FOR YOU

 イベント会場のグラウンドへ戻ろうとする途中で、俺は廊下の端っこでスマホとにらめっこしている耳郎を見つけた。
「おーい、じろう~」
 人混みをかきわけて耳郎に近づいていく。俺の声に気づいて、耳郎が顔を上げた。
「あ、上鳴」
「何してんの? 一人?」
「あぁ、うん。ヤオモモといたんだけど、はぐれちゃって。電話したけど出ないから、今連絡待ちしてるとこ」
 耳郎は手に持ったスマホを軽く振ってみせた。
「そっか。俺今あっちの方から来たけど、特に見掛けなかったな」
「上鳴は? あんたも一人じゃん」
「俺はこれからイベント会場行くとこ。峰田が席取っておいてくれてんだけどさ、ちょっとトイレ行ってきただけ」
「ふーん、そっか。あ、シメのイベントもう始まる?」
「あともうちょい、三十分くらい」

 その名の通りお祭りのように楽しかった文化祭も、あと少しでフィナーレだった。ミスコンの結果発表や、各クラスの出し物の人気投票結果が発表されるシメのイベントがこのあと五時から始まる。
 といっても、もう終わりだなんて感じさせないほど、辺りは陽気な雰囲気に満ちていた。食べ物の出店はだいたいもう売り切れているけれど、お化け屋敷とかアスレチックとか、イベント系の出し物はまだまだ賑わっている。
 みんなまだ文化祭を終わらせたくない、そんな風に思っている気がする。俺もそう。明日も文化祭になんないかなーと割と本気で思っている。

 と、俺はふと気がついた。
 今朝のA組のステージが終わってから、ちゃんと耳郎と喋るのは今が初めてだって。
 同じステージですぐ次の出し物が予定されていたから、片付けやら掃除やらで余韻に浸る暇もなかったし、撤収してからは速攻でミスコンを見に行ったから、ほとんど会話らしい会話もなかった。

「あ、つーかさ、お疲れ! そういやバタバタしてあんま話せなかったけど、今日の耳郎すげーカッコ良かったぜ!」
 でも思い出せばすぐに、気持ちはあのステージの上へ戻っていく。
「もう俺、最初っからテンション上がっちゃって。お前の、よろしくお願いしまーす! で鳥肌立ったわ。最後のフェイクも良かったし、あとは、」
 話し始めたら急にステージでの興奮がよみがえってきた。そう、だって、たった六時間くらい前の出来事なんだから。でもそう思うと、まだ六時間しか経ってないんだ? っていう、もっと前のことのようにも感じられる、何だか不思議な気分がする。

 俺の顔を見ていた耳郎は、途中でもう耐えられないといった感じで、ぱっと目を逸らした。
「……あー、ウチのことはいいから、もう」
 そして恥ずかしそうに斜め下を見つめながら、軽く手を振る。照れているっていうのがもろ分かりの態度。
 あ、いつもの耳郎に戻ってんの。俺はそう思った。
 ステージの上で堂々と演奏をして思い切り歌って、身体全部を使って自分を表現してますみたいな、とにかく弾けている耳郎はここにいなかった。あれすごく良かったから、何だか名残惜しい気持ちもするけど、やっぱりこういう耳郎の方が見慣れていて安心する気もする。

「てか、あんたよく寝れなかったって言ってたけど、全然大丈夫そうだったね」
 俺が勝手に複雑な気持ちになっていたところで、耳郎はそう言った。思考に飛びかけていた意識が帰ってくる。
「あぁ、うん。始まる前はさあ、もうドキドキで心臓が口から飛び出そうだったんだけど。いざ始まっちゃったら、あっという間だったな」
「分かる」
 そういえば俺、今朝は寝不足だったんだ。そんなことももう忘れていた。
 昨日の夜は目が冴えて全然眠れなくて、寝なきゃと思うとますます眠れなくて、頭の中では演奏を失敗する悪い想像ばかりが膨らんでいった。それで結局、ようやく朝方に気絶するように寝たものの、それもほんの数時間で、バッキバキの目のまま朝を迎えていたのだった。起きた時は目の下にクマができていた。
 起きてみんなと話しても、着替えて準備が終わっても、ずーっとソワソワが治まらなかった。ステージにスタンバイした時なんかもう、まだ何もしていないのに汗かいてたし。

