Tender Dream / p.1

 ぐぅ、といびきのような音が聞こえて、三人の目がその方に向いた。賑やかなリビングの会話の隙間にその音はぴたっとはまって、ふと静かになる。視線をやった内の一人である響香は、グラスに残っていたハイボールをあおると、ソファからゆっくり立ち上がった。

「ほら、オッさん。寝るなら寝室行きなって」
 そして、先ほどから口数が少なくなって、うつらうつらと舟をこいでいた父親の肩を軽く叩く。
「おいおい、オッさんって」
 雑な呼び方に電気が突っ込みを入れるが、それを見ていた母親の美香は「いつもよ」と笑っているだけだった。呼ばれた本人も気にしていないのか聞いていなかったのか、ぼんやり目を開けると、
「ん、あぁ。そうするか」
 とだけ言って、のっそり立ち上がる。ガンッ、と大きい音を立ててテーブルに膝をぶつけたが、気がついていないようだった。

 夕方の六時過ぎから夕食を始めてかれこれ四時間近く、のんびりではあるがずっと酒を飲んでいたおかげで、彼の顔は赤いし目はすっかり据わっている。歩き始めたら足元がおぼつかなくて、仕方ないといった風に響香がその後ろを付いていく。
「転ばないでよ」
「大丈夫っすか」
「おう、だいじょーぶ」
 陽気な返事からは酔っ払っていることしか分からず、電気も腰を上げたが、響香が目線で大丈夫だと合図したので大人しく座る。
 二人がリビングのドアのところまで辿り着いた時、よたよたしていた父親の響徳が突然ばっと振り返った。
「電気!」
 大声で呼ばれた本人は思わず背筋をぴんと伸ばした。
「はい!」
 こちらも大きい声で返事をすると、びしっと指を差される。
「明日の六時半! 六時半から特別レッスンだからな!」
「えっ!? ……あっはい! 了解っす!」
 電気は一瞬何のことかと思ったが、そうだ明日ギターを教えてもらう約束を二時間ほど前にしたんだったと思い出した。
 すぐに立ち上がって敬礼してみせると、響徳が「絶対だぞ、絶対だからな」と怪しい呂律で念を押してくるので、電気はその度元気に返事をした。そのやり取りを呆れた様子で見守っていた響香は、いつまでも続く茶番を終わらせるために、無理やり父親を回れ右させると、廊下に押し出した。
「もう分かったから。母さん、ついでにウチらの布団準備してくるね」
「響香の部屋にもう運んでおいたわよ」
「そうなの、ありがと。じゃあ敷いてくる」
「あぁ、わりぃ、俺何もしてなくて。あ、お父さんおやすみなさい!」
 廊下の方から「おやすみ~」と機嫌の良い響徳の声が響いた。すぐに「うっさい」と娘の突っ込みが入る。美香はくすくす笑いながら、テーブルに並んだ空のグラスや皿を集め始めた。それに気づいた電気も慌てて彼女を手伝い、一緒に食器をキッチンへ運んだ。


 この度、二月に冬休みを取ることになった響香が実家に帰省すると決めた時に、「あんたも来る?」と誘ってくれたので、電気は休みを合わせて彼女と一緒に静岡に来たのだった。電気の実家がある埼玉は今住んでいる場所からそれほど遠くないので、まとまった休暇でないと帰れないわけではなかったし、彼女からの申し出が嬉しかったからだ。
 耳郎家を訪れるのはこれで三回目。一回目は二年前に、付き合っている報告と同棲の許可を得るために、二回目はついこの間の夏、結婚を申し入れるために。二回とも数時間の滞在だったので、泊まるのは今回が初めてだった。


 四人分の食器は食器洗浄機に収まりきらなかったので、入らなかった分は美香が手洗いをした。その間に手持ち無沙汰だった電気が三人分のお茶を入れ、綺麗になったリビングのテーブルの上に運ぶ。
 後片付けが終わった後、電気と美香は向かい合ってリビングのソファに座り、湯気の立つ湯呑に口を付けた。一口飲んで美香が「美味しい」と微笑んだのを見て電気はほっとし、自分も熱いお茶をすする。

