Stray mind / p.3

 居酒屋を出て駅に向かう足取りはゆっくりだった。上鳴が歩調を合わせてくれていた。ウチのアパートの場所を知っている上鳴は、
「電車乗る? それとも歩く?」
 と聞いてきた。ここからアパートまで、歩いて帰ることもできる距離だ。一時間くらいかかるけど。

 そんな風に聞かれたら、「歩く」と答えてしまう。
 結局飲み会で二人で話したのは、上鳴がグラスを合わせにきた時だけだった。ウチが来るのを待ってたと言う割にはあっけなくて、正直物足りなさを感じていた。
 一緒にいる時間が延びるのなら、一時間歩く方を選んでしまう。何も聞かずに、さっさと電車に乗せてしまえば良いのに。そう思いながら、歩く、とつぶやいた。まだ九時半前だった。
「そうだな、電車乗って酔うと悪いし。酔い覚ましだな」
 上鳴も賛成してくれた。

 駅へ向かう道から外れて、徒歩の経路をたどる。飲み屋街の喧騒から離れて、土手道に上がる。明かりがぽつりぽつり灯っているだけで、静かだった。
 上鳴の住んでいるアパートは、そういえば居酒屋から近かったことを思い出す。卒業して間もない頃一度だけ、瀬呂と遊びに行ったことがあった。
「ごめん、遠回りっていうか、無駄に歩かせて」
「全然いーよ、気にすんなよ。あ、コンビニで水でも買えば良かったな」
「大丈夫、持ってる」
 鞄からお茶のペットボトルを取り出して一口飲んだ。会話は全然弾まなくて、たびたび訪れる沈黙がなぜか胸をじりじりと焼いた。

 やっぱりウチ、コイツのこと好きなんだ、と改めて思った。たった一目見ただけで、たった一言貰っただけで、そわそわする心が面倒くさくて仕方なかった。今全部終わっちゃえばいい、と衝動的に思った。酔っぱらっているせいか、ヤケになったんだと思う。

「上鳴の部屋に一緒に帰っても良いよ」
 とても気軽な調子で言えて、自分でびっくりした。上鳴が一拍遅れてこちらを見る。
 ウチは顔を上げられなくて、視線だけ上鳴にやった。きっとにらんでいるように見えただろう。上鳴は笑った。
「ばーか、もう高校生じゃねえんだぞ。俺だからいーけど、酔ってるからって男にそういうこと言うもんじゃないよ」
 かっと顔が恥ずかしさで熱くなる。さっきヤケを起こした強気は一瞬にして影を潜め、あー痛い痛いと心の中で繰り返した。
「冗談だし」
「耳郎もそういう冗談言うようになったんだ」
「悪い?」
「別に。意外って思っただけ」
 終わっても良いなんて思っていたのに、幻滅されたかな、なんて不安になってる。弱気のまま足元に目を落としていると、
「耳郎って酒弱いの?」
 と上鳴が話題を変えた。
「そんなに弱くないけど、今日は久しぶりに飲んだからかな。あと皆に会えて気が抜けたっていうか」
「わかるわかる。なんか安心するよな」
 上鳴がへらっと笑う。軌道修正完了。
 それからは、さっきの飲み会で皆から聞いたことを、上鳴が楽しそうに教えてきて、へーそうなんだ、とか、ウチもそれ聞いたとか、適当な相槌をうっていた。





 二十分くらい歩いた時、なぜか躓いてしまった。何かが落ちていた訳でもないのに、脚をあまり上げずに歩いていたからか、つま先がつっかえて、前につんのめる。さすがに転びはしなかったけど。上鳴が笑ってきょろきょろと後ろを振り返った。
「え? 何もねえじゃん。何してんの」
「ちょっと躓いただけ」
「大丈夫かあ? プロヒーローがそんな運動神経で」
「うっさい」
「もー、危ねえな」

