ひと夏の隙間 / p.2

 やっぱ帰るの明後日になるかも。
 そう打ち込んだメッセージを送信すると、スマホをベッドの上に投げた。自分もそこにごろんと寝転ぶ。シャワーを浴びてさっぱりした身体を、クーラーの風がそよそよと撫でていくのが気持ちよくて、目を閉じた。
 まだ八時にもなっていないけど、特にすることがない。もう寝ちゃおうかな。さっそくうとうとし始めたところで、ベッドを小さな振動が伝った。

 ヴヴヴ、ヴヴヴ、ヴヴヴ……。
 二回待っても鳴り続けているから電話だ。目をつむったまま寝返りをうって、手探りでスマホを拾う。画面を見れば、さっきメッセージを送った相手である母さんからの着信だった。
 もしもし。このたった四文字を俺が言い終える前に、食い気味でスピーカーから声が飛び込んできた。
「明日駅まで迎えに行こうと思って休み取ってやったのに!」
 ぽやぽやしていた頭が元気な声で強制的に覚まされる。のっそり身体を起こして頭を掻いた。
「えー? 頼んでねえじゃん……」
 明日埼玉に帰省すると言ったのは俺。だけど駅から家まで歩くのは大して苦ではない距離だし、暑さに負けたらバスに乗る選択肢もある。
 少なくとも仕事がある母親に迎えに来てもらおうとは一ミリも思っていなかったし、もちろん言ってないのに、何で俺は文句を言われてんだ?
 とは思いつつも、いまいち強気に返事できなかったのは、やっぱり後ろめたさがあるからだ。
「ついでにその足で、回らないお寿司連れてってあげるよ?」
「自分が食いたいだけだろ」
 誰が見てるわけでもないのに下唇を突き出してみせる。餌で釣ろうとしているつもりなのか知らないけど、高級な寿司よりも二、三百円で買えるハンバーガーの方がずっと好きだ。もちろん母さんはそれを知っている。だからすぐに、ばれた? なんて言って笑っていた。
 急な予定変更を怒られるかと思ってちょっと身構えていたけど、機嫌が良さそうで、俺は音を拾われないくらいの大きさで息をついた。けど、
「そもそも昨日帰るって話だったじゃん。まだ何か学校でやることあるの?」
 やっぱりそう簡単に引き下がってはくれなかった。

 そう、本当は昨日帰るはずだったのだ。
 でも何となく、耳郎の意識が戻るまで埼玉に帰る気になれなくて、帰省の日程を延ばし延ばしにしていた。ころころ言うことを変えているのは、流石にごめんと思っている。
 敵の襲撃で強制的に終了した林間合宿からまだ一週間も経っていない。だけどこの数日の間にあまりにも色んなことがあり過ぎて、もっと昔の出来事のように思える。

 補習のおかげで先生の居る宿舎に留まっていた俺は無傷だったけど、一応学校からメンタルのチェックをされたり、入院したクラスメイトを見舞ったり、敵に攫われた爆豪を心配したり――一昨日、無事にヒーローによって救出されたとニュースで知った――、ガリガリに痩せたオールマイトの姿にショックを受けたりして、放電のキャパオーバーにならなくても頭がショートしそうな毎日だ。というかたぶんしている。混乱し過ぎて思考停止って感じ。
 それでも検査によれば問題なし。心身ともに健康だと判断された俺に、こっちでやることは特にもうなかった。
 マスコミ対応に追われている学校も、保護者には何かしらの連絡をしているはずだから、そろそろ俺が帰って来ても良いということを母さんは知っているのかもしれない。遠出は控えろと学校から言われているけど、実家に帰ることは流石に禁止されていない。
 そうだとすると、一回目に帰省を延ばした時に使った、「色々忙しくて」はもう通じない。
「いや、それはもう終わったんだけど……」
「じゃあ、」
「ちょっと、友達と遊ぶ約束しちゃって」
 言ってから苦しい言い訳だなーとすぐに思ったけど、何も用意していなければ所詮こんなもんだ。はあ? と素っ頓狂な声が電話の向こうから聞こえる。
 予想通りのリアクションに、そりゃそうだよな、と内心頷きつつ、自分で広げた風呂敷を畳むわけにもいかなくてとりあえず喋る。
「だってせっかくの夏休みじゃん? 普段あんま遊ぶ暇ねーから、こういう時」
「電気」
 さっきまで元気で明るかった母さんの声のトーンが落ちる。
 やべっ、と背筋が一瞬ぞわっとして、適当な言葉を放り投げる気分は簡単に萎えてしまった。スマホのマイク部分に当たった母さんのため息が、ざらざらした音になってこっちに届く。
「そういう理由なら予定通り帰って来てよ。あんなことがあって、心配してんだよ。本当に」
「はい……」
「一旦こっちに帰って来て、友達とはまたそっち戻ってから夏休みの終わりに遊べば良いじゃん。早く顔見せてよ」
 普段は友達みたいにくだけた母親だから、真面目な調子で諭されるのは子どもの頃から弱かった。本当は俺だって、もう実家に帰った方が良いことくらい分かっている。

