結局一週間も実家に滞在することなく、俺はまたアパートに戻ることになった。いきなり生徒の全寮制が決まって、部屋を引き払うために片付けをしなきゃいけなくなったからだ。
三年間住むつもりでいたから、全然まだ引っ越すことなんて考えずに色々持ち込んだり買ったりしていて、片付けや掃除のことを思うとげんなりする。事情は分かるけど、雄英って色々急だよな。
荷造りという現実から目を逸らしつつ、冷蔵庫の中を覗けばほとんど空っぽだった。だから、とりあえず腹ごしらえと思ってスーパーに行くことにする。荷物を送る頃には親が手伝いに来てくれるから最悪まあ、どうにかなるし。
……と、深く考えずに出掛けた結果、もっと日が落ちてから外に出れば良かったと後悔する羽目になった。もうすぐ四時だけど気温はあまり下がっていなくて、歩くたびに首筋から汗が流れた。ズズッ、ズズッ、っとサンダルがアスファルトを擦る音もどこかやる気なく聞こえる。
もう出掛けてしまったし、暑いからと言って何もせずに引き返すのも癪で、とりあえずスーパーで買い物は済ませた。でも帰って夕飯作るのだりぃな、やっぱり出来合いのものを買えば良かった。
右手に提げたレジ袋に視線を落としたその時、ふいに何かに肩をつつかれた。
「ふぉあ⁉」
完全に無防備だったから思い切り身体が跳ねて、変な声が出た。慌てて振り返った瞬間、視界に入ったのは肌色のプラグ。ふわふわと空中に浮かんで揺れている。
「ごめっ、てか何その声……ブフッ!」
悪戯した張本人は手で口を押さえて笑いをこらえようと頑張っていた。俺マジでビビったのに、悪びれもせず吹き出している耳郎を見たら何かどうでもよくなってしまった。何でここに居るのかとか、そういうのも全部。
袖の短い白いTシャツにジーパン、黒いサンダルっていう超色気のない格好をしている耳郎は、すっかりいつも通りの耳郎って感じだった。
「お前マジで止めろよな~」
つんつんされた辺りを撫でながら文句を言うと、耳郎は治まりかけた笑いの合間に、ごめん、と二回謝った。
「てか、もうこっち帰って来たんだ?」
そして、指で目元を拭いながら俺を見る。泣くほど笑うことかよ。
「うん。部屋片付けないといけねえし」
「あぁ、そうだよね」
たぶん俺ん家よりも早く家庭訪問が終わっただろう耳郎は、その時のことを思い出しているのか、うんうんと何回か頷き、続けた。
「あんまりゆっくりできなかったんじゃない?」
珍しく気遣うような様子に、ばつが悪くなる。
ママチャリに乗ったおばさんが俺らの横を通り過ぎて行って、何となく俺は道の端っこの日陰に移動した。耳郎もついてくる。少しだけ暑さが落ち着く。
「いーや、別に。何か二、三日経ったら、こっちで一人の方が気楽かもとか思って」
これは本当。飯や風呂の準備を全部一人でやらなくても良いというのはこの上なく楽チンだったけど、自分のペースやタイミングで生活する良さも覚えてしまったから、アパートに戻ってくること自体は全然嫌じゃなかった。
「ゴールデンウィーク明けなんて、埼玉帰りたいってうるさかったくせに」
「それは言うな! もうこっちに居る方がふつーっていうか」
弱味をガシッと掴まれて、思わずでかい声が出てしまった。
そう、入学したての頃は地元が恋しくてたまらなかった。ゴールデンウイークに数日帰省したら見事に五月病にかかってしまって、連休明けの俺はぶつぶつと弱音を吐いていた。でも感傷に浸ってる間もないほどハードな雄英の授業のおかげで、すぐに調子は元に戻ったんだけど。