 だけど実際に演奏が始まったら、そんな緊張はすべて吹き飛んでしまった。とにかく楽しい、めちゃくちゃ楽しい!
 最初は無事に終われますようになんて祈っていたのに、最後のサビに入る時には、このまま終わらないでほしいと思っている俺がいた。ずっとずっとこのまま演奏していたい、終わってしまうのがすごく寂しいくらい、ワクワクが止まらなかった。

「それにね、あそこも上手くいったじゃん」
 耳郎がちょっと口角を上げて、わけあり気に俺を見上げる。
 すぐに何のことか察した俺は、手を叩いた。
「あぁ、そうそう! そうなんだよ。マジで良かったー!」
 話が通じたと分かった耳郎も、俺を見て笑う。

 俺には、どうしてもサビの手前で上手く指が動かない部分があった。しかもそれはここ五日くらいのこと。最初はできていた、というか別にそんなに難しいと思っていたところでもなかったのに、慣れてきた頃に急につまずくようになってしまった。
 三回に一回はできないというかなりの確率で失敗をしていて、その失敗の記憶がさらに俺に意識させるのか、どつぼにハマると全然できない日もあった。本番まであともう日がないのに何でだよと、泣きたくなるくらい焦った。

「あそこマジで鬼門だった。マジで。昨日の最後の合わせでも結局できなかったからさ、もう俺ダメかと思った」
 そして昨日の放課後、最後に五人で練習した時も俺はそこを間違えたのだった。何かもう、マジで絶望的だった。よく眠れなかったのは絶対そのせいもある。
「でも今日は、最初から聞いてて大丈夫そうだなって思ってたよ。まあ別に、ちょっとくらい間違ったって問題ないんだけどね」
 確かにそんなに目立たない音ではあった。いつもは俺に対してずけずけとものを言う耳郎もさすがに心配してくれたのか、それとも、もうこいつはどうしようもないと思って諦めたのか、こういうなだめるような言葉を掛けてくれてはいた。

「んー、でもさあ、耳郎はそう言ってくれたけど、てかそれはめちゃくちゃ有り難かったんだけど! やっぱ俺は完璧にやりたかったんですよね」
 耳郎の言葉は確かに俺の心を軽くはしたけれど、だからと言って「まあ、いっか」とはならなかった。俺はやっぱり失敗したくなかった。
「上鳴今回、結構完璧主義みたいなとこあったよね」
 完璧主義、そう言われてみると、そういう側面があったような気がする。というか完璧主義だなんて俺、生まれて初めて言われたな。
「そりゃあ、やると決めたからにはやっぱりちゃんとやりたいし、みんなの足引っ張りたくないし」
「仮に間違ったとして、足引っ張ったなんて思う人いないよ」
「まあ、そうだけど。そうなんだけど……。んー、何て言うかなあ」

 自分で言うのも何だけど、このギターの練習はかなり頑張った。こんなに何かに打ち込むことって、俺にとってはかなり珍しいこと。おまけに完璧主義だなんて、しかも耳郎に言われるなんて、そうとう熱中できていたんだなと改めて思う。

「やっぱ俺が嫌だったんだよね、何より」
「できない自分が嫌ってこと?」
「うーん、自分がっつうか、うん、まあ。何つうかな……」
 できない自分が嫌っていうのももちろんある。せっかく練習したのに本番で上手く弾けなかったらやっぱり悔しいし。でもそれだけじゃない。俺がやろうと思えたモチベーションは、それだけだと足りない。

 どうしてこんなに頑張れたのか、そして絶対に間違えたくないと思っていたのか。それはやっぱり、耳郎が一生懸命だったからだ。
 最初はあんなに自分の趣味に自信がなくてモジモジしていたのに、いざ腹を括ったら本番に向けて一直線に、自分の時間のほとんどをこのステージのために捧げて突き進む。そんな姿を見て何も思わなかったら嘘だろう。

