改札を抜けると、すぐに耳郎を見つけた。彼女は券売機の傍にある柱に背を預けて立っていた。
「おーっす、久しぶり」
緊張をしている割には、何も気にしていない風な明るい声が出せた。片手を上げて挨拶しながら近づくと、耳郎も上鳴の方へ歩いてきた。
「久しぶり」
落ち着いた低い声、普段通りのクールな表情。それを硬いと感じてしまったのは、自分がビビっているからなのか、本当にそうなのか、上鳴には分からなかった。
「悪いな、わざわざ。休みだったん?」
上鳴は耳郎の全身を見た。オーバーサイズのパーカーにマフラーを巻いて、ジーンズを履いている。つい今まで家に居ました、と書いてある格好だ。そもそも耳郎のアパートの最寄り駅で落ち合うことになった時点で、休日だったのかとは予想していたが。
耳郎はパーカーのポケットに両手を突っ込んだまま、小さく首を横に振った。
「早く帰って来ただけ」
そして目も合わせず一人で歩き出す。上鳴は慌てて追いかけた。やっぱりいつも通りの耳郎ではないと確信する。梅雨と別れた直後は何でもできそうなくらい晴れ晴れとした気分だったのに、簡単に強気はしぼんでしまった。不機嫌な耳郎は怖い。
無言のまま駅の階段を下り、通りに出る。どこか行くあてがあるのか、上鳴はそれすらも聞けずにいた。何となく半歩後ろを歩いていたら、耳郎が振り返った。
「歩きながらで良い? 話すの」
「へ?」
「……話、あるんでしょ」
「あ、はい」
間の抜けた返事をした後、数秒空白があった。耳郎は一瞬困ったような表情をして、また前を向く。とりあえず隣に並んだ方が良さそうだと、上鳴は大股で近づいた。
これは参ったと思った。確かに話があると誘い出したのは自分だ。しかし上鳴は耳郎から話を聞きたかったのだ。実際に会ったら耳郎も何か言いたげな様子なのではないかと予想していた。なのに耳郎は、呼ばれたから出て来ましたといった雰囲気だ。
無愛想な耳郎の様子に気圧されてしまったが、もう会っているのだから腹を括るしかないだろう。
「お、俺の勘違いだったらわりーんだけど」
耳郎の手はずっとポケットの中に入ったままだ。寒いだけなのかもしれないが、それが自分に対するメッセージに思えてしまって気が弱る。あんなに無防備に揺れていた手が恋しい。
「耳郎、俺のこと避けてる?」
耳郎が静かに上鳴を見上げた。
「違った?」
今日初めてちゃんと目を合わせる。じっと見つめると、耳郎の瞳が戸惑ったような色をした。彼女はすぐに目を伏せて、また歩き出した。
五分ほど歩いて通りかかった公園に二人は入った。日が暮れた広場はひっそりとしていて、犬の散歩をしている人や制服を着た学生を時々見かけるくらいだった。
電灯の明かりが淡く届く距離にあるベンチに腰掛けて黙っていると、耳郎がようやく口を開いた。
上鳴が女の先輩と一緒に歩いているところを見た、と。
続けて言われたヒーロー名を聞いて、上鳴は先輩のことを思い浮かべた。彼女とは同僚なのだから、そりゃあ一緒に歩くことはある。そもそもただ歩くどころか、パトロールに出動にイベントに、数え始めたらきりがない。やけに神妙な耳郎の様子にどう反応したら良いか分からず見守っていると、彼女は何度か躊躇った後、大きく息を吸った。
「……その人と、付き合ってんの?」
平坦でぶっきらぼうな声でそう言うと、耳郎は相変わらずパーカーのポケットに手を仕舞ったまま、肩をすくめて見せた。髪が横顔に掛かって表情は伺えない。上鳴は突拍子もない発言に一瞬で混乱して、思わず彼女の方へ身を乗り出した。
「えっ、えぇ!? 付き合ってない付き合ってない! 何で!?」
上鳴の大声に驚いたのか、耳郎は跳ねるように顔を上げて彼を見た。
「住宅街の方に歩いて行ったし」
「じゅ、住宅……? あ!」
「それに……一回じゃ、ないみたいだったから」
「あ、あれ、耳郎見てたの!? あ、いや、見てたのっていうか」