誰に聞かせているつもりもない独り言だったのに、耳郎はちゃんと覚えていたようだ。隣の席だからそりゃそうか。早く記憶から抹殺してくんねえかな。話題を変えよう。
「誰かと遊んでたん?」
ううん、と耳郎は小さく首を振った。鼻の頭に汗が浮かんでいる。
「暇だから一人でぶらぶらしてた。そこの駅のとこに新しいビル建ったじゃん? 服屋とか雑貨屋とか入ってるやつ。どんなもんかなって行ってきただけ」
耳郎は雑に駅の方面を指した。この辺に家がある訳じゃない耳郎がどうしてここに居るんだろう、という謎は解けた。七月の中旬にできた駅ビルは、俺もオープンしてすぐ行ってみたところだ。
「何かイマイチだったっしょ」
「うん」
俺の顔に向けられていた耳郎の視線が、すっとレジ袋に落ちる。そして耳郎はぽつりと、
「カレー?」
俺の今夜の献立をつぶやいた。
「えっ、何で分かった?」
「だって、ジャガイモ、人参、玉ねぎが揃ってたら、そうじゃない?」
半透明の袋だから中身はばっちり透けて見える。冷蔵庫の中に使いかけのカレールーがあって、とりあえず冷凍庫に突っ込んでおいた豚肉があって、夕飯に作るものは即決だった。
「見んなよースケベ。肉じゃがかもしれんだろ」
レジ袋を後ろに隠して身をよじったけど、耳郎はノーコメントだった。袋が俺の太腿に当たって、ビニールのさらさらした音が鳴る。
「ウチも今日自分で作んないといけないんだよね」
「え?」
「夕飯」
耳郎は実家暮らしだけど、どうやら今夜は両親が仕事でいなくて、明日帰って来るそうだ。どっちも居ないなんてことあるんだ、って言ったら、両親とも同じ仕事をしているからたまにこういうことがあるんだと教えてくれた。
「母さんは残るって言ったんだけど、ウチが退院したばっかだから。でも別にもう元気だし、いつまでも特別扱いも嫌だし。そういうので仕事キャンセルして欲しくないから、行って良いよって言ったの」
「ふーん」
何作ろうかな、とつぶやいた耳郎の声を聞いたら勝手に口が喋っていた。
「一緒にカレー、食う?」
袋を持ち上げて見せると、いつものポーカーフェイスのまま、耳郎は素直に頷いた。
◇
俺が住んでいるのは1Kの狭い部屋。玄関を開けてすぐのところにあるキッチンは、料理をすることを想定してんのか分かんないくらいお粗末だ。耳郎と二人で並んだらいっぱいって感じ。
「だー! 危ねえ! 猫の手だよ、猫の手」
何となくの流れで耳郎が包丁を握ることになって、俺は横でそれを眺めていた。そうしたら耳郎ってば意外に大雑把で、見ているだけでヒヤヒヤする。
「何、うるさいんだけど」
右手に包丁を持ったまま、耳郎がぎろっと睨んでくる。鋭い視線に一瞬ひるみそうになったけど、俺は間違っていないという強い意志を持って、人参に添えられた色白の手を指した。
「指出すなよ! 切ったらどうすんだよ! こうやるって習ったろ、子どもの時」
ニャーと言いながら、手を丸めて見せる俺をしり目に、耳郎は人参に包丁を入れた。
「別にどう押さえたって良いじゃん。指切るようなヘマなんかしないよ」
「怖い怖い怖い!」
「うるさい」
「てか、切り方雑じゃね? 大きさ揃えろよぉ」
「お腹の中に入れば一緒じゃん」
「耳郎ほんとにA型?」
厚みも大きさもバラバラな人参のかけらを量産するのをいったん止めると、耳郎は呆れたように鼻を鳴らして俺を見た。
「今時血液型占いとか信じてんの? 人類って四パターンしか居ないわけ?」
「合宿の時どうし……あー、お前火起こしとかやってたな!」
こんな危なっかしいやつ、どうして誰も注意しなかったんだよ……と思ったけど、合宿の夕飯時を思い出したら、軍手をはめている耳郎がぼんやり記憶に残っていた。
