ユメウツツ / p.2

 大量にあった古紙の束をようやくまとめ終えて、俺はふっと一息つく。窓の外を見るとすっかり日が暮れていて、まだ夕方なのに空はもう夜みたいな色をしていた。

 午後から何とか授業に集中しようと頑張ったものの、実際は心ここにあらずで、七限にミッナイ先生から当てられたことに俺はすぐ気づけなかった。切島や芦戸から小声で呼ばれて顔を上げたけど、授業を聞いていなかったのはバレバレで、その結果俺は罰として放課後雑用を命じられてしまった。
 それは、ミッナイ先生が処分しそびれていたプリントや資料といった古紙をまとめる仕事。峰田は「ミッドナイトと二人きりとかご褒美じゃねえか!」と血涙を流していたけど、いざ先生の準備室に案内されてみたら、よくこんなに溜め込んだなっていうくらい古紙は沢山あるし、手の水分は紙に吸われてカサカサするし、気を付けないと指を切りそうになるしで、地味に大変な仕事だった。
 最初は先生と一緒にやっていたけど、会議があることをすっかり忘れていた先生は呼ばれて居なくなってしまい、途中から俺だけになった。というか先生は帰って良いと言ってくれたんだけど、まだ作業の途中だったし、授業を聞いてなかったのは俺が悪いし、帰ってもぼーっとしてそうだったから、むしろ無心になれる作業がある方が有難くて、俺はすすんで引き受けたのだった。


 まとめた古紙は回収日にゴミ捨て場に持っていくらしいから、とりあえずは部屋の隅に置いておくことになっていて、その作業も終わった。後は戸締りをして、鍵を職員室に返して帰るだけ。
 だけどまだ何となく寮に戻る気になれなくて、俺は先生から預かった鍵を指に引っ掛けてくるくる回しながら、椅子に腰を下ろした。古いパイプ椅子が軋む。背もたれに思い切り体重を預けると、ぎしっと音が鳴った。
 部屋の蛍光灯の明かりで、外の暗さがいっそう際立って見えた。窓に映る自分の顔は何だか気が抜けている。それを眺めながら、(早く帰んなきゃな……)と思った時、コンコン、とドアをノックする音がした。先生かなと思って振り返ると、少し間を空けてからドアが細く開いた。
「あ、あれ? 耳郎?」
 狭い隙間から部屋の中を覗いているのは耳郎だった。俺がいることを確認すると、「先生は?」と聞いてくる。
「……か、会議あったの忘れてたって。行っちゃったけど」
 いきなりの登場にびっくりして、つい噛みそうになってしまった。先生に用事があったんだろうか、耳郎は「ふーん」と小さく呟く。
「終わんないなら手伝おうか?」
「い、いや、大丈夫! ちょーど今終わったんだ」
「あ、そう」
 耳郎は制服の上に黒いコートを着て、落ち着いたピンク色のマフラーを巻いていた。鞄は持っていなくて、片手をコートのポケットの中に突っ込んでいる。ドアを手で持ったまま、じっとこちらを見ていた。先が読めずに俺も見つめ返す。沈黙していたのはほんの数秒だったはずだけど、やたら長く感じられた。
「……入っても良いかな」
 遠慮がちな耳郎の声に反応して、心臓がどくんと鳴った。俺はワンテンポ遅れて頷く。
「まあ、良いんじゃね」
 俺の部屋じゃないけど、と思いつつそう言う。すると耳郎は中に入って来て、俺の隣にあった丸椅子に腰を下ろした。

 まさか耳郎が来るなんて思っていなかったから、突然の出来事にソワソワしてしまう。無駄に座り直したり、髪や制服をいじったりしそうになるのをぐっと堪える。というか何で来たんだろうとか、まだ寮に帰ってねえのかなとか、それとも帰ったのにまた来たのかなとか、俺の頭の中は疑問でいっぱいだった。だけどそんな俺とは対照的に耳郎はとても落ち着いていて、「まあ、あんただけで良かった」とぽつりと言った。
 何って聞き返すと、耳郎はポケットから手を取り出した。そしてぽいっと俺に向かって何かを投げる。反射で受け取ると、手がじんわり温かくなった。俺がキャッチしたのは、缶のココアだった。
「二本しか買ってこなかったし」
 そう言う耳郎はお茶のペットボトルを持っていた。そしてオレンジ色のキャップを開けて二口飲む。俺は手の中のココアをまじまじと見つめた。
「……えっ、くれんの?」
「うん」
「何で?」
「いらないなら返して」
「いるいるっ! 飲みます!」
 ソッコーで缶を振りまくって、プルタブを開ける。振り過ぎでしょって笑ってる耳郎を横目に泡立つココアを飲んだ。ちょうど空いていた小腹が温かく満たされていく。半分くらい一気に飲んで、俺はほっと一息ついた。お茶を飲んでいた耳郎もペットボトルから口を離して、キャップを締める。すると、「あんたさあ」と切り出した。

