ひと夏の隙間 / p.1

 四角い窓で区切られた青空は、何だか壁に貼りつけられた一枚の絵のように見えた。
 消毒液の匂いがそこらじゅうに染み付いた病室の中は涼しい。そっと目を閉じてベッドに仰向けになり、酸素マスクの下で静かに呼吸を繰り返す耳郎の姿は、正直もう見飽きてしまった。病室の隅に置かれた丸椅子をベッドサイドに運んで腰掛け、じっと耳郎の寝顔を見つめていると、暑苦しいはずの蝉の鳴き声が遠くに感じられる。汗を吸ったTシャツの背中が、エアコンの風を受けて冷たい。

「あ、上鳴君。こんにちは」
 すーっとほとんど音を立てずにドアが開いた。振り返ると、この病室を担当する看護師さんが入ってきた。二十四歳の笑顔が可愛いお姉さん。うるさくならないように、でも元気に聞こえるように俺も挨拶すると、笑い掛けてくれた。
「もうじき目覚めると思うよ。って言われても、心配だよね」
 耳郎の白い腕に繋がれた点滴を確認しながら、看護師さんが言う。
「やー、そんな全然。心配されるようなやつじゃないし。だってこいつ、何の遠慮もなく俺の背中蹴ってくるようなキョーボーなやつなんすよ? マジで足癖悪いっつうか」
 びしっと人差し指を向けられた当の本人は、大人しく胸を上下させているだけ。聞こえていたら有無を言わさず個性のイヤホンジャックが飛んでくるだろうけど、いつもはぴょんぴょん自由に動いている耳たぶのコードも、今はくたっとシーツの上に落ちていた。
「この間も聞いたよ」
 笑われてしまって、そうだったっけ? と思い返す。そうだ知り合った初日にそんなことを言ったかもしれない。頭の中を探っていると、部屋の中が再びシンと静かになっていた。

 耳郎の病室で昼間の時間を過ごすのはここ数日の日課になっている。滞在しているのはほんの十分、長くても二十分くらいなんだけど、硬い丸椅子に座っているだけのこの時間はものすごく長く感じられる。この景色も見慣れたもんだけど、居心地は良くない。
 早く起きろよ、と何度目か分からない言葉を心の中でつぶやく。
 俺、病院って好きになれないんだよな。
 そわそわ脚を揺らしそうになるのを堪えて、腕時計をちらっと見る。今日ここに来てから十五分ほどが経っていた。

「てか、マジで今度デートに誘って良いですか」
 バインダーに挟まれた紙に何かを書きつけている彼女が目を上げる。考えなしに口から転げ落ちるこういう台詞もたぶん、三回……、いや四回目かな。
「上鳴君がちゃんと高校卒業して、その時に私のことを覚えてたらどうぞ」
 初めて看護師さんをお茶に誘った時は、何言ってるの、と驚かれて笑われた。回数を増すごとに反応がちょっと変わってきていて、俺はそれが楽しい。
「やった。絶対覚えてますからね、俺」
「はいはい」
 完全に子ども扱いされてんなー、ってのは分かっているけど、お姉さんの俺に対する態度が日に日にくだけた調子になっていくのが嬉しくて、実はそれで満足してしまっているような。
 ひとの病室で何してんの、って耳郎に怒られそう。
 そっとベッドに視線を移すけど、やっぱり耳郎は眠っていた。
「じゃー、帰ります」
 たぶん今日も起きない気がした。立ち上がり、椅子をもともと置いてあった場所に戻す。
「はい。暑いから気を付けて帰ってね」
 白衣の天使の優しい気遣いに明るく返事をして、俺は病室を後にした。

 建物を出ると、真夏の日射しが容赦なく降ってきた。この間の合宿でちょっと焼けた肌が、じりじりとまた焼かれていく。
 さっきまで居たのは、温度がちゃんと管理された快適な空間だったはずなのに、なぜか身体が溶けそうな暑さに晒された今、ほっとしている自分がいた。
 アスファルトからの照り返しが強過ぎる。歩くたびに体中から汗がにじんで仕方なかった。他人事に聞こえていた蝉の大合唱が、今度は耳鳴りのように響いて頭がぼーっとする。
 なるべく日陰を選んで歩いた。少しでも気が紛れたらと、涼しーい、って独り言を言ってみる。何も変わらなかった。
 ついうつむいてしまう顔を上げれば、歩くたびに遠ざかる水たまりが、道路の上でゆらゆら揺れていた。




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