ひと夏の隙間 / p.4

 それから六時半過ぎまでだらだらテレビを見て、耳郎は帰って行った。駅までの帰り道の途中まで見送ると、空は薄っすら暗くなっていた。
 本当は荷造りを始めた方が良いって分かっているのに、さっさとシャワーを浴びてベッドの上に寝転んでしまったら、もう重力に勝てなかった。夏休みが始まるまでずっと、筋肉痛の身体に鞭を打って宿題をやっていた反動で、だらだらするのが気持ち良くてたまんない。

 スマホでゲームをしたり動画を見たりを繰り返して、気づいたら寝ていた。だから、唐突に鳴ったチャイムの音は夢の中の出来事だと思った。
 数秒遅れて飛び起きる。ちゃんとこの部屋のチャイムの音だったから、夢じゃないかもって思い直した。
 外は真っ暗、八時半。こんな時間に来客なんて滅多にない。それも四月と五月に新聞の勧誘が来たっきりだ。時間が時間だし、何か怖ぇし、出るべきか迷っていたら、もう一回チャイムが鳴った。完全に目が覚めて嫌にドキドキしているけど、とりあえず玄関へ行くことにする。
 足音が立たないようにそろーっと歩く。よく考えたら明かりが点いているんだから、部屋に人が居るってのは丸分かりなんだけど、気分的に。右の手のひらの上で勝手に電気が漏れてパチパチ音が鳴っていた。ぎゅっとその手を握りながら息を飲んでドアの穴を覗く。

 と、その次の瞬間には、俺はもうドアを開けていた。
「ど、どうした?」
 そこには、コンビニの袋を手に提げた耳郎が立っていた。





 部屋のドアを閉めているから音が聞こえないはずの浴室がやたら気になる。そうだここに音が何もないからだって気づいて、テレビを点けた。チャンネルを一通り回して、一番賑やかそうなバラエティー番組を選ぶ。急に大人数の笑い声がどっと部屋の中に流れ込んできた。
 テーブルに置いた炭酸水と烏龍茶のペットボトルが汗をかいている。玄関に引き入れた時に、「これ、あげる」と耳郎が差し出してくれたものだ。
 今晩ここに泊まるための手土産。
 心を鎮めるために炭酸水を手に取ってキャップをひねる。プシュっと音がして、一気にペットボトルをあおった。


 勢いよく玄関のドアを開けた時、耳郎はうつむいていた。
 俺の声に一瞬顔を上げたけど、すぐにまた目を伏せる。もう一度、どうした、と尋ねてもだんまりしたまま。十秒くらいしてからやっと口を開いた。
「電車待ってたら、隣の駅との間くらいで敵が暴れて始めて……。それで、電車止まっちゃって」
 敵、と耳郎の言葉を口の中で繰り返す。ニュースを見ていなかったし大きな物音もしなかったから全然知らなかった。ていうか電車待ってたらって、かなり前の時間じゃん。
「結構派手に暴れてるみたいで、いつ運転再開するか分かんなくて。だから駅も人すごくて」
 下を向いているからどんな表情かは見えなかったけど、耳たぶのコードは元気がなさそうに力が抜け切っていた。
「臨時のバス出てるけど人多くてずっと並んでて、交通規制もかかってるから道路も混んでるし。しばらく待ってたけど全然……」
 喋れば喋るほど声が弱弱しくなっていく。よく耳を澄まさないと聞き逃してしまいそうだ。耳郎の持っているビニール袋が小さく揺れているのが音で分かった。
「あんまり遅くなると補導されるかもしれないし……。ウチが怒られるのは別に良いんだけど」
 ぽつりぽつり落ちる言葉を拾いながら、どうして耳郎がここに立っているのか、俺は頭をフル回転させて考えていた。行き着く答えに、まさか、と自問を繰り返す。
「……学校に連絡行ったらまた、相澤先生に迷惑掛けちゃう、から」
 もうこれ以上黙って聞いていられなかった。気づいたら勝手に身体が動いていて、俺は耳郎の腕を掴んでいた。
「入れよ」
 俺が耳郎に掛けた言葉はきっと間違いじゃない。自分からチャイムを鳴らしておいて、耳郎は少しだけ戸惑ったような表情をした。何かを言おうと色の褪めた唇がかすかに開いたけど、それを待たずに俺は耳郎を玄関の中に引き入れた。
「連絡くれたら、迎え行ったのに」
 ドアを背にして立つ耳郎の横に手を伸ばして、鍵を回しチェーンを掛ける。耳郎は聞こえないくらいの音量で、「うん」と言った。