「ただでさえテスト前になると、分かんないとかやばいとか騒ぐんだから、せめて授業くらいちゃんと聞きなよ」
「……あ、はい」
 いきなり正論を言われて、俺は思わず肩をすくめた。甘いココアで癒された心が一瞬でしゅんとしぼむ。
 耳郎って意外に優等生だから、こういうことを言われると妙にぐさっと胸に刺さってしまう。テストの順位はいつもクラスで十番以内に入っているし、宿題を忘れることもないし、授業中に先生に当てられれば大抵そつなく答えている。楽器弾いたり音楽聴いたり、女子同士で漫画回し読みしたりしていて、勉強ばっかしてる感じでもないのに、何なんだろ。ていうか耳郎に限らずうちのクラスは皆、だいたいそうやって器用なんだけど。
 少しだけ沈黙が流れて、俺は間を埋めるようにココアをちびちび飲んだ。耳郎も静かにお茶を飲んでいる。中身が減ってきたらだんだんココアがぬるくなってきて、冷める前に飲んでしまおうと、俺は缶を一気に傾けた。
「……そんなんで、」
 残りのココアを飲み込んだ時、耳郎が呟いた。俺はまだ缶を唇に付けたまま、視線だけ耳郎の方にやる。
「留年しちゃったらどうすんの」
 耳郎の声は、ほんの少し寂しげな響きを持っていた。二人きりの部屋の中をいっそう静かにするような、そういう声だった。
「今日の上鳴、何か変だし。どしたの」
 それから耳郎はペットボトルを机の上に置いて、両手をコートのポケットに入れた。肩をすくめるようにして、俺の方は全然見ないでうつむく。俺は耳郎の一連の言動を思い返して、今ようやく、耳郎がここに来た理由を察した。

(……何だ、そっか。心配してくれてたのか)
 朝っぱらから避けるようなことをしてしまったから、耳郎は気を悪くしてんだろうなと、俺は想像していた。何だよこいつ、って思ってんだろうなって。でもそうじゃなくて耳郎は、俺に何かあったんじゃないかと考えてくれていたみたいだ。
 俺は手で包んでいる空っぽの缶を眺めた。このココアは俺が最近気に入ってよく飲んでいるやつだった。耳郎は気づいていたんだろうか、たまたま選んだろうか。どうなんだろう。

 お前良いやつだな、と俺は思った。耳郎はまだうつむきがちに、どこかを見ている。俺が喋るのを待ってるんだろう。気に掛けてくれるけど、無理に聞き出したりはしない。俺がここで「何でもない」って言ったらきっと耳郎は、「そう」とだけ答えるはずだ。
 そう思うと、じっとしている横顔が何だかむしょうに健気に見えてきた。いつも通学に使っているリュックを背負っていないから、耳郎は一旦寮に帰ってからまた来てくれたのかもしれない。寒いからわざわざ良かったのに。
 黙っている耳郎の姿を見つめていると、胸の奥からゆっくりと湧き上がってくる感情があった。夢で見た笑顔がまたふっと頭の中に蘇ってきて、俺は気がついた。今感じている気持ちが、夢で耳郎と向かい合っていた時のそれととてもよく似ていることに。
 今目の前にあるクールな表情じゃなくて、ああいう穏やかな顔をもう一度見てみたいなと俺は思った。夢の中だけじゃなくて現実でも。だってあの耳郎の顔、すげえ可愛かったんだんだから。
 そこまで考えたら、急に心臓の鼓動が速くなってきた。これは今日ずっと、気がつかないように避けてきた感情だった。耳郎のことを女子として見てしまったら、今まで積み上げてきたものが全部崩れていってしまいそうな気がして怖かったからだ。だけど一度素直になってしまったらもう誤魔化せなかった。そうだ俺、耳郎のこと可愛いって思っちゃってるんだ――……。