意味もなく身ぶり手ぶりをする上鳴を、耳郎は呆然と見つめていた。彼女の胸中が一体どうなっているのか、表情から読み取ることはできなかったが、とりあえず上鳴は状況を説明することにした。先輩本人が居ないところで勝手にこんなプライベートな話をばらしてしまう罪悪感はあったが、今はそれを気にしている場合ではなかった。
「……もし何かあったら悪いしさ。先輩は良いって言ったんだけど心配で、それで」
全部話し終わった後は、すっかり体力を消耗していた。秋の夜とは思えないくらい暑くてたまらない。
「……あっそ。なるほどね」
上鳴の必死な説明に対して耳郎はただこれだけ、低くつぶやいた。信じてもらえていないのだろうかと不安になったが、そっと首を伸ばして彼女の顔を覗くと、そこにはばつが悪そうにしている表情があった。どうやら真意は伝わったらしい。上鳴は大きく息を吐いて、ベンチの背に体重を預けた。
やっと頭の中を整理する余裕が出てきて、パズルのピースがひとつずつはまっていくような感覚を覚えた。
耳郎の反応が悪くなったと感じ始めた時と、先輩を家へ送っていた時期は重なっていないが、それは自分が連絡を取っていなかったから気が付かなかっただけなのだろう。上鳴は無言で何度か頷く。
「そっか。とんでもねえナンパ野郎だって思われてたわけだな」
上鳴としては先輩に対して下心も何もなかったから、一緒に居るだけで男女の仲を疑われるなんて予想外だったが、確かに時間と言い場所と言い、勘違いをさせる要素はあったかもしれない。だけど正直ちょっとショックだった。耳郎にしては早とちりな気がするが、もちろんそれを自分が言える立場ではない。
「そんな怒ってんなら、はっきり言ってくれりゃ良かったのに。これブッ刺してさ」
上鳴はおどけた調子で言う。耳郎の耳たぶから下がるコードを指差そうとしたら、それはマフラーの中に仕舞われていた。ぴくっと彼女の耳たぶが動いたが、それが出てくることなかった。上鳴は中途半端に上げた手を、膝の上に戻す。
耳郎は言いたいことははっきり言うタイプだから、意外だなと上鳴は思う。馬鹿でもサイテーでも何でも良いからとにかく反応をしてくれていたなら、この不安な数ヶ月はなかったのに。
「別に、怒ってないよ」
耳郎はぼそっと言葉を落とす。空気を変えようとする自分とのテンションの差に、上鳴は口をつぐんだ。
「ていうか怒れないよ。何で、怒んの。上鳴が誰とどこで何をしていたって、そんなのウチが口出すことじゃないじゃん。そんな権利ないよ。別に……付き合ってる、わけでもないのに」
最初は硬くこわばっていた声が、言葉を重ねる度に震えていく。耳郎の張り詰めた緊張の糸が緩んでいくのが手に取るように分かった。
「でもそれなら普通にしてろって話だよね。ウチから聞きもしないで勝手に距離取ったりして。感じ悪い自覚はあったよ。ごめん」
声を潤ませながら、耳郎は何度も瞬きをした。すん、と小さく鼻を鳴らしてうつむく彼女を前に、上鳴はすっかりうろたえてしまった。まさか泣くだなんて思ってもいなかった。いや、まだ泣いてはいないが。
「だけど、どうしたら良いか分かんなくて。あんたが女の人と二人で歩いているだけで、こんなにびっくりするなんて思わなかった。自分でも馬鹿みたいだ」
耳郎の声は、儚げに揺れていた。初めて聞く声だった。
会えなかった間、耳郎は別に怒ったり不機嫌になったりしていたわけではなかったのだと、上鳴はようやく分かった。自分と同じように、ただ不安だったのだ。
「ウチ、誰とも付き合ったことないって言ったじゃん。上鳴もだけど。だからあんたが、軽い気持ちで手握ったり、そんなことするわけないって思ってたよ。上鳴は、自分勝手にひとの気持ちを傷つけるようなやつじゃないって、知ってるから」
耳郎はそこで言葉を止めると、ポケットから出した両手で目頭を押さえた。パーカーの長い袖から覗く左手に、白い包帯が巻いてあるのがちらっと見える。
