラスがあった。黄色や白い色がついた透明の破片が集められている。一目見て、それがもともと何だったのかすぐに分かった。それは俺のグラスだった。

 最悪の事態を免れてほっと気が抜けたけど、今度はお気に入りのグラスが割れたという事実がじわじわきた。良かったけど良くない、みたいなよく分からない気持ちになって、とりあえず息を吐く。それを耳郎は、俺が怒ってため息を吐いたと受け取ってしまったみたいで、「ごめん」と肩をすくめてもう一度弱弱しく言った。慌てて俺は首を振る。
「あ、いや、そうじゃなくて! てか、怪我してねえ?」
「……うん、してない」
 耳郎の手を見てみたけど、本当に傷はないようだった。
「ごめん、棚から出す時に手が滑って……」
「まあ、やっちゃったもんはしょうがねえって。大丈夫、大丈夫。怪我なくて良かった」
 気に入っていたものだったから残念には違いないんだけど、割れてしまったことをどうこう言っても仕方ない。そもそも耳郎だってわざとやった訳じゃないんだし。
「……ごめん」
「そんな落ち込むなって」
 耳郎の方が見ていて気の毒なくらい、俺よりもしょげていた。その理由は聞かなくても分かる。
 これは耳郎と色違いで持っているお揃いのグラスだった。三年前に二人で旅行に行った時、吹きガラス工芸の店で見つけたもの。俺は黄色、耳郎は紫色ベースのまだら模様が入ったデザインを選んで買った。

 俺はしゃがんで、何となく大きな破片を拾ってみた。見ればわかるけど、見事に割れている。雑に扱って壊れたら嫌だからと、このグラスを俺はそんなに頻繁には使っていなかった。もっと使っておけば良かったと今さら思う。もう仕方ないけど。
 耳郎も同じようにしゃがんで、俺の手元を見ているようだった。かすかに鼻をすする音がして、俺は慌てて顔を上げた。
「……えっ、もしかして泣いてる? 大丈夫!?」
「泣いてない、けど」
 ガラスを置いて、耳郎の顔を隠している横髪を手でよける。言葉通り耳郎は泣いていなかったけど、瞳はじっと潤んでいるように見えた。落ち着きかけた心臓の鼓動が、また少し速くなる。
「お、俺、全然怒ってねえから! 大丈夫大丈夫! 気にすんなって!」
 耳郎との付き合いは長いけど、俺は数えられるくらいしか耳郎の泣いているところを見たことがない。だから耳郎が泣くかもって思うと途端にソワソワしてしまう。未だに慰め方が全然分からない。わたわたしながら耳郎の背中をさすると、すうっと息を吸う音が聞こえた。
「……これ、あんたと初めてお揃いで買ったものだったね」
 割れたグラスに視線を落としながら、静かに耳郎は言った。



 俺らは二人で旅行に行く度に、こういう日用品とかちょっとした飾り物とかを揃いで買うことが多い。A組の仲間からペアの物をプレゼントされることもたまにある。だから俺らは、このグラスに限らずお揃いのものを結構持っている。もはやどれがお揃いだとか意識していないくらい色々ある。だから忘れていたけど、そうだ、これが一番古かった。

 このグラスを旅行先で見つけた時、俺らの間にはまだ結婚の「け」の字も出てなくて、一緒に住む予定もなくて、でも二人ともすごく気に入ったから色違いで買って、それぞれ家に持ち帰ったのだった。一ヶ月前の引っ越しでお互いちゃんとこのグラスを持ち寄って、二つは店で売られていた時ぶりに一緒の棚に並んだ。それが俺はすごく嬉しくて、今改めて考えてみても、やっぱりすごく幸せなことだったんだなとしみじみ思った。

「……もうすぐ結婚するのに、こんなタイミングで割るとか縁起悪いよね」
「おい、やめろよ~。偶然だって、偶然」
 力なく床の上に投げ出された耳郎の手に、俺は自分の手を重ねた。もう一つの手も持ってきて、両手ともぎゅっと握る。そして子どもをあやすみたいに、軽く上下に振ってみた。力が抜けてる耳郎の腕がぷらぷら揺れる。
 耳郎もこのお揃いのグラスをしょっちゅう使っているわけではない。それをどうして今日は使おうとしたのか、俺は何となく分かっていた。

「俺がチューハイ買って帰るって言ったから、これ出して準備してくれてたんだろ?」
 うなだれている顔を覗く。耳たぶから下がるプラグも何だかしょんぼりしてしまっているように見えて可哀想だった。耳郎はこくんと頷いた。
「……あんたとお酒飲むの、久しぶりだし。せっかくだから、これ使おうって」
「やっぱり。ありがとな」
 そんな気がしていた。俺は手の動きを止めて、強く耳郎の手を握った。
 励ましておきながら、俺も何だか切なくなってきた。もうこのグラスを使えないんだなっていう実感と、俺が思っていた以上にお揃いのものを大事に思っていてくれた耳郎の気持ちと、悲しさと嬉しさが混ざったマーブル模様の感情が心の中でぐるぐるしている。

 俺は繋いだ片手をほどいて、わざとぐしゃぐしゃに耳郎の頭を撫でまわした。耳郎は抵抗しないでされるがままになっている。俺は耳郎の髪を思う存分ぼさぼさにしてから、力なく揺れている耳たぶのコードを指で撫でた。
「物は壊れちまうこともあるけどさ、思い出は消えねえから」
 そして、まだ潤んでいる瞳とじっと見つめ合う。
「な、」
 割れてしまったものはもう戻らないけど、これがあったことで出来た思い出とか、生まれた気持ちとか、そういうものはなくならないじゃんって、気づいた。もちろん、忘れなければだけど。
 だからちゃんと覚えていようって、俺は思った。旅行先で買った時のことも、一人暮らしの部屋で耳郎のことを考えながら使った日のことも、この一ヶ月間同じ食器棚の中で隣に並んでいたことも、割れてしまって二人で寂しい思いを味わったことも。
 耳郎は縁起が悪いだなんて言ったけど、俺はこれからの日々を思って背筋が伸びるような気持ちがしていた。

 しばらくしゅんとしていた耳郎だったけど、ちょっと何かを考えている素振りをした後、大きく息を吸って頷いた。
「……うん、そうだね」
 それと同時に、俺の指に耳たぶのコードがくるくるっと絡みついてくる。その強さから、気分が少し上向きになってきたのを感じた。良かった、と心から思う。俺が笑うと、耳郎もちょっと唇の端を上げるくらいだけど、笑ってくれた。

 それから二人でグラスの後片付けをして、鍋の支度をした。食卓に食器を並べ終えて食べ始める前に、俺はもう一度耳郎の頭を撫でながら、
「大丈夫」
 と呟いた。




2020.11.14



| NOVEL TOP |