 ただでさえ小柄なのに、さらにもう一回り小さく見えるようになってしまった耳郎をひとまず浴室に押し込んで、俺はスマホでニュースを調べた。敵が暴れて電車が止まったり、交通規制されたりするのは珍しいことじゃない。
 耳郎の言っている事件に関するネット記事はすぐに見つかった。ざっと読んでみたら、ちょっと規模は大きいけどもう敵の捕獲は終わっているようで、よくある事件の一つといった感じだった。


 ペットボトルを口から離す。炭酸水を思い切り流し込んだ喉の奥がちょっと痛い。
 すっかり弱気になってしまった耳郎の姿が頭から離れなかった。さっき一緒にカレーを食べていた時も、ほんの少しだけ不安定に見える時があったことを思い出す。
 合宿であんなことが起こって、しかも耳郎は何日間も入院してしまって、だけどあいつのことだからきっと、退院してすぐに気持ちを切り替えようとしていたんだと思う。両親にも普通にしててと言って、仕事に送り出したみたいだし。なのにその矢先に、混乱した人混みに揉まれちゃって。今日は家に帰っても誰も居ないし、こうなってしまったのはタイミングが悪かったんだろうと思う。
 ――また相澤先生に迷惑掛けちゃう、から。
 だけど、この言葉が俺の中で引っ掛かっていた。またって、耳郎って何かしたっけ? って。耳郎は俺と違って授業中に寝たりしないし、テストで悪い点数も取らないし、演習中に調子に乗ったりもしないのに。
 だけど、か細い声にあまりにも感情がこもっていたから、俺は続きを聞く前に思わず腕を掴んでしまっていた。

 ペットボトルを置いて、ニュースを表示したスマホの画面を何となく下にスクロールさせる。すると、「あなたにおすすめ」と色んな記事のリンクが現われた。フラッシュを浴びる相澤先生の写真が出てきて俺は、あ、と思った。
 爆豪が攫われたことや、怪我をした生徒が出たことをマスコミに叩かれて、頭を下げている相澤先生の会見は、耳郎が目を覚ます前に行なわれた。でもテレビで何回も流れているし、動画投稿サイトにもいっぱいニュース動画が上がっている。メディア嫌いの先生が、普段はボサボサの髪をきっちりセットして、スーツを着て頭を下げているのは、立場上しょうがないと分かりつつ、見ていてつらかった。さらにニュース番組のコメンテーターから叩かれまくってるのを目にするのも本当に嫌だった。
 謝罪の言葉を口にする先生を、耳郎は俺よりももっと複雑な気持ちで見たのかもしれない。そんな気がした。