「でも、すぐに確認しなかったってことは、疑ってたことになんのかな。分かんない。ごめん」
何度も鼻をすすって耳郎は涙を堪えている様子だが、上鳴にとってはもう泣いているように見えた。
予想と違うことが起こった時に、冷めるとか、嫌いになるとか、好きな人に抱く感情はそんな単純に切り替わるものではないと上鳴も分かる。耳郎の飾らない言葉を上鳴は自分の心に重ねて聞いた。
「耳郎、」
気持ちは目に見えない。
それでも、上鳴が耳郎に対して好きだと思っているように、彼女もまた自分に対して似たような気持ちを持ってくれているだろうとは、上鳴は感じていた。
だけどまさか、耳郎が自分のせいで泣くほどの思いを抱えているとは分からなかった。耳郎に対して自分がしてきたことの大きさを知った。
「耳郎、」
二回呼んでも彼女はそっぽを向いたままだった。指先で何度も目元を拭って、口をぎゅっと結んでいる。上鳴は勇気を出して、耳郎の両手を取った。耳郎は抵抗しなかった。
初めてこの手に触れたあの夜、言葉でも思いを伝えていたならこんなすれ違いはなかったのだろうか。耳郎は堂々と自分を怒れて、あっさり誤解が解けて。こんな表情は二度とさせたくないし見たくないなと強く思う。
自分よりも小さい耳郎の手を、包み込むようにやわらかく握った。そしてゆっくり深呼吸をする。
「す、好き」
心の中で何度も唱えたことのあるこの言葉は、たった二文字なのに口に出すのはひどく緊張した。情けないことに、ちょっとだけ声が震えた。だけど一度言ってしまったら、もう恥ずかしさも迷いも全て消える。
自分の中にある優しい気持ちを全部、耳郎にあげたかった。
「泣かせて、ごめんな」
「泣いてないし」
耳郎の瞳は涙の膜が張って揺れている。さっきまで何度も目元を拭っていたけど、涙はこぼれてはいない。だから泣いていないということなのだろうか。上鳴は、変な意地を張る耳郎がたまらなく可愛かった。
片腕を彼女の肩に回して、自分の方へ抱き寄せる。耳郎のつむじに口元が当たった。
「どうしたん、手」
彼女の左手の袖口をそっとめくると、手の甲から手首にかけて包帯が巻いてあった。
「ちょっとドジッただけ」
「今日?」
上鳴は耳郎の顔を覗き込むように身体を屈める。耳郎は小さく頷いた。
「痛い?」
「平気。大したことないから心配いらない」
耳郎はすぐにさっと左手を袖の中に隠した。袖口を引っ張ったまま自分で自分の手を握る。耳郎がなかなか手をポケットから出してくれなかった理由が分かった。自分を警戒していたわけではなく、怪我をしたことを知られたくなかったのだ。怪我のことは心配だが、上鳴はほっと安堵する。
肩を抱いていない方の腕も耳郎の背中に回して、上鳴は思い切り彼女の身体を抱き締めた。腕の中で耳郎が小さく声を上げる。
「ちょ、外だから」
しばらくジタバタされたが、ぎゅっと力を込めて抱き続けたら大人しくなった。周りに人が居ないのはちゃんと確認済みだ。耳郎の耳元に鼻を寄せて息を吸い込むと、いつもふわっとほのかに感じていた彼女の匂いがよく分かった。
「俺、今度から気を付けるから。マジで」
「何が」
「今回みたいなこと。俺でなきゃいけないことじゃなかったし、先輩もいいって言ってたし」
自分のお節介のせいで、一番大切な人が陰で嫌な気持ちになるのはかなり堪える。性格的にまたやらかしてしまう可能性はあるが、本当に気を付けるべしと肝に銘じることにする。
だが耳郎は、上鳴の腕の中でもぞもぞと身じろいで首を横に振った。
「それは、いい。気にしないで。変わんなくていい」
そして控えめに顔を上げる。
「あんたのそういうとこ、なくなる方が嫌だ。だから、気にしないで」
マフラーと首の隙間からぴょんとイヤホンジャックが出てくる。プラグが目の前に迫ってきて上鳴は思わず目を強くつむったが、ただ鼻の頭をピンと軽く弾かれただけだった。するするとコードを縮める耳郎は少し頬を染め、はにかんでいた。今日で一番、いや今まで見てきた中で一番やわらかい表情に、上鳴の胸は高鳴る。