 夢に引っ張られ過ぎだろって何度も自分に言い聞かせていたけど、もしかしたら無自覚なだけで、俺はずっとそう感じていたのかもしれない。そして夢は、深層心理ってやつを俺に見せてくれただけ。
 無駄な抵抗を止めてみたら、朝からの混乱が嘘みたいにすーっと胸から引いていくのが分かった。そうだよな、俺の夢なんだから、自分の中にないもんなんか見れるわけないもんな。
 俺は大きくなっていく鼓動の音を抑えるように、静かに深呼吸をした。そして、こんな夢を見たから変な態度を取ってしまったんだと、正直に言うことにした。俺のわずかな呼吸音に反応して、耳郎の視線が少しだけ上がる。
 ていうか、わざわざ心配して会いに来てくれてるんだし、もしかしたら耳郎も俺のこと、ちょっとは意識してくれちゃってるんじゃね。そうかな? ……そうかも。でもそうだったら、どうする?
 万が一の可能性に思い当たると、心臓がどくんと大きく鳴った。そして気持ちがまとまらないまま俺は口を開いた。




 夢の話を聞いた耳郎のリアクションはどうだったのかと言えば、笑われた。
 最初は静かに耳を傾けていたけど、だんだん呆気にとられたような顔になって、それから耳郎は口をぎゅっと一文字に結んだ。何かに耐えるような様子を見て、(おや?)とは思った。思ったんだけど話を続けていたら、もう我慢できないと言った風に耳郎は吹き出した。「嘘でしょ」「何でそんな夢を真に受けてんの?」「あんた催眠術めっちゃかかりそうだね。単純すぎて心配」などと、笑い過ぎてひーひー言う合間にそんなことを言っていた。

 腹を抱えて笑っている耳郎を見て、俺は恥ずかしさが一気に込み上げてきた。話している途中で最高潮に達した心臓の鼓動は、今はさっきと違う意味でドカドカ鳴っている。
 前言撤回。全っ然、可愛くねえわこいつ。ていうか何だよ笑い過ぎじゃね!?
「うるせー! 何かすげえリアルだったんだよ!」
「だからって意識しちゃうとか。マジ? あんた小学生なの?」
「いやマジで。マジで夢がリアルだったの、しょうがねえじゃん! お前も見れば分かるって!」
「リアルとか」
 ブフッとまた耳郎が吹き出す。
「学校で手繋ぐのとか有り得ないわ。その時点でウチじゃないから。誰それ」
 全く女っ気のない豪快な笑い方。笑い過ぎて涙が出てきたのか、耳郎は時々目元を指で拭った。

 そうだよ、耳郎に言われなくたってそんなこと分かってたよ。夢に感化されて意識しちゃっただけだって。
 でも勘違いだったとしても、たったさっきまで胸に浮かんでいた感情は紛れもなく現実の俺のものだった。だからなぜか今、勝手に失恋したみたいな気持ちになっていて、俺はとにかくそれが悔しかった。めちゃくちゃ悔しい。だって告ってねえし、そもそも夢のせいだし、それなのに何で俺振られた気になってんだろ。無駄にもてあそばれた感じがして意味が分かんなくてつらい。
 俺は机の上に置いておいた鍵を引っ掴んで、マフラーと鞄も持って立ち上がった。
「あー! もう帰る! 帰る帰る帰ります!」
 そしてずんずんとドアに向かって歩いた。後ろは振り返らなかったけど、少し遅れて耳郎も付いて来ているのは分かった。今も治まらないらしい笑い声が追い掛けてくるから。
 耳郎を先に追い出して、俺は部屋の明かりを消した。もたつきながら鍵をドアに差し込んでくるっと回す。その時俺の隣で、耳郎がのん気な調子で言った。
「あー、心配して損した」
 耳郎の素直な言葉が耳に入って、沸騰していた心が少しだけ鎮まる。耳郎は耳郎なりに俺のことを考えて、ここに来てくれていたんだった、ということを思い出したからだ。俺の純真な心を笑い飛ばされたのはムカつくけど、とりあえずこっちの気遣いは感謝しなきゃだな、と思い直す。
「どーも」とぼそっと言うと、耳郎は軽く頷いた。そしてまだちょっとにやにやしていた。やっぱりムカつく。ちゃんと鍵が閉まったことを確認してから、二人で歩き出した。


