卒業 / p.2

 上鳴の部屋のドアをノックすると、ドアを開けた本人は意外そうな顔をした。
「あれ、もう終わったの」
「うん。みんな気遣ってくれて」
 ポテチの袋を上鳴の胸に押し付けて、こいつの身体の横から部屋を覗いた。
「明日女子に何か奢ってやんなきゃかぁ?」
 嬉しそうに緩んだ声を上げた上鳴とは反対に、ウチはため息をもらした。
「全然片付いてないじゃん」
「いやー、これでも進んだ方なんだけど」
 苦笑しながら上鳴が頭を掻く。

 部屋の中には、中身が半分くらい入った口が開きっぱなしのダンボール箱が三箱置いてあって、床の上には教科書や漫画、服にごちゃごちゃした雑貨が転がっている。
「まずはいるものといらないもの分けなよ」
「それをやってるんですよ」
 調子良く人差し指でウチを指して笑ったけど、それは無視してベッドに腰掛けた。床は足の踏み場もなかった。適当に漫画を拾う。
「え、手伝ってくれんじゃないの?」
「はあ? 自分でやりなよ」
 見られたくないものもあるでしょ、と漫画を開きながら言うと、べっつにー、と上鳴はポテチをローテーブルの上に置いた。
 漫画を読んでいるウチをしばらくじっと見つめていたけど、本当に荷造りを手伝ってもらえないことを悟ったらしく、大人しく片づけを始めた。

「これはいるだろ。これもいる」
 独り言をつぶやきながら、床から物を拾って、ぽいぽいとダンボール箱の中に入れているようだ。
「これは絶対必要だし、あーこれなぁ……これもいる」
 思わずぷっと吹き出してしまった。
「全部いるんじゃん」
 だったらさっさと詰めれば良いのに、と思って漫画から顔を上げると、上鳴がウチを見てニヤッと笑った。
「ウェーイ、笑った」
「真面目にやれ」
 とん、と足先で丸まった背中を小突く。上鳴は下唇を突き出していじけた振りをして、今度は本当に片づけを始めた。




 来月から上鳴は関西、ウチは首都圏にあるヒーロー事務所に入所することが決まっている。お互い二年生の時からインターンでお世話になっている事務所だ。
 三年生に上がる少し前、この部屋で上鳴と進路の話をした。

「響香は卒業した後も今行ってるとこが良いの?」
 ウチらはベッドに並んで腰掛けていた。
 二人きりの時だけ、上鳴はウチのことを名前で呼ぶ。付き合い始めてすぐそうなった。ウチは頼まれた時しか名前を呼ばない。癖がつくとみんなの前でもうっかり呼んでしまいそうで、嫌だったからだ。
「うん。事務所から断られなければだけどね」
「大丈夫っしょ、お前なら」
 上鳴は手に持っていたプリントの束を丸めて、ポンとウチの肩をたたいた。その書類は、雄英高校生をインターンで受け入れている事務所のリストだった。
 そっかー、と上鳴は丸まった書類を開いて、そこに視線を落とした。
「上鳴もそうなんでしょ?」
 ホッチキスで止められた紙をめくりながら、気のない返事をする。それを覗き込むと、シャーペンで薄くいくつかの事務所に印がついていた。一瞬だったからよく見えなかったけど、たぶん全部関東にある事務所だった。

 すぐに、ぱっと、上鳴がウチの視線から隠すようにプリントを避けた。
「うん、そう、俺も今のとこ」
 そしてそれを乱暴に自分の後ろへ放る。口を開きかけたウチを静止するように、手のひらをこちらへ向けた。
「分かってる。そういうので選ぶもんじゃないって。魔が差しただけっつーか」
「……」
「分かってるから、そういうの響香が嫌うってのも。全部、分かってる」
 ウチがまだ何も言っていないのに、上鳴は頬を赤くしたままそう言い終えると、勝手にこの話を締めた。怒られるとでも思ったのだろうか。

 上鳴の言葉を借りれば、ウチだって同じように魔が差して関西の事務所を調べたことがあった。それでもやっぱり今のインターン先が一番良いって思えたから、そこでの就職を望んだ。多少不純な動機だとしても、もしかしたらより自分の個性を活かせる場所を見つけられるかもしれないし、結果オーライなら他に目を向けてみても良いんじゃないかなって思ったけど、これ以上触れてほしくない雰囲気を痛いほど感じたから黙った。
 よく調べて本当に行きたいと思えたら良いんじゃないって、言いたかっただけなのに。



