イン・ステップ / p.1

 今日も相変わらずランチラッシュの食堂は混雑していた。ヤオモモと並んで座って日替わり定食を食べていたら、空いていたウチの左隣に醤油ラーメンの乗ったトレーが置かれる。近づいてくる気配や足音で誰なのか分かっていたから、ウチは顔を上げなかった。

「なあ、耳郎も弁当作んねえの?」
 椅子を引いて、上鳴がウチの隣に腰掛ける。何の前置きもなく振られた話題に心当たりはあったけど、ウチは知らない振りをして、「何が」と聞いた。ヤオモモも上鳴の方を見ている。
「今日、梅雨ちゃんと麗日が弁当持ってきてたんだよ。手作り弁当。さっき教室で見せてもらったんだけどすげえ美味そうでさあ」
「そういえば昨日の夜、お二人でキッチンにいらっしゃいましたね」
「お昼の食材が余ったからお弁当にするって言ってた」
 寮で出してもらえる食事は朝食と夕食だけだから、昼食は自分で調達する必要がある。授業がある日はこうして食堂で食べたり購買で買ったりすれば良いけど、日曜日はそういうわけにはいかない。皆近くのコンビニに買いに行ったり、寮のキッチンで作ったり、ストックしているカップ麺やレトルト食品で済ませたり、色々だ。梅雨ちゃんと麗日はよく一緒に自炊をしている。最近は多めに食材を買って、月曜日の昼はお弁当にしているみたいだった。

「何だよ、耳郎知ってたんじゃん」
 上鳴が拗ねたように口を尖らせる。
「別に、梅雨ちゃん達がお弁当持ってんのとウチは関係ないでしょ」
「なあ、ヤオモモと耳郎も作んねえの?」
「私はあまりお料理に自信がありませんから……」
「ウチも作んない」
「えー、そっか」
 上鳴は残念そうに言い、テーブル中央に置かれたコショウの瓶を手に取った。ラーメンの上にぱっぱっと二回振りかける。
「耳郎も作るんだったら、ついでに俺のもつく……って、いってぇ!」
 瓶の蓋を締めたところで上鳴が悲鳴を上げた。ウチが思い切り足を踏んずけたからだ。上鳴の手から離れた瓶は、倒れる前にイヤホンジャックを巻き付けて拾っておいた。うつむいて痛みに耐えているやつの代わりに定位置に戻しておく。ヤオモモが目をぱちくりさせてこっちを見ていたから、何でもない、と言った。
「何お前、また余計なこと言ったわけ?」
 上鳴の向かいの席にウチと同じ日替わり定食が置かれる。目を上げると、呆れたように笑っている瀬呂が居た。


 食堂を出てから、職員室に用事があるというヤオモモと別れてウチは玄関に向かった。飲み物を買いたかったけど、食堂にある自動販売機の前は混んでいたから、ちょっと空いている方に行こうと思ったからだ。
 予想通り玄関の方が人が少なかった。全然並ぶことなく自販機の前に辿り着き、小銭を入れる。ボタンに指を伸ばした時、誰かがすっとウチの隣に立った。
「何飲むん?」
「お茶」
 ガコン、と音を立ててペットボトルが落ちてくる。ウチは上鳴の方を見ずに答えて、取り出し口に手を伸ばした。
「俺、何にしよっかなー」
 上鳴はそう言いながら小銭を投入口に入れた。飲み物のサンプルを前に人差し指をふらふらさせて、ちょっと迷ってからボタンを押す。
「あーさっきもう、足折れたかと思った。俺の頑丈な骨じゃなかったら危なかったぜ」
 ミルクティーの缶を取り出しながら上鳴は笑う。そしてこれ見よがしに右足をウチの方に向けてぷらぷらと振る。明らかに突っ込み待ちなのが分かったけど、ウチは何も言わずにその場を離れた。
「ちょ、えっ?」
 背中の方からそんな声が聞こえて、それからすぐに焦ったような足音が追いかけてきた。ウチは構わず歩き続ける。
「じろう~」
 賑やかな昼休みの廊下の隙間を縫うように進んでいく。皆思い思いに過ごしているから、静かな追いかけっこをしているウチらを気にする人は居ないようだった。