「お父さん、飲ませ過ぎちゃいましたか」
 響徳は酒に弱くないと聞いていたし電気自身も飲むのが好きだから、注いで注がれて、会話もかなり弾んだこともあって、お互い知らず知らずのうちにかなり飲んでしまっていた。電気は響香の両親と一緒に食事をしたことはあるものの、酒を飲むのは初めてだったので響徳のペースも許容量もよく分からなかった。まさか寝落ちするほど酔うとは思わなかった。
 申し訳なさそうに電気が言うと、美香は笑って首を振る。
「ううん。電気君が来てくれたのが嬉しくて自分から飲んだのよ。気にしないで」
「それなら、良いんすけど」
 響徳のことを一番よく知っているだろう美香にそう言われて、電気は胸を撫で下ろす。実際、今日の夕食は楽しい時間だった。響徳は初めて自分のことを「電気」と親し気に呼び捨てにしてくれて、音楽の話や昔話、友達とするような他愛のない話題から冗談まで、彼が眠ってしまうまで会話は途切れることはなかった。
 これまでも電気が耳郎家を訪れれば響徳も美香も良くしてくれたが、今日一日で距離はかなり縮まったように感じられる。会うのは夏以来だから緊張していたが、本当に来て良かったと電気は心から思っていた。

「夏に挨拶に来た時、娘はやらんって言われたのはマジでビビりました」
 その時のことを思い出して、ははっと電気は笑う。
 彼は数ヶ月前このリビングで、響香に止められたのも構わず床に正座をして、響徳と美香に向かって「響香さんと結婚させてください」と頭を下げた。そうしたら間髪入れずに「娘はやらん!」と響徳から硬く厳しい口調で言われてしまったのだった。同棲を申し出た時はすんなり受け入れて貰えたので、断られることはないだろうと踏んでいた電気は、その一言ですっかり心臓が縮み上がってしまった。
 だがすぐに美香が夫をたしなめるようなことを言い、電気にフォローを入れてくれた。そうしたら響徳はたじたじになり、彼の発言は冗談だったということが発覚したのだった。今ではただの笑い話である。

「あの時は本当にごめんなさいね。一度は言ってみたかったからなんて、もう」
 美香も思い出したようで、困った顔で笑う。
「いやでも、ただの冗談ってわけじゃなかったと思ってます。本当に」
 響徳本人も「娘を持ったからには言ってみたい台詞だった」などとあっさり白状していたが、実際のところは、そういうふざけた気持ちから出ただけの言葉ではなかっただろうと、電気は直感的に思っていた。
 自分は親になったことはないから響徳の気持ちを隅々まで理解することはできないが、響香を見ていれば両親からいっぱいの愛情を受けて育ってきたということはよく分かる。その大切な一人娘が結婚をするとなれば、どんな男が相手でも何か厳しいことを言ってやりたくもなるだろう。それは嫌味ではなく、間違いなく娘の幸せを願う気持ちなのだ。
 このことについて響香と突っ込んで話をしてはいないが、彼女自身も父親の想いを感じ取っていたのだろう。何でもずけずけと父親に物を言う響香が、この時だけはずっと黙っていたのだから。

 美香は湯呑をテーブルに置いて、電気を見た。
「私たちはね、電気君が響香の傍に居てくれて安心してるのよ。離れて暮らしていても、電気君が居るから大丈夫ねって。普段の生活もそうだし、響香が怪我をして入院した時も色々世話をしてくれて、本当にありがとう」
 すっと頭を下げられて、電気は慌てて手を振る。
「そんなっ。俺も色々して貰ってますし、お互い様って言うか。むしろ俺が一緒に居て貰ってるって感じなんで」
 ヒーローという特殊な仕事柄、苦労やつらさも理解しやすく、困った時はお互い様だ。電気が入院をしたり体調を崩した時は響香が労わってくれるし、二人で一緒に暮らしているから乗り越えられたことが沢山ある。同業者である気安さを抜きにしても、響香とはそもそもノリや趣味が合うから、隣に居るのがただただ楽しいのである。
 帰る場所があるというのは心強い。大切なものや守るものが増えればその分、それらに対する責任も生じることになるが、電気はそれが重荷になるとは一切考えなかった。響香が傍に居るなら何でも頑張れる、大丈夫だと素直に思えたからだ。

 電気もうやうやしく頭を下げると、美香はふっと頬を緩めた。顔を上げた電気はそんな彼女を見てはっとする。目の前のこの表情を、彼は響香の中に見たことがあったからだ。いつも強気でクールな彼女だけど、ここ数年は、二人きりで居る時にそういう優しい表情をしてくれるようになった。親子なんだなあ、と当たり前のことを電気は改めてしみじみと思う。

「あなた達のことは心配していないけど、困った時はいつでも頼ってね」
「はい、ありがとうございます」
 話が一段落したところで、リビングのドアが開いた。美香がその方に視線をやる。
「無事に寝室に辿り着いたよ」
 父親の相手にくたびれた様子の響香が部屋に入って来る。美香はそんな娘に湯呑をひとつすすめた。
「ありがとう。ほら、響香のお茶。電気君が入れてくれたのよ」
「へえ。ありがと」
 響香も電気の隣に腰掛け、お茶をすする。三人は湯呑が空になるまで他愛のない話をして、それからそれぞれ寝室へ行った。




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