「切るのは爆豪一人で充分だったでしょ」
「確かに。あいつマジで才能マンだよな」
プロかよってくらい華麗な包丁さばきを思い出す。口が悪くて暴力的なのに、意外に繊細なことをさらっとやってのけるんだよな、爆豪って。
耳郎が隣ですうっと、静かに息を吸う。
「……爆豪、無事で良かったよね」
トン、トン、と軽快な音を立てて、不揃いな人参のかたまりがまな板の上に転がっていく。
「うん」
「というか救出のニュース見て、攫われてたってことを知ったんだけどさ」
うつむいているから横顔に髪が掛かって、耳郎の表情はよく見えなかった。
そういえばついこの間まで耳郎は入院していて、酸素マスクを口に当てて寝ていたんだった。忘れてなんかいないけど、改めてそのことを思い出す。
あの合宿の夜、敵が去ってやっと宿舎に戻ってきたみんなはボロボロで、泣いていたり、青ざめていたり、動かなかったり。青山に連れて来られた耳郎は、眉間にしわを寄せて目を閉じたまんま、ぐったり横になっていた。耳郎、耳郎って何回も呼んでも全然反応がなくて……。
悪夢のような真っ暗な夜や、耳郎たちが入院していた病院、記者の前で頭を下げる先生たちの会見に、テレビで見たオールマイトの闘い。それから、気まずい空気のまま別れてしまった切島と轟。色んなものがランダムに頭の中に浮かんでは消えていく。
クーラーの効いた部屋で、のん気にカレーなんて作っているのが嘘みたいだ。今、敵が襲ってくるんじゃないかなんて全く疑っていない。だってあんなこと、しょっちゅうあったらたまったもんじゃない。
だけどヒーローになったら、ああいう残酷な出来事が日常だって、いちいちショックを受けることもなく慣れてしまう時が、そのうち来んのかな。
部屋と廊下を繋ぐドアを開けっぱなしにして、エアコンの涼しい風をキッチンにも送っている。かすかな送風の音が聞こえるくらい、俺らは黙り込んでしまった。耳郎の頭の中に何が映っているのかは知らない。
やがて人参を無事に切り終わって、耳郎がちょっと笑って俺を見た。
「合宿の時もカレーに肉じゃがだったじゃん? 何か同じものばっか食べてるね」
美味しいから良いけど、と付け加えて、次は玉ねぎを手に取る。野菜を切る係を譲るつもりはないらしい。相変わらず俺から見ればぎこちない手つきだけど、頑張っているから文句を言うのはもう止めた。指切らなきゃ何でも良いや。
耳郎は皮を剥いて半分こした玉ねぎを見つめながら、それに包丁の刃を当てて切る厚さのイメトレをしていた。変なとこでA型っぽいことするんだな。耳たぶから下がるプラグが、ちょっと上を向いたまま固まっている。集中しているからなのか分かんないけど、何か面白かった。
耳郎お前、ちゃんと起きて良かったな。
俺は心からそう思った。
「なあ、大きさ揃えて切ってくれたらもっと美味くなると思うぜ」
「うっさい」
まな板に目線を落としたままの耳郎に、裸足でふくらはぎを蹴られた。やっぱ足癖悪ぃの。
野菜の大きさはバラバラで、でかくて存在感あり過ぎだったり、小さくて溶けてなくなったりしていたけど、カレールーに混ざれば結局何でも美味くなる。
まだ夕飯時には少し早い時刻に、狭いローテーブルに食器を並べた。うめぇと言いながら食べている俺の向かいで、耳郎はもぐもぐしながら勝手にテレビのリモコンをいじっていた。ひとの家だっつうのにくつろぎ過ぎだろ。夕方は面白い番組ないから良いけどさ。
「合宿の時より美味くね?」
「あれ絶対水の量間違えてたよね」