 三十分ほどで床に散らかっていたものは片付いた。まだ棚には物が載っているけど最初に比べたら大きな進歩だ。何より上鳴が荷物を送る日まであと一日あるから、多少さぼっても間に合うだろう。何だかんだで最後にはちゃんとするのが上鳴だ。
「疲れたー」
 声とともにため息を吐き出すと、上鳴はウチの隣に腰掛けた。勢いよく座ったから、ベッドのスプリングが跳ねる。こちらに手を伸ばして、ウチの鎖骨のあたりに顔をくっつけながらもう一度、疲れた、と呟いた。吐息が当たったところが一瞬温かくなる。
 抱きついたまま体重をかけられ、上鳴を支えきれなくて、ベッドに倒れ込んだ。胸に頭の重みを感じながら、まだ壁にぶら下がったままのダーツボードをぼんやり見上げた。
「重いんだけど」
 上鳴は、うん、と口の中でつぶやく。そしてもぞもぞと動くと、ウチの顔の両脇に肘をつき視界をふさいだ。逆光の中、目の前の表情を伺う前にキスをされる。唇の表面をそっと触れ合わすだけの口付け。時々角度を変えて何回かした。上鳴の着ているパーカーの脇腹辺りを掴むと頭を撫でられ、唇が離れる。

 息ができないようなキスなんてしていないのに、上鳴は苦しそうにひとつため息をついた。珍しく、ちょっと眉を下げて気弱そうな表情をしている。
 あんたも同じなんだ、って思った。当たり前か。
 鼻の奥がつんとして、それをやり過ごすために少し目を細めた。

 秋、お互い自分の希望する事務所に内定が決まって、良かったねって二人で言い合った。その時に喜びと一緒に湧いた反対の感情は、ずっと見えない振りをしてきた。自分の夢を叶える旅立ちに、恋愛の感傷なんて持ち込むものかとちょっと意地になっていた。
 だけど、さっきの女子会で梅雨ちゃんが言った言葉が胸にすっと入った。寂しいって悪いことじゃないだ、って。ネガティブだと思っていた感情を素敵と言える、そういう梅雨ちゃんの大人びたところ、好きだなって思った。

 力の抜けた耳たぶのコードを勝手にいじっている上鳴を見ながら、ウチは静かに息を吸って、ずっと言えなかった言葉を伝えた。
「寂しいね」
 上鳴は手の中のおもちゃから目を上げて二回瞬きし、苦笑した。
「おい。言うなよぉ」
 言葉とは裏腹に、その音は少しだけ、ほんの少しだけ嬉しそうに聞こえた。待っていた言葉を言えたのだと分かった。
 上鳴の長い前髪が揺れて、頬にさわさわと触れる。くすぐったくて、指でその金色の髪をすくうと、上鳴の耳に掛けた。
「あんたとあんまり会えなくなるの、寂しい」
 指を離すと、やわらかいその髪の毛は数本だけ、耳のカーブに収まらずに逃げた。

 もっとこういうこと、言えば良かった。ウチの弱気を紛らわすためじゃなく、ウチの前でいっつも格好付けようと頑張ってたあんたのために。
 上鳴の下唇が、ぴくっと小さく震えた。
「俺も、寂しい」
 そしてもう一度、覆いかぶさってくる。上鳴の唇はいつもあたたかい。すっかり馴染んだその温度を唇に感じると、すぐに離れた。
「……口、開けて」
 かすれた声でつぶやかれ、何も考えずに従った。舌が差し込まれる。最近覚えたこういうキスも多少は慣れてきたのに、試しにやってみた最初の時みたいにいつも上鳴はこう言う。もう言わなくても良いのに、と思うけど何だかおかしいから黙ってる。

 色んな二人の初めてを、ひとつひとつ確認し合いながら上鳴と経験していった。
 こいつが初めて手を握ったのも、ファーストキスをしたのも、相手はウチじゃなかったけど、ナンパが好きで女慣れしてるのかと思いきや、ウチらの初めては全部ぎこちなかった。元カノがいた割には、それほど深入りしたことはしてなかったんだって分かって、何だか嬉しかったのを覚えている。
 そういう演技をしている訳ではないのはすぐ分かった。ウチと同じように、上鳴の心臓もいつもバクバク鳴って、うるさくて仕方なかったから。