 一人で悶々としていると、ドアが開いた。振り返ると、俺が渡した黒いTシャツとハーフパンツを身に付けた耳郎がそっと部屋の中を覗いていた。さっきまで血の気が引いて白かった頬は、ちゃんと温まったようで少し赤くなっている。タイトめなTシャツを貸したのに、それでも耳郎には少し大きかったように見えた。
「ウチ居るの廊下で良いから。ほんと気にしないで」
 耳郎はドアを掴んだまま、顔を半分だけ出している。
「えっ、何で廊下⁉ 普通に居ろよ!」
「……良いの?」
「良いに決まってんじゃん! もー、ほら!」
 廊下と部屋の境目から耳郎が動かないから、仕方なく立ち上がって腕を引っ張る。心から申し訳なさそうに遠慮している耳郎が全然らしくなくて、何とか調子を戻そうとすると勝手に俺一人で騒いでいるみたいになった。
 カレー食ってる時は、勝手にテレビのリモコンをいじっていたくせに。頼りない足取りで部屋の中に入って来た耳郎は、ラグマットの上に腰を下ろした。
 喋る言葉が見当たらなくて、何か言う代わりにまだ蓋を開けていない烏龍茶を耳郎に渡した。大人しくそれを飲み始めた耳郎の隣に俺も座る。
 するとペットボトルのキャップを締めた耳郎が、静かに人差し指で前方を指した。
「ごめん……。ちょっと、替えて」
 指の先を辿るとテレビがあった。画面にはでかでかと、「廃墟から女性のすすり泣く声が⁉」とおどろおどろしいフォントのテロップが映っている。いつの間にか夏の定番・怖い話に番組が変わっていたようだ。タイミング悪過ぎ。
「うわー! わり! わざとじゃない!」
 リモコンを拾って適当にボタンを押す。缶ビールのCMが流れる。それを見て、耳郎はほっと一息ついたようだった。
 マジで怖い話とか苦手なのな。合宿の肝試し、俺はやりたくてたまらなかったけど耳郎は心底無理って顔をしてたもんな。むしろあんなことがあって、もっと嫌いになったんじゃないだろうか。
 耳郎は、烏龍茶のペットボトルを大事そうに両手で包んでうつむいている。俺は間を埋めるように、手に持っているリモコンで自分の太腿を叩いた。ついこの間録画したお笑い番組でも見ようか、それともゲームでもしようか。

 何でも良いからこの微妙な空気を変えてくれるものを必死で考え始めた時だった。
「あ」
 浮かない顔をしていた耳郎が、急にぱっと目を上げて表情を変えた。
「懐かしい」
 耳郎の視線を追う。CMが明けたテレビにアニメの映画が映っていた。見た瞬間、俺も耳郎と同じことを思った。おー、って自然に声が上がる。
「マジだ、懐かしい。俺これ夏休みに映画館に見に行った」
「ウチも」
 この映画を見たのは確か小一くらいの時だったから、正直内容に関して記憶はおぼろげだ。懐かしさだけが胸に湧く。確か、小学生の少年少女が夏休みに家出して、未来にタイムスリップするっていう話だった、はず。
「これ、初めて映画館で見た映画だったんだ」
 耳郎は座ったままテレビに近づくように前進した。俺もつられて動き、二人でテレビの真ん前に座る。時計を見れば、まだ始まって二十分くらいしか経ってないみたいだけど、すでにこんなシーンあったっけっていう展開になっている。
「へぇ、そうなんだ。俺は初めてじゃなかったかも」
 もっと小さい頃から、親にはよく映画館に連れて行ってもらっていた気がする。アニメとかヒーローものとか、やっぱり内容はあんまり覚えていないけど、見に行ったってことは記憶にある。
「映画館って音大きいじゃん。ウチがびっくりすると悪いからって、小学校に上がるまで行ったことなかったんだよね」
 耳郎はふわふわ浮く耳たぶのコードを指に巻いた。へなへなしていたコードもシャワーで温まって普段の動きを取り戻したようだ。
「映画館の椅子が大きかったこととか、暗くなった時のわくわく感とか、音が色んな方向から聞こえたこととか。映画見た後に行ったレストランで何食べたかまで覚えてる」
 髪と同じ色の濃い紫色の瞳に、テレビの光がきらきら映る。それがそのまま耳郎の気持ちと重なっているように見えた。今まで知らなかった穏やかな横顔をじーっと眺めると、俺も耳郎と同じ気持ちになるような気がした。
「すげー嬉しかったのな」
「でも肝心の映画の内容があんまり記憶に残ってない」
「俺も俺も」
「え、上鳴と一緒とか。何か嫌なんだけど」
「何でだよ!」
 素っ気ないことを言われると俺がムキになって返す。すっかり身体に馴染んでしまったリズムが、ぽろっと出た。いつもよくやるやり取り。全然特別じゃないのに、何がそんなに面白かったんだろう。耳郎が声を上げて笑った。