ローカル局のニュース番組ばかりの中、ひと昔前のドラマが再放送されていた。それが画面に映ると耳郎はザッピングを止めて、また皿と向かい合った。
病室で見た、やつれて顔色の悪い耳郎はもう居ない。黙って大きなジャガイモを頬張っている姿は健康そのものだ。
「何見てんの」
食べることに一生懸命になっていたかと思いきや、耳郎は俺の視線に気づいていたみたいだった。ちらっと上目遣いをされて、その目力が強過ぎて怖かった。
「あ、いや、元気になって良かったなーって」
そんなにジロジロ見つめていたつもりはないんだけど、無意識にガン見してたんかな。俺がははっと軽く笑うと、鋭い視線はやわらいだ。それから、口と皿を往復していた耳郎のスプーンの動きがぴたっと止まる。
「……上鳴、さ。毎日お見舞いに来てくれてたんだって?」
そのスプーンは今度、皿に残ったカレーをくるくるとかき混ぜている。
可愛い看護師さんが声を出さずに俺に謝った時の姿が、ふっと頭に浮かんだ。たぶん耳郎は、俺が帰った後にこのことを尋ねたんだろう。せっかく仲良くなれたあのお姉さんと、もう会うこともないんだろうな。そんな当たり前のことをぼんやり思った。
「あぁ、まあ。で、でも俺だけじゃなくて、みんな入れ替わりっつうか……」
「心配掛けたね。ごめん」
「いやいやいや、謝ることじゃなくね?」
うつむいている耳郎の頭が、さらにうなだれる。急なしおらしい態度にびっくりしてスプーンを離すと、皿とぶつかって、カチン、と音が鳴った。
「だって、みんな戦ってたのに、ウチは倒れてただけってのがさ。せめて自分の身くらい自分で守れなきゃ」
「俺だって何もしてねえよ。むしろ先生に守ってもらったし……」
声が少し震えていたから泣き出すんじゃないかとヒヤヒヤしながら、そっと耳郎の顔を覗く。少しだけ瞳がうるんでいるような気がしたけど、涙がこぼれる気配はなかった。
「毒ガスは、しょうがねえよ……」
どんな言葉を掛けたら良いか分からなくて、弱弱しくそんなことを俺がつぶやくと、耳郎は口をつぐんだ。
敵が攻めてきた時、俺は近くに先生も切島たちも居て明るい建物の中だったから強気でいられた。夜の森の中で奇襲に遭ったら、俺だって何ができたか。
「……何か、悔しくない? ウチ弱いなって、思ったんだ」
耳郎がぎゅっとスプーンを握りしめる。そしてまた、パクパクとカレーを口に運び始めた。
そう思うやつは弱くないんじゃね、と俺は思った。
耳郎のコップが空っぽになっていることに気付いてペットボトルの麦茶を注いでやる。
「まあまあ、飲めって」
二リットルだから片手で持つとバランスを保つのが難しくて、勢い余ってたぷん、と一口分くらいの麦茶がテーブルに跳ねた。
「ちょっと、雑」
俊敏な反射神経を発揮して、耳郎がすっと身体を引く。だけど床にこぼれるほど派手には落ちなかった。
「そこにティッシュあるから拭いて」
キャップを締めながら、目線でティッシュの場所を教える。
「上鳴がこぼしたんじゃん」
「耳郎の方が近いじゃん」
「ほんと、あんたはさあ」
そう言いながらも、耳郎はちゃんと素直に従ってくれた。箱を引き寄せてティッシュを二枚抜くと、丁寧にテーブルを拭く。濡れたティッシュを丸めてぽいっと捨てた後に、耳郎も同じように俺のコップに麦茶を入れてくれた。
それからは、すっかり存在を忘れていたドラマを見て、全然分からないストーリーにあーだこーだ言いながら、二人でカレーにがっついた。
明日も食べられるように多めに作ったのに、俺も耳郎もおかわりして食ったら、結局鍋には一食分くらいしか残らなかった。