ひと夏の隙間 / p.5

 昼間はそれなりに賑わう通りも、始発の電車が出る頃の時刻では誰も居なかった。密集しているスーパーやドラッグストア、ファミレスがみんな静かに眠っている。
 ネットの情報によれば電車はもう平常運転をしているようで、起きて早々帰ると言った耳郎を送るために、二人で駅までの道のりを歩いていた。
 昨日の暑さが嘘みたいに涼しい。でもこれからまたガンガン気温が上がってくるんだろうな。今日は真面目に部屋の片付けでもするか、と若干覚めていない頭の中で考える。

「あの、さ」
 お互いのサンダルが歩道を撫でる音しか聞こえなかったところで、耳郎が口を開いた。横を見ると、耳郎は落ち着きなく耳たぶのコードを人差し指に絡ませていた。
「このこと、みんなに言わないでね」
 ウチが言えることじゃないんだけど……、とめちゃくちゃ小さい声で呟く。俺とは反対方向に視線を投げて、全然こっちを見る気配がない。
 清々しい朝の空気って、何ていうか上手く言えないけど、人を正気にさせる薬でも入ってんのかな。別におかしいことをしたつもりはないけど、耳郎の気まずそうな態度を取る気持ちは、俺にもよく分かった。
「い、言わねえよ。そんなわざわざ」
 その証拠に、部屋を出てから今までの十分くらいの間、俺らは一言も口をきいていなかった。四時半頃にどちらともなく目を覚ました時から、必要最小限の言葉しか交わしていない。

 床で寝たから背中が痛い。耳郎もやたら伸びをしていたから、身体がガチガチなんだろう。
「普通に考えたら、二人きりで過ごしたとかちょっと……。ウチと上鳴だから、何て言うか別にあれだけど……、でもこういうのって、あんまり良くないっていうか」
 態度と同じく、言わんとしていることもまあ分かった。言葉を選び過ぎて中身が全然ないけど。ただ、妙におどおどしている耳郎に対して、俺はちょっとだけ安心もしていた。
「耳郎にもそういう感覚あったんだな」
 ホイホイ男の部屋に上がりこむようなやつではないと思っているけど、一応もう高校生だし、そういう危機感が全くなかったらちょっとやべえな、とは感じていた。でも取り越し苦労だったみたいで良かった。
 俺の素直な感想に、ぴくっとイヤホンジャックが反応する。思わず身体を引いて目をぎゅっとつむったけど、それが飛んでくることはなかった。ゆっくり目を開けると、耳郎の耳たぶのコードは真っ直ぐ下りていた。
「てか冷静になってみたら、父さんとか母さんの友達にお願いしたらどうにか迎えに来てもらえたと思うし。……上鳴に迷惑掛けることでもなかったなって」
 耳郎が落ち着きなくうなじを掻く。

 一晩二人きりだったとか、傍から聞いたら「マジ?」って思うけど、実際は一緒にカレー作って食ってテレビ見て雑魚寝しただけ。普段はしないようなことを勢いでやっちゃった感じ、夏休みっぽくて良かったんじゃね。
「迷惑じゃないって。俺は楽しかったけど?」
 まあ気にすんなよって気持ちを込めて言うと、耳郎はやっと俺の顔を見た。薄い唇を開いて一瞬迷う素振りを見せたけど、結局はちょっと笑って、
「ウチも」
 と俺に同意した。それから、ありがとって言う。それが嬉しかったから、どーいたしまして、と自然と明るい声が出た。
 そういえば、俺の今の部屋に来た女子は耳郎が初めてだ。そんでもって、たぶん最後だ。春頃は、夏休みまでに彼女作ろうと思ってたんだけどな。現実はキビシイ。


「もうここで良いよ」
 ちょうど横断歩道の赤信号で止まったところで耳郎が言った。俺は小さく頷いて、でも突っ立ったままでいた。三十秒くらい経って、信号が青に変わる。
「じゃあ。送ってくれてありがと」
 軽く手を上げて、耳郎が歩き出す。
「おう、気をつけてなー」
 俺も同じように右手を上げた。
 あまり日に焼けていない腕をゆらゆらさせながら、耳郎が離れていく。後ろ姿を見ていたら何となく立ち去るタイミングを失ってしまって、また信号が赤く光っても、俺はずっと同じ場所に居た。

 固まって怠い身体をほぐそうと、両腕を上に伸ばす。そうしたらあくびが出て、その瞬間と耳郎がちらっと振り返る仕草をしたのがほとんど同時だった。俺がまだ居たことにびっくりしたみたいで二度見してきたけど、俺がだらしなく口を開けていたのもしっかり見たみたいで笑っている。
「帰んないの」
 少し張り上げた耳郎の声が、朝の空気を伝って真っ直ぐ飛んでくる。
「帰る帰る!」
 俺も耳郎に届くように声を投げた。
 それから、背中を伸ばすために上げたままになっていた手を、ちょっと大袈裟なくらい振ってみた。普段だったら、耳郎にこんなことしないんだけど。
 耳郎は後ろ向きに歩きながら、あくびをしていた時の俺と同じくらいでかい口を開けて何かを言った。でも今度はどんなことを言ってんのか、よく分からなかった。
 何って聞き返そうとしたら、耳郎も細い腕を真っ直ぐ空に向かって伸ばした。そして俺に負けないくらい、大きく振り返してくれた。




2019.08.01 pixivへ投稿
2019.08.23 サイト掲載・修正
2021.06.06 再修正



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