 それに何より俺が感動したのは、耳郎の「音楽が好き」という、その気持ちだった。それってめちゃくちゃシンプルなこと。でも耳郎の言動の端々からあふれ出ていたものは、すべてこの一言に尽きる、と俺は思っている。

 耳郎、本当に音楽が好きなんだな。練習を始めてから毎日、そう感じない日はなかった。
 この耳郎の好きが生み出すエネルギーを止めたくなかった。どうにか成功させたいと思った。やって良かったと、耳郎に思って欲しかった。何で耳郎目線で見てんだよって感じだけど、なぜか俺はそう思ったのだった。

「……耳郎、すげえ頑張ってたじゃん、本っ当に色々とさ。マジで、すげえみんなのために時間使って、頑張って、自分の練習もあんのに。……そういう耳郎の頑張りっていうか、努力に、俺がミスることでケチつけたくねえなって。まあ、そういう、感じかな」

 いつもそう思いながら練習をしていた。耳郎自身に言うのは初めてだけど。
 ていうか、これは終わったから言えたこと。練習中に言っていたら、ウチのことは良いから自分のこと考えたら? とか返されそうだし(それはその通りだし……)。

 耳郎はしばらく黙った。何かを考えているのか、少し目線を下げたままでいた。
 この沈黙を聞いている俺は俺で、自分の言ったことを頭の中で反芻していた。何かちょっと、改まると恥ずかしい気もしてきた。俺あんまり耳郎に、こういう真面目なこと言わないし。

「……上鳴って、案外気にしいだよね」
 どんな言葉が返ってくるんだろうと緊張していたけど、耳郎はそんなことを言った。それで何だか肩透かしをくらった。俺の話じゃなくて、耳郎のこと言ってんのに、って。
 でも、真正面から来ないで少しかわすようなその感じに、どこかほっとしている俺もいた。

「案外は余計だろ~」
「ミスは別に気にしなくて良いって、何回も言ったのに」
「それはそうなんだけど。でも、」

 俺がそこまで言い掛けたところで、耳郎もまた「でも、」と言った。お互いの同じ言葉がハモって、ふいに沈黙する。その瞬間に目が合って、耳郎が俺を真っ直ぐ見た。髪色と同じ、紫がかった黒い瞳に見つめられる。
 それはほんの数秒しかなかった。耳郎がすぐに目を逸らしたから。けど、その逸らされるまでの時間を、俺はものすごく長く感じた。

「……でも、ありがと」
 耳郎は、つぶやくそうにそう言った。
 そして五秒ほどおいてから、再び口を開いた。

「その気持ちだけで、ウチは嬉しい、よ。……それに、上鳴だってすごい頑張ってたじゃん。常闇も上鳴の練習量褒めてたし、ヤオモモも上鳴さんがあれだけやってるから私も頑張らなきゃって言ってたし。爆豪とのやり取りとかもさ、上鳴がいて助かったことも何度もあったし」

 小さく頷いて、ひとつひとつ確認しているように、耳郎は言った。普段の調子よりもゆっくりとした話し方で、そのせいか俺の中にも耳郎の言葉がじんわりと染みるように入ってくる。

「……うん、だから、ウチこそ助けられてた気がする」

 スマホを持っていない方の手で、耳郎は自分の耳たぶのコードをいじった。人差し指にくるくると巻き付けるようにする。
 耳郎が口を閉じても、俺はなかなか言葉が出なかった。耳郎が今言った言葉が頭の中で何度も何度も自動再生されていて、それをずっと聞いていた。何周もしてからやっと、俺に感謝を伝えてくれているのだと、遅れて頭が理解した。

「……そっか。それなら、良かった」
 俺は何秒黙っていたのか、ようやく出てきた言葉はこんな当たり障りのないことだった。
 耳郎がせっかくあんなに褒めてくれたのに、何かもっと気の利いたこと言えよ! と内心騒ぐ俺がいて、でも、いやこれは何も言えないわ、としみじみしている俺もいた。
 後からだんだん、実感が込み上げてくる。俺、そうか。耳郎の役に立ててたんだな。それなら、良かった。本当に。
 結局心の中でも思うのは、さっき口に出した言葉だった。これ以外に今の俺の心情を表わす言葉は、たぶんなさそうだった。