 しばらく歩いて、缶を忘れてきたことを思い出した。耳郎とぎゃあぎゃあ言ってた時に机の上に置いて、そのままだった。それを言おうと思って隣を見たら、その空き缶を耳郎が右手に持っているのを見つけた。耳郎は腕を下ろして普通に歩いていて、コートの袖で手が少し隠れているから気がつかなかった。俺は左手を缶に伸ばした。
「俺が捨てる」
「ん? あぁ、いいよ。別に」
 避けようとした耳郎の手より俺の動きが一瞬速くて、指先がほんのちょっとだけ触れ合ってしまった。お互いの手が止まり、思わず俺の指がぴくっと震える。また意識し過ぎだって笑われると思ったんだけど、予想外にも、耳郎の手も少しだけぎこちない動きをした。それに気づいて顔を上げたら、耳たぶから下がるプラグも何だか不自然にゆらゆらしていた。

 こういう時の直感って、だいたい当たってる。さっき散々俺のことを笑ってたくせに、何だよ意外に可愛い反応しちゃって。俺は面白くなってきて、このまま笑われっぱなしも格好悪いし、ちょっとからかってやろうと思った。手を引っ込めようとしたのを止めて、なるべく落ち着いて聞こえるように心がけて、言ってみた。
「手、繋いでみる?」
 俺ら以外誰も居ない廊下はしんと静まり返っていて、俺の声は想像以上に真剣に響いてしまった。真面目っぽいけどちゃんと冗談だって分かる感じにしようと思っていたのに、実際は緊張して舌がこわばってしまったのだ。結局格好悪い俺。
「繋がないよ」
 耳郎はぶっきらぼうに、そう答えた。低く呟くような声でも、放課後の静けさの中ではとてもよく聞こえた。
「ですよね」
 誤魔化すように笑った俺の調子外れな響きも、ひんやりとした廊下の空気の中でやたら目立っていた。
 だけど耳郎はそう言ったくせに、俺と同じように手を引っ込めなかった。耳郎の手はあと数ミリで届く距離にずっとあった。
「学校で繋ぐとか、無理」
 廊下が再び静かになった時に、耳郎がもう一言付け加えた。それで、それきり黙った。咄嗟に言葉を返せなかった俺も、喋り出すタイミングを見失ってしまって、黙った。



 歩くリズムに合わせて、俺らの手の甲は触れ合ったり離れたりしていた。それでもやっぱり、お互い手はそのままにしていた。何ていうか、あからさまに引っ込めた方が負け、みたいな空気があったのだ。角を曲がっても、階段を下りても、俺らは同じ距離を保って同じペースで歩いた。そして俺はその間ずっと、耳郎の言葉の意味を考えていた。

 もうすぐ職員室に着く。そうすれば手は離れて、この変な雰囲気もたぶん終わる。耳郎といつまでも黙って歩いているのはらしくない。だんまりしたままじゃ気まずいから、耳郎が喋らなくても俺が耐え切れなくなって、どうでも良い話を振ってしまいそうだ。
 でもその一方で俺は、この時間が終わることがなぜかちょっと名残惜しかった。気まずくたって、手の甲を時々ぶつけ合うだけの、体温なんて分からないくらいの短い触れ合いが続く方が良いと考える自分もいた。そんな風に思うなんて、やっぱり今日の俺は調子が狂っている。でもそれはもう間違いなく、夢のせいだけじゃなかった。

 そっと隣に目をやると、耳郎はどういう感情でもないようなポーカーフェイスのまま、足元に視線を落としていた。イヤホンジャックはぷらぷら揺れているけど、歩いているせいなのか、それともそうじゃないのか、今度はよく分からなかった。
 俺は耳郎が言ったことを、浮つく心の中で何度も何度も考えていた。学校って校舎のことを言ってんのかなとか。それとも敷地内は全部学校になんのかなとか。もしそうなら今日は駄目じゃん、とか。ていうか俺もうその気になっちゃってんじゃん、とか。
 そもそも耳郎にとってネックになってんのって、それだけなの? とか。




2021.01.02



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