 それはすごく自然な仕草だった。上鳴がウチの手を握った。

「また転ぶと悪ぃから」
 そう言って、照れる訳でもなく今までと何も変わらない調子で笑ってる。
 どうしてこんなことをするんだろう。胸に湧いたのは、あの高三の夏みたいなときめきじゃなくて、行き場のない腹立たしさだった。怒りに震える胸を抑えるように深呼吸する。あーほんと、コイツのこと大嫌い。

「上鳴ってさあ、誰にでもこんなことすんの?」
 声が少し震えてしまったことが悔しかった。怒りに任せて喋っても良かったけど、そんなのは格好悪いと思ってできるだけ気持ちを抑える。だけど心臓は大きく音を立て始めて、自分の緊張を煽った。
 上鳴が短く、え、と声を漏らす。
「そうならやめた方が良いよ。ウチみたいに、勘違いする女がいるから」
 やめた方が良いと言っておきながら、潔く振りほどけない自分が女々しくて嫌だった。上鳴が驚いたように、
「耳郎?」
 とウチを呼んだ。口は開けているけど言葉が見つからない様子だった。コイツが手をほどく前に、何か言う前に、全部言おうと思って、震える唇を開いた。
「あんたは忘れたかも知れないけど、高三の夏にお祭り行った時も、こんな風に手つないでくれたじゃん? 上鳴からしたら、いや、他の女子にしたって、これくらい何てことないのかもしれないけど……。ウチ男子と手つないだのなんて初めてでさ、しかもそれが上鳴ですごく嬉しかったんだよ」

 普段は自分自身、なかなか認めたくない素直な気持ちが口から出て、かっと身体が熱くなった。涙が出そうになる。
「本当ごめん。そんなつもりないのにね。何であんたなんかさ……。上鳴は友達だからいーのにね」
 顔を上げると、驚いてこわばった表情のまま固まった上鳴がいた。引かれてんのかな、と思ったけどもう戻れないし、続ける。
「もう二十歳だし、周りの友達は彼氏いてそれなりに恋愛して、色んなことしてるけど……。ウチはいまだに、あんたと手つないだ思い出なんか大事に持っちゃってんの。馬鹿みたいでしょ」
 喋れば喋るほど胸が苦しくて、視界が滲んだ。上鳴の前で泣きたくなんてなかったけど、こらえるのも面倒で乱暴に手首で目元を拭う。
「もー、しんどい」

 自分で言って、すごく腑に落ちた。そう、ずっとしんどかったのだ。
 誰だろう、恋愛は甘いとか幸せとか綺麗になるとか言ったのは。自分が恋心に初めて気づいた時の感想は、面倒くさいだった。勝手に心がかき乱されて、そわそわして、自分の心がコントロールできなくなる。苦しくて、寂しくて、恋なんてするもんじゃない、と何度思ったことか。もう諦めようという決意が、一晩寝ればリセットされてしまって逆戻り。何も知らなかった頃に戻りたくて仕方なかった。
 しんどい、という言葉が心の枷を外して、子どもみたいに泣き出してしまった。

 上鳴が一歩、距離を詰めた。息遣いも、口を開く時の唇の音もやけに冴え冴えと聞こえた。
「耳郎、ごめん。軽率だった」
 ズキンと胸が痛んだ。何度も自分に、勘違いだからと言い聞かせていたくせに、期待を捨てきれずにいた本心を痛みに突き付けられて、惨めで仕方なかった。
「俺のせいで、耳郎がそんなに思い詰めてたなんて全然知らなくて……」
 手がほどかれた。続きはもう聞きたくなかった。
 嫌だよ。終わらせたいなんて嘘だった。
 思わず耳をふさごうとしたら、その腕を上鳴が力強く止めた。そして気づいたら、上鳴の腕の中にいた。
「ごめん。もっとちゃんとすれば良かった」
 抱き締める腕が強くなって、上鳴が頬をウチの頭につけたのが分かった。
「ごめん、許して」
 え、え、え? と心が追い付かない中、頭は何となく状況を理解し始めていて、心臓の鼓動がさっきとは違う意味でとくんとくんと速く打ち始めた。すぐそこにある上鳴の心臓の速い音もはっきり聞こえた。
「俺も、耳郎のこと好きだよ」
 そう言って上鳴は、ウチの耳に優しく口付けた。