「で、でも、こういうことしたいって思うのは耳郎だけだから! 当たり前だけど先輩には指一本触れてないし、触りたいとか思わないし、ていうか向こうも俺になんか触られたくないだろうし」
衝動的に目いっぱい力を込めて抱き締めてしまった。ぐ、と苦しそうな声が耳郎の口から漏れる。だけどこうでもしないと、溢れて止まらない気持ちの行き場がなかったのだ。
「もう、分かった。分かったから」
耳郎が窮屈そうに胸を押してくるので、上鳴は仕方なく腕を緩めた。ほんの少しだが。
「俺すげえドキドキしてんの、今。分かる?」
頭のてっぺんから爪先まで、熱くて熱くてたまらなかった。耳元でささやく声までも熱を帯びている。耳郎が好きだと、身体中で叫んでいることを彼女に知って欲しかった。
「……分かるよ。すごくうるさい」
さっき取り出された耳郎のプラグは、ぴったりと二人の胸の間に挟まれている。耳郎は観念したのか静かになって、じっと上鳴に身体を預けた。
だが三十秒も経たないうちに、彼女はふふっと吹き出した。上鳴もその理由が分かったから笑った。
「……お腹も鳴ってる」
「安心したら腹減った」
上鳴は恥ずかしくて頭を掻いた。ムードが壊れた反動か、耳郎はクスクスとずっと笑っている。あーぁ、やっちゃったな、と上鳴が思ったところで、耳郎は小さく二回頷いた。
「ウチも」
◇
コンビニでそれぞれ好きな弁当を買い、耳郎の部屋で食べることにした。二人分の弁当を持って、彼女の家へ向って歩く静かな夜。こんな些細な日常の出来事が、本当に付き合うことになったのだという実感になる。
人通りがほとんどない住宅街へ入ってからそっと耳郎の手に触れると、彼女は手を繋ぐことをあっさり受け入れてくれた。上鳴はにやけそうな顔を抑えて、ずっと聞きたかったことを尋ねた。
「そういやお前、女子会で俺とのこと喋ったんだって?」
「えっ」
慣れない状況に緊張しているのか、借りてきた猫みたいになっている耳郎は、急に話を振られて驚いたようだった。そんな様子に悪戯心が湧いて、上鳴はやっぱり顔の筋肉が緩むのを我慢できなかった。
「女子会で、俺にデートに誘われたとか、手握られたとか皆に言ったんだろ? 意外にお喋りなんだなー、耳郎って」
上鳴は繋いでいる手をぶんぶん上下に振った。にやにやしながら見つめると、耳郎の顔がかっと赤くなった。
「そ、そんな。……言ったら、ダメだったの?」
何か強気な言葉が返ってくるかと思ったら、意外にも耳郎はしゅんとしてしまった。相当調子が狂っているようだ。上鳴は陽気に笑って、手を強く握り直した。
「恥ずいじゃんかよ」
「男だってこういう話、友達にするんじゃないの」
「えー、しねえよ。ネタになりそうなことなら喋るけど、真面目なことは心に留めておくし」
耳郎は拗ねたように唇を尖らせた。そんな彼女の様子が上鳴は面白くて仕方ない。今なら何を言われても口で勝てる気がする。
「……誰から聞いたの?」
「さあて、誰かな」
「芦戸?」
返事の代わりに大袈裟に首を傾ける仕草をしたら、耳郎はムッとしたようだった。
「でも嬉しそうに話してくれたみたいだから許す!」
「べ、別に! 普通に喋っただけだから!」
やっと普段通りの元気な声が飛び出た。マフラーから出てきたイヤホンジャックがふわっと浮いて、プラグの先端が上鳴の顔の方を向いている。そろそろいじるのは止めよう、と思った。
「じゃあ、そういうことにしといてやるよ」
「何で上から」
不満げな突っ込みを聞いて、上鳴はへへっと笑った。
耳たぶのコードがゆっくり下りていくのを見届けながら、上鳴はコンビニの袋を手首に掛ける。そしてその手で耳郎の頬に触れてみた。秋の夜風にあたっていても、そこはほんのりと温かかった。
2020.04.29
2024.03.01 修正