「……あっ、ヤオモモからだ! 出て良い?」
 唐突な耳郎の声に、急に目が覚めるような思いがした。
「ど、どうぞどうぞ」
 反射で手を差し出すと、耳郎はスマホを耳に当てて、ヤオモモと通話を始めた。
 雰囲気的に、どうやらヤオモモとはすぐに落ち合えそうだった。耳郎の普段通りの喋りを聞きながら、俺の心も少しずつ平常に戻っていくのが分かった。
 じゃあ、と言って耳郎はスマホの画面をタップする。
「玄関のとこで待ち合わせることになったわ」
「お、そっか。連絡取れて良かったな」
 そこでちょっと変な間が空いた。でもそれに対してはお互い何も触れずに、先に耳郎が動いた。
「じゃあ、行くね」
「あ、うん」
「今日はお疲れさま」

 さっと右手を上げて、ひらひらと振りながら耳郎は回れ右をする。生徒玄関は、俺が行くグラウンドとは反対方向だ。だから耳郎が俺に背を向けて行ってしまうのは当たり前なんだけど、耳郎の後ろ姿を見た俺はなぜか、(あ、もう行っちゃう)という気持ちになった。
 このままあっさり別れちゃいけない気がして、俺は気がついたら、耳郎を呼び止めていた。

「あっ、あのさ、耳郎、」
「うん?」
 俺の声に耳郎が振り返る。どうしたのって顔でこちらを見ている。それは俺も同じだ。どうして呼び止めたのか、分かっちゃいないんだから。だけどそれを正直に言ったら完全に変なやつに思われる。
 だから何か言わなきゃ。何か、何でも良いからとりあえず。

「よ、夜の打ち上げの時さ、もうちょい話さねえ……ってか、あの、えーっと……」
 考える前に喋り始めたら、そんなことを言っていた。
 もうちょい話さねえ、と言ったところで耳郎が怪訝そうに俺を見たので、そこで完全にパニクってしまった。(あれ、俺、そんな変なこと言った?)って。耳郎のその反応を見て、何だか急に変な汗が噴き出てくる。

 でも確かに、わざわざ呼び止めてまで「後でもっと喋ろう」なんて変だったかもしれない。だってそんな約束をしなくたって、耳郎とはいつでも喋れるのに。
 なのに事前にこうやって言っておくなんて、ちゃんと理由があるみたいじゃん。いや、ないんだけど。今何か喋らなきゃって思ったから、ひとまず出てきた言葉なだけであって……。

「……そう、そう! ほら、お前今日すげえアレンジしてたとこあったじゃん! 指どうなってんの? みたいな、あとやっぱ最後のフェイクんとことか、そういうの、もっと聞きたいし!」

 グッジョブ、俺。
 頭をフル回転させたら、ちゃんとそれらしい理由が出てきた。ていうか自分で言っておいてなんだけど、そういえば俺、耳郎に今日のこと聞きたかったんだった。だからこれはマジで本音。

 俺を見ていた耳郎の目から、不審そうにしていた色が消える。それに代わってみるみるうちに、頬がほんのり赤く染まる。そしてまたあの照れた表情になった。
「いや、恥ずいからいいって」
「いーや、良くない。俺は聞きたい!」
 きっぱりと言い切る俺に対して、耳郎は恥ずかしそうに自分の手でちょっと顔を隠していた。形勢逆転。堂々としていれば大概のことってどうにかなるんだな、うん。良い勉強になった。

 耳郎は視線を外したまま、えー……、と不満げにつぶやいていたけれど、何か思い直したのか、最後にはしぶしぶといった調子で頷いてくれた。
「うーん……、まあ、そうだね。じゃ、また打ち上げの時に」
「おう! じゃ、また!」

 俺が元気良く手を上げると、耳郎は今度こそくるりと反対方向へ向かって歩き出した。一度も振り返ることなく、俺らの距離は離れていく。
 そりゃそうだ。別に耳郎がこちらを振り返る理由なんかないんだから。なのになぜか俺は、そんなことを考えてしまっていた。

 その姿が曲がり角に差し掛かって見えなくなるまで、俺はずっと耳郎から目が離せずに、その場に突っ立ったままでいた。




2023.06.29



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