 上鳴はウチが泣き止むまで抱き締めて、背中をさすってくれた。泣きじゃくる声が静かになって一分くらい経ってから、もう大丈夫? と顔を覗いてきて、何だかばつが悪くて黙って頷いた。背中に回した腕をほどいて、上鳴は今度はウチの二の腕を優しくつかみ、目線を合わせるように屈んだ。

「俺だってさあ、緊張してたんだぜ。高三の夏祭りの時」
 恥ずかしそうに眉が下がって、口元が引きつっていたけど、瞳は真っ直ぐだった。
「え?」
「覚えてねえの。俺めっちゃ手汗かいてたじゃん。耳郎気持ち悪いだろうなって思ってたのに」
 光って見えるくらい濡れたあの日の手のひらの感覚が、ふとよみがえった。
「あれ、ウチの汗かと思ってた」
「いや、俺のだよ」
「いや、ウチのもあったよ」
 上鳴が笑った。
「何だよもう」
 泣き止んだばかりで顔の筋肉が疲れていて、ウチはしぶしぶといった感じで弱く笑った。

「俺、マジで耳郎がこんな風に思ってくれてたなんて知らなかった。とりあえず勇気出して夏祭りで手をつないでみたものの、三年の時って忙しかったじゃん。耳郎はストイックだからさ、俺が変に近づいて耳郎のペース乱したり、邪魔したら悪いなって思って、結局何もできなかった。サイドキックになって一年目はなおさら忙しくて俺も何か余裕なくてさ。耳郎は俺のこと、友達としてしか見てないみたいだったから、どうしたもんかと……。まあ、俺だってアホなりに色々と考えてたわけよ」

 急に饒舌になったのは照れ隠しだろうか。暗くて顔色はよく分からないけど、酔いのせいだけではなく、上鳴の頬がほんのり赤くなっているような気がした。
「そしたらさっき、あんな冗談言うからさ」
 ウチがヤケになった、あの時の台詞のことを言っている。
 羞恥心で顔が熱くなる。よくもまあ、あんなこと言ってしまったものだ。後悔はしていないけど。

「でも耳郎がああいう冗談言う人だとは思えないから……、まあ、俺のこと気にしてくれてんのかなって思って」
 上鳴は、人差し指で頬を掻く。
「で、手つないでみたら怒られちった」
 叱られた子どもみたいに、しゅんとして見せる。その姿が何だか憎めなくて、苦笑した。ひとつ息をつく。
「ウチだってあんたがそんな風に考えてたなんて、気がつかなかったよ」
「じゃあ、同じだったんだな」
 上鳴はすっかり安心しきった顔をしていた。ウチも、今までの苦悩は何だったんだろう、と拍子抜けしてしまった。

「今日の同窓会なんて、耳郎に会うために来たんだから」
「何か軽い」
 へらっと笑った上鳴をにらんで見せる。
「ほんとほんと」
「その割には、大して話さなかったじゃん?」
「だって、ずっと耳郎に話し掛けてたらがっついてるみたいで格好悪いじゃん。それに同窓会だから、他の奴らとも話したいだろうな、と思って」
 ウチはこんなに思い詰めていて、一方上鳴は笑って余裕があって、何だか自分の方が好きみたいでそれが少し悔しかった。そればっかりは仕方ないけど。
「ウチのこと送るのも、最初は芦戸に頼んでたじゃん」
「え? 聞いてたの?」
 驚いた上鳴の様子に、盗み聞きをした罪悪感を今さら覚えた。
「……聞こえた」
「耳郎に隠し事できねーな。最初から送る気満々だとがっついて見えるっしょ。芦戸ならああ答えると思って、だから俺芦戸に頼んだんだもん。最初から俺が送ってあげるつもりでしたよ」
「はっ。本当、調子良いんだから」
 得意気な顔をぐっと寄せてきた上鳴の頬を、ウチは耳たぶから下がるプラグでつついた。なぜか上鳴は嬉しそうに目を細めた。
「てか本当は耳郎があんなに酔っぱらわなかったら、二次会行くふりして二人で抜けて飲み直そうと思ってたのにぃ」
「どこまでが本気か分かんないんだけど」
「全部本当。さっきも言ったけど、脈あるって思ってなかったの、俺は。だからこういう小細工しちゃうの。本命なんだから、慎重になるだろ、そりゃ」
 本命なんだから、から少し声が低くなって、思わずドキッとした。上鳴がぎゅっと、ウチの手をもう一度握った。
「ま、歩こうぜ」
 そう言って先に歩いていく。引っ張られてよろめいた後、速足で並んだ。