 唇が離れて、お互いの熱くうるんだ吐息が口元で混ざる。息継ぎを終えてすぐにキスを再開し、今度は何も言わずに口の中をかき回された。
 ウチの頭を撫でていた指がゆっくりと下りてきて耳の輪郭をなぞり、耳たぶをやさしく揉んだり、コードを指に絡ませたりする。キスの長さも、触れる手の動きも、今までじゃれてやってたようなものとは違って、少し戸惑った。でも色んな思いがない交ぜになって、止めてと言えなかった。
 ただ感情に流されてるだけだって、分かっていた。すぐそこに迫った寮生活との、級友との、制服との、恋人とのさよならが、当たり前だった日常をきらきらと輝かせる。答えが見つからないまま、二人の身体の隙間でさまよっている上鳴の手を握った。びっくりするくらい熱のこもった手をしている。
 上鳴が顔を上げ、しばらく見つめ合った。

「響香、」
 上鳴は真顔のまま沈黙を破ると、一瞬だけ手をほどいて指を絡めるかたちに変える。
「今日、一緒に寝よ」
 ぎゅっと痛いくらいに力を込めた後、強弱をつけて何度も握られる。手のひらに集約された熱に妙な生々しさを感じて、ふっといつもの自分が戻ってきた。
「……調子乗んな」
 思いのほか低い声が出た。上鳴はゆっくり身体を起こした。
「えー、今いい雰囲気だったじゃん……」
 そして、分かりやすく残念そうな顔をする。
「今日ならオッケーしてくれそうな……イテッ」
 ぴん、と耳たぶのプラグで上鳴の唇を弾いた。
「ばか」
 上鳴は空いた方の手で口をさすりながら、いじけたような瞳をこちらに向け、でも目が合うと笑った。
「冗談だよ、ジョーダン」
 ウチの様子に合わせて、おどけた調子に切り替えたのが分かった。ちょっと押して手応えがなかったら、すぐ何てことない顔する、いつもの上鳴が目の前にいる。やっぱりウチらが湿っぽいのは嫌だなって思った。簡単に雰囲気に呑まれてしまったし、上鳴は隙あらばいかがわしいことをしようとするし、これじゃ芦戸達を怒れない。

「てか、ウチが変なこと言ったからだね。ごめん」
 上鳴と同じように身体を起こし、どちらともなく手を離した。慣れないことは言うもんじゃないと急に恥ずかしくなる。キスの最中にちょっとだけ泣きそうになったのは内緒だ。
 梅雨ちゃんみたいに寂しさを受け止めて達観できるのはいつだろう。

 うつむくと、上鳴の手が頭に触れた。
「俺は嬉しかったけど?」
「……そう」
「俺ばっか思ってんのかなとか、考えてたから」
「そんなわけ、ないじゃん」
 目線を落とした先に向かってつぶやくと、雑に髪を撫でられた。
「だからちょっと安心したぜ。遠距離する自信出てきた」
 へへっと笑っている上鳴を見て、そんなに不安がってたことを初めて知った。意外だ。こいつのことだから寂しいとは言いつつ、結構楽観的に考えてると思ってたのに。

 でも、そうか。

 ヒーローになる以上、近くに住んでいたってお互いの大事な時にすぐ駆け付けられないかもしれないのに、ウチらは新幹線に乗らなきゃ会えない距離になるんだから。
「大丈夫っしょ」
 ぐしゃぐしゃになった髪を直しながらそう言った。まあどうにかなるっしょ、って気楽に構える姿勢を教えてくれたのは目の前のこいつだ。自分の真似をされたのに気づいたのかどうなのか分からないけど、上鳴は短く、おう、と明るく返事した。太腿をぽん、とたたかれる。
「ネットニュース開けばすぐ活躍が分かるくらい、がんばろーな」
「変なスキャンダル記事で生存確認させないでよ」
「はあ? ひっでーの」
 全然そう思ってない風に軽く笑う。ウチもつられて同じように笑った。

 耳たぶのコードを指に巻いていじっていると、上鳴が正面から体当たりするみたいに抱きついてきた。唐突な衝撃に自分の口から、わ、と声が上がる。ゆっくり腕の力が強くなっていって、上鳴に自分の身体が沈み込んでいくようだ。ウチらの間に挟まれた耳たぶのプラグが二つの心音を拾う。

「元気でな」
 今までで一番優しいささやきに、耳元がじんとした。追いかけ合うように鳴る心臓の音が聞こえる。じっとしていればそのうち重なるような気がした。
「電気もね」
 目を閉じて、ウチも背中に腕を回した。
 こんな寂しさに会えて良かったと、いつか思える大人になれますようにと祈りながら。




2019.04.06 pixivへ投稿
2019.08.23 サイト掲載・修正



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