Tender Dream / p.2

 電気が布団に潜り込むと、ふかふかの寝心地に力が抜けた。疲れていたつもりは全然なかったが、いざ横になったら、もう立ち上がれないと身体が主張していた。冷えていた布団が自分の体温でじわじわと温かくなっていく感覚が気持ち良い。
 少し間を空けて敷かれたもう一組の布団には、響香が横になっている。どうして微妙な隙間を空けたんだか、と電気はちょっと面白くなかったが、彼女が素直に布団をくっつけて敷くわけないかと思い直す。

「響香、」
「ん?」
 明かりを消した部屋の中は真っ暗だった。目を閉じていても開けていてもあまり変わらない。ここは、響香が高校の寮に入るまで毎日暮らしていた部屋。家を出てからも両親が丁寧に掃除をしているのだろう、普段使われていない部屋でも綺麗に保たれていた。
「きょーか」
「何?」
 間延びした呼び掛けに返事が返って来る。まだ全然眠たくなさそうな声だった。
「じーろー」
「だから何って」
「こっち来ねえの」

 電気は響香の方に身体を向けて、つぶやく。その言葉は、しんとした部屋の中にぽつんと浮かんだ。一拍開けて、「ウチも布団あるし」と素っ気ない言葉が返って来る。
「えー、来いよお」
「何それ、めんど」
 粘ってみれば心底面倒くさそうな台詞が飛んで来たが、言葉とは裏腹にもぞもぞと布が触れ合う音がした。少しして響香が電気の布団の中に入ってくる。彼は身体を横にずらして彼女の分のスペースを空けた。求めていた体温が傍にやって来てすぐに抱き寄せると、いつもの馴染んだ香りが鼻をくすぐる。それを吸い込んで目を閉じれば、ここが普段二人で暮らしている部屋のような気がしてきて不思議だった。

「うぇーい、来た」
「……もしかして、結構酔ってる?」
「ううん、ぜんぜーん」
「あぁ、酔ってるね」
「……実は、二人きりになったらすげえ酔い回ってきた。ふわふわする」
 さっき、美香も交えて三人でお茶を飲んでいた時はほろ酔い程度だったのに、この部屋に来てからは全然駄目だった。電気も響徳と同じくらいの量の酒を飲んだのだから、当然の結果である。響徳にすすめられて普段あまり口にしないウイスキーも結構飲んだのだが、大して酔いが回らなかったので、「あれ、俺、酒強くなったのかも?」と電気はのん気に考えていたが、そんなことはなかった。響香の両親の前で酔っ払って無様な姿を晒してはいけない、という思いが彼を支えていただけだったのだろう。緊張感ってすげえな、とぼんやりとした頭の片隅で電気は思う。

 かたく抱き締めた腕の中で響香が窮屈そうに身じろぐ。そして頭をそっと撫でられた。
「まあ、気遣うよね。ありがとね、せっかくの休みに一緒に来てくれて」
「いやいや、全然。耳郎家楽しいし、呼んでもらえて嬉しかった」
 全く気を遣わないことは無理だし、ここに来てから二時間くらいはどうしても緊張が抜けなかったが、夕食を始めたらすっかり心は楽しむ方にシフトしていた。響香の両親は軽いノリを出しても受け入れてくれるし、むしろその方が響徳が嬉しそうだったから、電気は気がつけば砕けた話し方になっていた。当然失礼はないように適度な緊張感は維持していたものの、心から楽しんでいた。

 だが、今はひとつだけ気掛かりなことがあった。
「……でも俺、明日の朝ちゃんと早く起きれっかなあ。無理かも」
 電気が弱気にこぼすと、ふいに響香が撫でる手を止めた。
「何が? ゆっくり寝てれば良いじゃん」
「だって、響徳先生のギター特別レッスンが六時半から」
 明日ここを発つのは夕方を予定している。二人とも明後日もう一日休暇があるから、特に急いで帰る必要がない。だから明日、家に居るという響徳が電気にギターを教えてくれることになったのだが、まさかそんな早朝からだとは思わなかった。夕飯を食べながら約束をした時はてっきり昼頃から始めると思っていたのに、さっきの休み際、急に六時半だなんて言うから驚いてしまった。
 しかし響香の父親の言うことを断る選択肢は電気の中にない上、気持ち良く酔っ払っていたこともあって、即行で了解してしまった。布団に横になってから、その軽率な返事を電気は後悔していた。明日の朝、爽やかに起きられる自信がない。

 あのねえ、と響香が電気の気持ちとは反対にのん気に笑う。
「本気でやるわけないでしょ。どうせ父さんも二日酔いで起きて来ないよ」
「えー、そうかなあ」
「仮に本当に朝っぱらからやるとしたら怒ってやるから、寝てな」
「うー……、申し訳ない」
 彼女に守ってもらうなんて情けないと思いつつ、やっぱり頼りがいがあるなあと電気は思った。ぎゅうっと抱き締める腕に力を込めると、苦しい、と文句を言われたのですぐに緩める。
「あんたと飲むのが楽しくて、テンション上がって適当言っただけだと思うよ。母さんもウチも一緒にお酒飲むことあるけどさ、父さんそれより楽しそうだもん。女二人のとこで男一人だし、仲間ができたみたいな感じなんじゃない」
「へへっ、そうだと良いな」
 美香も似たようなことを言ってくれたなと思い出して、電気は素直に嬉しかった。
 響香の両親は、一握りの人間しか生き残れない音楽業界でずっとプライドを持って仕事をしている。二人と話をしていると、本当に音楽が好きだということが伝わってくるし、分からないことを尋ねれば丁寧に教えてくれる。おまけに気さくで楽しくて優しくて、本当にすごい人は偉ぶった態度を取らないものなんだな、と電気は彼らと触れ合って改めて思った次第である。電気はそんな二人を格好良いと思うし、もっと仲良くなれたら良いなと会う度に感じている。