 お互い二回目だけど、新鮮な気持ちで映画を鑑賞した。突っ込みを入れたり、感想を言ったりして喋りまくっていたら、あっという間に一時間が経っていた。黙って、と時々怒られたけど、耳郎も話し掛けてきたからおあいこだ。
 CMに入ったら耳郎がその場に寝転んで、うつ伏せの姿勢になった。
「何か眠くなってきた」
 そして、閉じたまぶたを指でなぞっている。
「ベッド使えよ。俺テキトーに寝るし」
 遅かれ早かれ問題になること。寝具がベッド一つしかないこの部屋で、どう二人で寝るかについて、実は頭の片隅で考えていた。まあ、ベッドを耳郎に譲るしかないんだろうなと、結論はすぐに出ていたけど。
「いいよ、ここで」
 動くのが心底面倒くさそうに耳郎は身じろいで、これだけ貸して、とクッションを引き寄せた。ポスッとそれに頭を預けて、眠たそうに何度も遅い瞬きをする。
「いいって、遠慮すんなよ。ちょーど今日シーツとか替えたばっかだから!」
 念のため俺はベッドに上がり、シーツと枕に鼻を寄せてすんすん匂いをかいだ。
「くさくねえから! むしろ良い匂いする!」
 ぱっと頭を上げれば、ぼーっとした目で耳郎が俺を見ている。もう一度顔を伏せて鼻から息を吸い込むと、「かぎ過ぎ」って耳郎がウケてた。
「本当にいい。むしろここの方が良いから」
 またアニメが映る。耳郎は首をのけ反らせて、横になってもまだテレビを見ようとしていた。
 遠慮なのかマジで嫌なのかは分かんないけど、どんなに言っても聞かないことだけは分かった。ベッドから降りると、俺も耳郎とちょっと間を空けて、並ぶように横になった。
「何であんたまでそんなことしてんの」
「俺も床で良いやって」
 耳郎が怠そうに視線を俺に移す。
「気遣わないでよ」
「遣ってねーよ。何かこの方が楽しくね? 雑魚寝」
 二人しか居ないけど、と心の中で突っ込む。全く気を遣っていないと言えば嘘だけど、実際俺はだんだん楽しくなってきていた。なぜかテンションが上がってきた俺とは反対に、耳郎はとろんとした目をしていた。
「勝手にすれば」
「ま、俺が続き見といてやるから安心して寝ろよ」
 腕を伸ばして耳郎の肩近くの床を二回軽快に叩くと、分かりやすくムッとされる。
「眠いとは言ったけど寝るとは言ってないし。見るから」
 そう強がっていたけど、結局それから五分も経たずに耳郎は寝息を立て始めた。ちょうどクライマックスに差し掛かったところなのによく寝れたな。

 タオルケットを耳郎に掛けて明かりを消し、テレビの音量を下げて俺は最後まで映画を見た。これは感動する話だったということを初めて知った。じーんとしたままリモコンで電源を切ると、一気に部屋の中が暗くなる。
 ベッドから枕を下ろして寝ようとしたけど、自分が何も掛けていないことが気になって身体を起こした。でも他のタオルケットを出すのが面倒だから、バスタオルをその代わりにする。
 耳郎は俺があちこち歩いても、すやすやと眠っていた。そのことに心底安心する。再び横になって目をつむると、今日の耳郎の色んな表情が勝手に思い浮かんだ。

 俺なんかよりずっと肝が据わっている耳郎も、やっぱり弱ったり無理に頑張ったりしてグラグラするんだな。そんな当たり前なことを素直な寝息を聞きながら思った。無傷な俺でさえ、妙な物音がしたらゾワッとするし、嫌な夢も見るんだから、そりゃそうか。平気な振りをするのはみんな一緒なんだ。
 それでも初めて来た部屋の中、ラグが敷いてあるとは言え硬い床の上で即行で寝るくらいだから、まあ図太いところもあるんだろう。耳郎の静かな呼吸音を聞いていたら、だんだん俺もうとうとしてきた。
 寝ぼけた頭の中でとりとめのない考えが生まれて、簡単に過ぎていく。きっと明日起きたら全部覚えていないようなことばかり。ぽんぽんと脈絡のない言葉が浮かぶ。その合間に俺は、自分の意思でひとつ思い浮かべた。

 耳郎が悪い夢を見ませんように、って。
 あと、俺も。




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