 中庭に出ると、風が弱く吹いていた。澄み切った秋の青空が広がっていて、日なたで過ごしている生徒がちらほら見える。ウチは日陰の方に向かって歩き、広場から死角になる校舎の陰に身体を滑り込ませた。数歩遅れて上鳴もやって来る。向かい合うように立ったまま、ウチはまだ開けていないペットボトルに視線を落とした。
「……あんまり皆の前で、ああいうこと言わないでよ」
 少し顔を上げると、上鳴と目が合った。上鳴はうつむきがちなウチの表情を伺うように、首を傾けていた。
「え。もしかして、怒ってる?」
「怒ってるっていうか……」
 恐る恐るといった口調で尋ねられて、ちょっと罪悪感が湧いた。居心地の悪い思いをさせたいわけじゃないのに、と思ってこちらも語尾が弱くなる。つい感情に任せて不機嫌になってしまった自分を反省しかけたところで、上鳴は一転してのん気な調子で言った。
「別にあれくらい良くね?」
 軽い口調にウチもころっと気が変わった。自己嫌悪に傾きかけていた心がまた感情的になる。
「良くない! 何であんたがウチにお弁当作ってってお願いするのってなるじゃん」
「えー、そうかぁ? 俺ら前からこんな感じじゃね」
 上鳴が眉を寄せる。上鳴はそういう表情をしても、いまいち決まらないというか、どこか抜けているように見えるのが不思議だ。からっとした物言いに、ウチはぐっと言葉に詰まった。前のウチらはどうだったのか……、上鳴に言われてそれを考えかけたけど、そんなことは今考えたってしょうがない。
「とにかく。皆に内緒にしてんだから、それっぽいこと言わないで」
「へーい」
 上鳴は了解したんだかしてないんだか分からないような返事をした。そして手首を捻ってゆっくり缶を振り、さっき買ったミルクティーを飲み始める。ウチもそれにつられて、買ったばかりのお茶を飲んだ。
「つーか、もうそろそろ良くね? 三ヶ月経つじゃん」
 上鳴は缶を口から離してちらっと上唇を舐めた後、真っ直ぐウチを見た。ビー玉みたいな金色の瞳に見つめられると、視線はそこに吸い込まれてしまう。上鳴の言葉はウチの胸をちくっと刺した。ウチが変なことを言ってるのかな、と一瞬思って、でもウチは上鳴の言葉に頷くことができなかった。
「……まだ、言いたくない」
 上鳴の目を見て喋る勇気がなくて、うつむく。視線を足元に落とすと、制服のスカートの裾が弱い風になびいているのが視界の端に映った。上鳴はこっちを見ていたのか、それともウチみたいに視線を外していたのか、分からなかった。沈黙が流れて、遠くの方から他の生徒たちの話し声がまばらに聞こえる。
 上鳴がじっと黙っていることが珍しくて、何を言うべきか迷った。この話題を続けるのか、全然違う話を始めるのか。上鳴は今、どんなことを考えているんだろう。
 そう思った時に、予鈴が鳴った。はっと顔を上げると、上鳴も同じように上を向いている。この中庭からA組の教室まで、急がないと五限に間に合わない距離がある。ウチらは誘い合わせるまでもなく、慌てて駆け出して教室に戻った。



 ウチは上鳴と、三ヶ月前から付き合っている。
 告白は上鳴からだったけど、お互いの気持ちは伝え合う前から揃っていたように思う。いつ、どっちから言うか、ただそれだけの問題だった気がする。
 その日、日直の用事があってウチが一人で放課後の教室に残っていた時に、寮に帰ったはずの上鳴がやって来た。戻って来た理由は何も言わずに他愛のない話題を振ってきて、ウチはその違和感にちょっとだけ緊張しながらも、気にしない振りをして上鳴と一緒になって喋りまくった。
 そして日直の用事も終わり、手持ち無沙汰になったウチらに沈黙がふっと訪れた時、上鳴は顔を真っ赤にしながら切り出してくれたのだった。

 何となく分かっていたことだったのに、いざはっきり言葉にされたら夢の中の出来事みたいだった。ウチは足元がふわふわする心地のまま、上鳴の告白に頷いた。そしてその時に、一つだけお願いをした。皆にはまだ内緒にしよう、って。
 同じクラスで、おまけに寮生活、朝から晩まで一緒のメンバーの中で付き合った時、別れてしまったらめちゃくちゃ気まずい。たとえば、皆に伝えた翌日に喧嘩してサヨナラなんてこともあるかもしれない。皆に気を遣わせて居心地の良いクラスの雰囲気を壊してしまうのは嫌だった。
 この考えをそのまま上鳴に伝えたら、「えっ、別れねえよ!?」とめちゃくちゃ焦っていたけど、ウチの言い分も分かってくれたようで了承してくれた。

 それから三ヶ月、関係は無事に続いている。というか、一年生の時以上に学校の授業やインターンが忙しくなって、毎日が目まぐるしい速さで過ぎていくから、進展らしい進展もなければ、別れに発展する出来事も起こらないというのが正しいかもしれない。付き合っている日数のわりに、ウチらの距離感はそれほど変わっていなかった。
 お互いの部屋を行き来するのはなるべくしないようにしているし、頻繁に出掛けられるわけでもないから、放課後や日曜日に学校の図書館に二人で行くのがデートの代わりみたいになっている。あとは寝る前に電話をして、昼間話し足りなかったことを喋ったり。二人きりだからと言って上鳴のテンションは皆と一緒に居る時とあんまり変わらないし、ウチもそうだ。
 だけどこの些細な二人きりの時間は、ウチにとって特別なものに違いなかった。部屋に戻って一人になった時、夜眠るために目を閉じた時、これらを思い出すとぽっと心に灯がともったように温かくなる感覚がある。いわゆる恋人らしいことは何もないけど、今はまだこれだけで充分楽しい。引き出しに仕舞った大切なものを、時々開けては眺めているような気持ちだ。女子の皆にも内緒にしているのは後ろめたさがあるけど、まだ人前に出さずに置いておきたい思いも本当だった。




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