 林間合宿襲撃事件がマスコミに報道された頃、ちょっとスマホを見ていなかった間に、着信履歴が母さんからの大量の不在着信で埋まっていた。慌てて掛け直した時の気持ちは今も忘れられない。またそれが蘇ってきてしまって、じくじくと胸の中がいじめられる。
「ご、ごめんっ、友達と遊ぶってのは嘘で」
 こんな気持ちになるなら、最初から正直に言えば良かった。そもそも、どうして俺は本当のことを隠しているんだろう。
「まだ合宿からずっと入院してる友達がいて、まだ目ぇ覚めなくて。別に命に別状はないから心配いらねえんだけど、意識が戻るまでは見舞いに行きたくてさ。起きた時に誰も会いに来なかったら寂しいかなーとか、思って」
 それが俺である必要はないんだけど、と自分に突っ込む。
 実際、耳郎を見舞っているのは俺だけじゃない。時間がずれているようで会っていないけど、クラスの他のやつらも来ていると看護師さんから聞いている。

 母さんはしばらく黙った。
 テレビもネットもこの雄英のニュースを毎日取り上げていて、まだ意識の戻らない生徒がいることも報道している。きっと母さんも情報をチェックしているはずだから、俺の言ったことを嘘だと疑ってはいないだろう。
 毒ガスを吸って意識を失ったきり目を開けない耳郎の姿が、頭の片隅をちらつく。
 今日帰りがけに耳郎と同じ理由で入院している葉隠の病室も覗いたら、こちらも寝ていた。でも午前中に意識が回復したのだと看護師さんが教えてくれた。だから、耳郎もそろそろ起きるんだろうな、とは思っている。たぶん。

 自分で何をこだわっているのか、分からなくなってきた。親と喧嘩してまでやることなのか? もう深刻な状態ではないことも理解しているのに。正直交通費もばかになんないし。でも、止めちゃいけないような気がしている。
 まとまらない考えが頭の中をぐるぐると回り始めたけど、すぐに止まってしまった。難しいことに思いを巡らす気力が湧かない。
 母さんの言葉を待つ。この沈黙の後に続くのが、「それでも帰って来て」だったら、素直に帰ろうと俺は決めた。別に俺が一日に二十分、寝ている耳郎を眺めることで何かが変わるわけじゃないんだし。
 分かっていたことだけど、改めてそう自分で思ってみたら、ちょっと寂しい気持ちがした。俺にできることって、特にないんだなって。
 しゅんとしていると、電話の向こうからは呆れたような笑い声が聞こえた。
「最初からそう言えばいいのに」
「……うん」
 そーですね、と胸の中で同意しながら短く頷く。
 明るい調子に戻った母さんとしばらく他愛のない話をしていたら、沈みかけたテンションがちょっと回復した。





 翌日の午後、いつものように病室に行くと耳郎がベッドの上で身体を起こしていた。
 毎日イメージしていた光景がようやく現実になったのに、なったらなったで一瞬呑み込めなかった。うっかり大きな声が出そうになって、慌てて口を手でふさぐ。無音でバタバタしていた俺に気づいて、耳郎がこっちを見た。
「上鳴」
 あんまり表情は動いていなかったけど、驚いてはいるようだった。俺はドアを閉めてベッドに近づく。
「お、おーっす。いつ起きたん?」
「昨日の夕方」
 他にも誰か見舞いに来たらしい。いつもは部屋の隅に置いてある丸椅子がベッドの傍にあった。何となく落ち着かない両手をぷらぷら揺らしながらそこに座る。
「具合は?」
「寝過ぎて身体怠いけど、あとは別に」
「そっか、良かったな!」
 何日も眠っていたなんて信じられないくらい会話は普通の調子だったけど、それでもやっぱり顔色はそんなに良くなかった。
「てか、お見舞いに来てくれたの?」
「え、うん」
 たった数日で少し痩せたようにも見える。薄い頬の上で瞳がやけに目立っていた。耳郎は俺の顔を覗いて、ぱちぱちと瞬きをする。ちょっと戸惑っているような顔をされて、俺もつられて黙ったまま、数秒耳郎を見つめた。
「あ、見舞いに来てるように見えない?」
「いや、そうじゃ……」