 布団の中は二人分の体温ですっかり温かくなった。その温度は電気の眠りを誘うが、まだ喋っていたい気持ちがして、瞬きをして頑張って抵抗する。
「……俺さ、今日改めて響香のこと大切にしなきゃなって思ったんだよね」
「どしたの、急に」
「急じゃねえよ。いつも思ってるし」
「はいはい」
「大切にしなきゃっていうか……、いや今までもしてきたつもりなんだけど、まあ自分から言うなって話だけど、もっとしたいなーっていうか」
「ぐだぐだ」
 腕の中で響香が笑う。すぐ傍で聞こえる息遣いを感じると、あぁ、ずっと離したくないなと電気は思う。それは今までに何度も湧いた感情なのに、いつでも色褪せることなく心に浮かんでは、幸せであると同時に何だか切なくなる、不思議な気分を連れてくる。
「大事な一人娘をお嫁さんに貰うんだからさ」
 ふん、と響香が小さく鼻を鳴らした。かと思うと、ぴんと頬を弾かれた。よく見えなかったが、たぶん耳たぶのプラグの仕業だろう。
「そんな気負わなくて良いよ。てか結婚するからって、別にあんたのものになるわけじゃないし」
 らしいなあと電気は思いつつ、響香の身体を抱き直した。
「そりゃあ、俺のもんになるなんて思ってねえよ。でも何かそういうのあんだよ、俺的に」
 彼女の言いたいことは勿論分かるけど、それはそれでこれはこれだ。男心と言えば良いだろうか、理解されないとしても電気にとっては大事な気持ちだ。
 響香は納得したのかしないのか、とりあえず「ふーん」とだけ言った。何でも良いやと、考えるのを放り投げたのかもしれない。
「あ、でも俺のことは貰ってくれて良いよ」
「いい、遠慮しとくわ」
 食い気味に見事に感情がこもっていない返事が来て、電気は思わず声を出して笑った。タイミングが絶妙で途端に楽しくなってくる。酔いも相まってとても良い気分だった。
 一人で笑っていると、「酔っ払いはもう寝な」と頬が凹むくらいプラグでつつかれた。だが響香はそんな雑な扱いをしてきた後に、もう一度頭を撫でてくる。いつもより構ってくれていることに電気は感動したが、うるさいから寝かせようとしているだけなのだと少し経ってから気がついた。それでも悪い気はしないが。


 優しく撫でる手つきに意識を集中させていると、何とか抑え付けていた眠気が一気に襲ってくるようだった。抗うことはもう難しかった。
 電気はうとうとしながら、リビングで美香と二人で話したことを思い出していた。
「電気君が響香の傍に居てくれて安心してるのよ」と目を見て言ってくれた美香の姿がまぶたの裏に浮かぶ。まるで今、本当に向き合っているかのようにリアルな光景だった。
「俺の方が安心してるんですよ」と電気は彼女に言う。「でも、これからもそう思って貰えるように頑張ります」とも。これはさっき、言いそびれたことだ。それとも実は伝えていたんだっけか。
 一瞬考えた後に再び美香を見ると、彼女の隣にはいつの間にか響徳が居て、ギターを持っていた。見覚えのあるそれは、高校一年生の文化祭で響香から借りた黄色のエレキギターだった。「うわ、懐かしい」と声を上げて思い出す。そうだ、響徳から特訓をしてもらう約束をしていたんだった。「よろしくお願いします!」と頭を下げたら、どこからともなく響香の声がした。その声は笑いながら、「何、寝言?」と言っている。


「……んぁ、寝てた」
 直接耳に届いた声に意識が戻ってきた。響香が頭を撫でてくれているのも分かる。だがもう電気の瞼は重た過ぎて開けていられなくて、すぐにまた眠りに落ちそうな感覚があった。
「何かよく分かんないこと喋ってたよ」
「ん、だって喋ってたし……」
「いいよ。おやすみ」
 響香はまだくすくす笑っていて、まだ眠たくないようで声もしっかりしている。電気は再び意識を手放しそうになり、先ほどの夢の続きを見れるだろうかとぼんやり思った。

 あれは夢に違いないが、それと同時に夢ではなかった。記憶と願望が結びついて見せたイメージは、確かにこの手に掴みかけている幸せの兆しだ。離してしまわないように、緩みかけていた腕の力をもう一度強める。きょうか、と電気は彼女を呼んだ。
「俺さあ、味方になってくれる人が増えたみたいで、嬉しい」
 眠りながら勝手に口が動いたような感覚がして、きちんと喋れているか電気はあまり自信がなかった。この思いは心の中にしっかり映っているのに、自分の声は薄い膜の向こうで鳴っているかのようで、曖昧に聞こえる。

 耳元で「……じゃないよ」と返事が聞こえた、気がした。それは響香の声だ。何か否定されるようなことを言われるつもりはなかったから、もしかしたら意味が伝わらなかったのかもしれないと電気は思う。だけどもう話すのが億劫だったから、せめてもの意思表示で首を横に振る。すると何が可笑しいのか、小さく笑った響香の吐息が耳をくすぐった。

「みたいじゃなくて、そうだよ」
 靄がかった意識の中で電気は、その言葉の音だけを受け取ったに過ぎなかった。しかし耳に馴染んだ声の優しい調子で、電気は彼女の答えが分かった気がした。たぶん響香は分かってくれたんだと思って満足げに頷き、そのままぐっすりと温かい布団の中で眠った。




2020.12.20



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