 この夜がずっと続けばいいのに、と思ったら、勝手に口が動いていた。
「今日、泊まってく? ウチ明日休みなんだ」
 言い終わるのと同時に、上鳴が握る手に力を込めた。だけど、返事は仕草と裏腹に、
「泊まんない」
 だった。上鳴は困ったように、空いた方の手で髪を乱暴に掻く。
「だからそういうこと言うなって。俺、一応酔ってるからな。ちなみにちゅーもしませんよ、今日は。最初は素面の時がいい」
 耳にキスしたじゃん、と思ったけどそれは言わなかった。

「あんたって結構面倒くさいんだね」
「はあ? そこはキュンとくるとこだろ? あー女の子って怖い怖い」
「キュンとした、キュンとした」
「もー。男はね女が思ってるより純情よ。今日のことは全然後悔してないし、良かったって思ってるけど、酔っぱらって告白って、俺したくなかったもん」
「はいはい、すみませんでしたね」
「結果オーライだから良かったんだけど。マジで」
 そう言ってウチの顔を覗き込み、いたずらっぽく笑う。
「実は、明日俺も休みなんだ。耳郎に会いに行っても良い?」

 無邪気なだけじゃなくて、どこか穏やかな笑顔だった。初めて見る上鳴のそんな表情がウチは何だか恥ずかしくて、ぶっきらぼうに返事する。
「いーよ」
「じゃあ、起きたらすぐ行く。で、もう一回ちゃんと言う」
 切れ長のアーモンド形の目が、じっと見つめてくる。コイツって真っ直ぐなのか、ふらふらしてるのか、よく分からない。簡単にウチのこと惑わせてきて、ほんとずるい。
「いーよもう、別に」
「俺がやりたいの。面倒くさい男に付き合ってよ」
「わかったよ」
 アパートに着くまで、久しぶりに明るい気持ちで、上鳴と軽口をたたき合った。玄関のドアの前まで送ってくれて、本当にキスはせず、頭だけ撫でられて別れた。


 玄関に足を踏み入れたら身体がオフモードになって、酔いや、沢山泣いた後の気怠さや、感情が振れた疲れを一気に感じた。それでも、それすら心地よく感じてしまうくらいには浮かれていた。しばらく座ってぼんやりしていたけど、眠りそうになって慌ててシャワーを浴びた。飲み会後の身体のままベッドに入るのだけは嫌だった。
 髪を乾かして、ミネラルウオーターを飲んで一息ついたら、上鳴からのメッセージがスマホに届いていた。丁度良い電車を捕まえられたらしく、「いま帰ったよ。おやすみ、また明日。」と、帰宅の報告だった。絵文字も顔文字もスタンプもないメッセージが、何だかちょっと照れているように見えて、そっけない文面が心をくすぐった。

 そっか、これからはこんな何てことないことを送り合ったりするのか、と自分たちの関係が確かに変わったことを実感した。
 ウチも同じ調子で、「送ってくれてありがとう。また明日ね。おやすみ。」と返した。




2019.01.03 pixivへ投稿
2019.08.23 サイト掲載・修正



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