 その時、あることに気づいた。
「あー! やべっ、手ぶらで来ちゃった! 緑谷には皆でメロン買ったんだけど、てか緑谷も入院してたんだけど、耳郎と葉隠はいつ起きるか分かんなくて。ごめん!」
 そうだ、空いた両手に何だか物足りなさを感じていたのはこういうことか。下の売店でお菓子でも買って来れば良かった。ぱんっと手を合わせて頭を下げると、耳郎は笑った。
「そうじゃないよ」
「え?」
「いい、いい」
 ぽかんとした俺を無視してひとしきりクスクスと笑うと、耳郎はふうっと一息ついた。膝に掛けた布団の上で手を組む。
「何か、すごく大変なことになってたんだね」
 落ち着いて乾いた声が、白い病室の中にぽつりと響いた。
「……うん」
「さっき、相澤先生が来てくれて、全部聞いた」
 耳郎がぎゅっと両手を握り合わせる。手の甲にめり込んでしまいそうな細い指が震えている気がして、俺は軽く作ったこぶしでベッドの端を叩いた。
「今はやめようぜ。とりあえず、目ぇ覚めて良かった」
 耳郎の指の力が緩む。
 それと同じタイミングでドアが開くかすかな音がした。俺らはどちらともなくその音の方を向いた。
「耳郎さん、気分はどう? あ、上鳴君今日も来てたね」
 顔なじみの看護師さんだった。相変わらず可愛い。
 どーも、と挨拶する俺の横で、え、と耳郎が気の抜けた声をもらした。
「……今日、も?」
 大きく開いた目でまじまじと見つめられて、はっとする。
 やべえ。毎日来てたなんて、何か改まってみたら、まあまあ恥ずくね。
 さっきまで涼しく感じていたはずなのに、咄嗟にそんなことを思ったら顔と背中にぶわっと汗が滲んだ。
「うぇっ、あー、いや、まあ。たまにな!」
 適当に手をひらひらさせて、あははっと笑いながら頭を雑に掻く。俺の挙動不審を察した看護師さんが、耳郎の死角に回った時に俺を見て「ごめん」と口パクした。いや、お姉さんは全然悪くないんだけど。気にしないで欲しいと泳いだ目で合図したけど、伝わったかどうかはよく分かんない。

「てか上鳴、合宿終わったらすぐ埼玉帰るって言ってたじゃん。帰んなくて良いの?」
 今日で一番、普段通りのクールな調子で耳郎は言った。それを聞いてほんの少し気分が落ち着く。あ、隣に耳郎が居るって感じがする。
「あっ、ちょーど今日帰ろうと思ってたんだ! 色々バタバタしてたからさ。んで、そういや耳郎どうしてっかなーって思って来てみたんだけど、起きててタイミング良かったぜ!」
 一息で喋った勢いで、ついでに立ち上がってしまった。耳郎の視線が俺に合わせて上を向く。もう一回座るのも変だから、このまま帰るしかないんだろうな、俺。
「じゃ、また。二学期な!」
「あ、うん」
 足元をよく見ずに振り返ろうとしたら、椅子の脚につま先を引っ掛けて危うく転びそうになった。そんなのダサ過ぎるから何とかバランスを取ろうと頑張ったら、変なステップでドアまで辿り着いて、ドアに手を付いたところでようやく足が止まった。
 やっぱりダサいからさっさと出て行こうと取っ手を掴んだところで、「上鳴」と呼ばれた。
「ありがとう」
 ドアを半分開けてから振り返る。
「おー、お大事に」
 耳郎と、それから看護師さんに軽く挨拶をして病室を出た。

 蛍光灯の明かりで光る廊下を歩きながら、あっという間に出てきちゃったな、と思った。耳郎が起きたら色々喋ろうと考えていたはずなのに、頭の中をひっくり返しても何も出てこないくらい空っぽだ。ま、とりあえず無事なのが分かったからいっか。
 エレベーターの前に立ったらすぐに扉が開いた。乗り込もうとしたら眼鏡を掛けた女の人が中にいて、慌てて立ち止まる。その人は一瞬俺をちらっと見て、軽く頭を下げるような仕草をすると横を通り過ぎて行った。見間違えじゃなければ、女の人の耳たぶには見慣れたコードがぶら下がっていた。
 下降するエレベーターの中で、さっきの人はきっと耳郎のお母さんなんだろうと思った。イヤホンジャックもそうなんだけど、だって、網タイツ履いてたし。




 実家に帰る支度を全くしていなかったけど、耳郎に言ってしまった手前帰らなきゃいけないような気がして、アパートに帰るとすぐにリュックに着替えを詰め込んで、俺は新幹線に飛び乗った。
 座席に腰を下ろしてからようやく、母さんに今から帰るとメッセージを送った。また言うことを変えて怒られっかな、って心配になったけど、すぐに「駅のロータリーで待ってる」と返事が来た。そのことにほっとしたからなのか、降りる駅に停車する二分前までずっと爆睡していた。

 地元の駅に着くと、もうすっかり日が暮れていた。もやもやとぬるい空気が身体にまとわりつく。ロータリーに向かうと、すぐに家の車を見つけた。念のためそーっと中を伺ってからドアを開けて助手席に座る。
 ゴールデンウイークぶりに会う母さんは、髪が伸びていた。俺と同じ色の髪をラフに一つに束ねている。何を喋ろうか、謝るのが先か、とか考えながら「ただいま」と言うと、くしゃっと頭を撫でられた。
「背、伸びた?」
 母さんは悪戯っぽく笑うと、すぐに手を離した。
 久しぶりにこんな風に触られて、今までそんなに気を張っていたつもりはなかったのに、一気に脱力してしまった。シート脇のレバーを引いて軽く座席を倒すと、身体がずるずると下にずれる。
「伸びてねえよー」
「それは残念でした」
 楽しそうな笑い声とエンジンの音が重なる。目をつむると、車はゆっくり発進した。




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