マイ・ホーム

 ベッドに背中を預けると、身体に馴染んだ硬さを感じて心地良く力が抜けた。一年半前に買ったこのマットレスは、上鳴とかなりこだわって選んだものだ。
 左肩の怪我をかばいつつ手足を緩く伸ばすと、ほっと息が漏れる。
「やっぱり、家が一番良い」
 あくびをひとつ噛み殺すと、ベッドのスプリングが沈んでキシッと音を立てた。
「そうだよな」
 笑いながら上鳴もベッドに上がり、ウチの隣に寝そべった。顔をこちらに傾けると、風呂上がりでさらさらな前髪が目元にかかる。ウチは手を伸ばして、それを耳にかけてやった。
「別にウチに付き合わなくても良いよ」
 時刻はまだ九時を回ったばかり。今夜は上鳴の好きなトーク番組があるのに、ウチがもう寝ると言ったら俺もと寝室に付いて来た。
「付き合ってねーもん。俺がそうしたいだけだし」
 そう言うと身体を起こし、足元にまるまっていたタオルケットを広げて自分たちのお腹に掛ける。そして指先で弱くウチの左肩をなぞった。「痛い?」と聞かれて、「大丈夫」と答える。本当は痛いはずだけど、久しぶりに家に帰って来た安心感のお陰か、和らいでいるような気がした。


 十日ほど前に敵との交戦中に怪我を負い、ウチはそのまま入院した。
 学生時代から生傷は絶えなかったけど、一週間以上入院したのは初めてだった。思いのほか左肩の傷が深く、治療に時間が掛かってしまったのである。傷を塞ぐ個性を持った看護師さんが病院に居たお陰で、これでも早かった方だと思う。しばらく安静にしたらリハビリを始めないといけない。

 上鳴はもう一度横になると、枕元のスイッチを押して明かりを消した。もぞもぞと近寄って来て、身体が触れ合ったところで止まる。自分の腕を枕にしながら至近距離でウチを見つめているのが、暗闇の中でも何となく分かった。空いている方の手がこちらに伸びてきて、ゆっくり髪を撫でられる。何度も何度も繰り返されていたら、頭があったかくなってきて、うとうとしてきた。
 まぶたの重みを感じながらまどろんでいると、上鳴の唇が開く音がした。「あのさぁ」と静かにつぶやいた声に適当に頷く。

「耳郎が居なかった時、すげえ朝から眠い日があって」
「うん」
「コーヒー飲もうとしたんだよ」
「うん」

 上鳴の声はしっかりしていたから、うっかり眠ってしまわないように、ウチはまぶたを中指の腹でこすって気を紛らわせた。

「ぼーっとしてたらコーヒーの粉こぼしちゃってさあ。結構」
「何してんの」
「まあ、それで目ぇ覚めたんだけど。やべって思ってテーブルの上のかき集めて、床に落ちたのは掃除機で吸って」
「朝からご苦労だったね」
「そんなことしてたら、俺、朝から何やってんだろって虚しくなってきて」
「いや、へこみ過ぎでしょ」

 一人でしょんぼりしながら健気に掃除機をかける上鳴の姿が容易に想像できて、ちょっと笑った。こいつは普段元気なわりに(いや、だから?)、弱る時は本当に弱る。大したことのない理由で、「そんなに落ち込まなくても良くない?」ってくらいへなへなになっていることもある。単純なことに、復活も早いけど。

 短いながらも相槌をうっていたら、だんだん目が冴えてきた。あの眠気に素直に身を任せて眠ったら気持ち良かったんだろうな、っていう名残惜しさはあるけど、喋りたがっている上鳴をひとりで放っておくのも今夜は気が引けたから、これで良かったんだろう。

「だってさー、耳郎が居たら一緒に片づけてくれんじゃん」
 上鳴は鼻先をウチの髪にくっつけた。
「え、ウチ居てもそんなん手伝わないよ」
 ほとんど反射で声が出たから、とても素っ気ない響きになった。
 子どもじゃあるまいし、床にインスタントコーヒーをこぼしたくらい、大人ひとりで片づけは充分だろう。意外に世話焼きだと思われてるんだな、と他人事みたいに思った。
 ウチの髪に頬を寄せていた上鳴は顔をぱっと上げ、ウチの顔を見た。暗闇に目が慣れてきたから、上鳴が一瞬ぎゅっと眉を寄せていじけたような表情をしたんだろうということが分かった。

「……だ、だとしても! 何かその辺には居てくれるんだろうなーとか思って」
「まあ、それはそうかも」

 上鳴は口をとがらせたまま、こつんと額を合わせてきた。前髪越しにゆっくり体温が伝わってくる。ウチの反応が思い通りにならなかったのか、子どもみたいなリアクションをするのが可笑しくて笑っていると、そっと両手を握られた。

「……早く帰って来ねえかなあって、毎日思ってた」

 静かに鼻から抜ける息が頬にあたる。
 やけに実感のこもった言い方で、ウチは思わず、手を握り返していた。



 上鳴はウチが入院してすぐ着替えを届けに来てくれて、休日はもちろん、勤務がある日も時間をつくっては見舞いに来てくれた。いつも通りの明るい調子でウチの体調を尋ね、その日あったことをひとつふたつ話した。買ってきたリンゴの皮を危なっかしい手つきで剥き、不揃いなうさぎリンゴを二人で食べた日もあった。ウチの事務所の人と会えば気さくに喋り、退院する頃には医者や看護師とも顔見知りになっていた。

 たった十日程度の入院期間。最初の頃はほとんど寝ていたせいもあってか、自分としては結構あっという間だった。だけど、いつもと変わらない部屋で、ひとりで暮らす時間の長さをウチも知っている。

 今日帰ってくる時、ある程度散らかっている部屋を想像していた。だけど思っていたよりもずっと綺麗だった。同棲を始めた時に家事の分担は一応決めたけど、お互い「めんどくさい」だとか「疲れた」だとか言ってジャンケンして押し付け合う日がよくあるから驚いた。
 二人の部屋を保つために一人で黙々と日々の雑事をこなしてくれた上鳴のことを改めて思う。大人なんだから身の回りのことを自分でするのは当たり前といえば当たり前なんだけど、ウチは上鳴のことを甘やかしてあげたいような気持ちになった。
 繋いだままの手の片方をほどき、わしわしと上鳴の頭を撫でる。上鳴は目を閉じ、黙ってじっとしたまま素直に撫でられていた。
 
 元気に病室にやって来たどの日の朝に、上鳴はキッチンでコーヒーの粉をこぼしたんだろう。覚えている限りの表情を思い出してみたけど、全然分からなかった。すぐに話せば良かったのに、言わなかったのか言えなかったのか。上鳴のそういうところをいじらしいと思う。

「ただいま」

 やわらかい髪の毛を手櫛で何度も梳くと、上鳴は目をゆっくり開けた。そしてウチの身体をそうっと抱き寄せる。首元に鼻が当たって、息を吸い込んだ時、帰って来たと思った。上鳴の匂いをかいでこんな風に思うなんて、高校時代の自分が知ったら驚くだろう。
 ゆっくり瞬きをしていると、嬉しそうな調子を乗せた吐息が耳元をくすぐった。

「おかえり」




2020年7月~8月の拍手お礼SSでした。



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