イン・ステップ / p.2

 ウチは開いたノートの上にシャーペンを置いた。さっきから全然集中できなくて、参考書の中身が頭に入らない。夕飯を食べてお風呂に入った後に真っ直ぐ部屋に戻り、明日提出の課題は何とか終わらせたけど、予習がはかどらなかった。
 上鳴とは、昼休みに話してそれきりだった。気まずい空気が予鈴でうやむやになって、午後の授業が終わって寮に帰って来てからも、皆の中で同じ会話に加わることはあったけど二人きりで話すことはなかった。
 中庭で向かい合った時の上鳴を思い出す。ウチが言うことに明らかに納得していない様子だった。その表情が頭に浮かぶと何だかたまらなくて、ウチは机の上に突っ伏した。
「……言い過ぎたかな」
 静かな部屋の中で、独り言がぽつりと浮かぶ。

 食堂での会話は、上鳴が言う通りただの冗談にしか聞こえないくらいで、ウチが気にし過ぎなだけだったんだろうか。上鳴が皆の前でちょっとでもウチらの距離が近いようなことを言うと、つい頭がかっとなってしまう。付き合う前だったら、ウチはあの言葉にどんな反応を返したんだろう。適当に流す方が正解だったんじゃないか。考えてもどうしようもないことばかりが、ぐるぐると頭の中に回っている。
 こういう時間はすごく嫌だ。上鳴と付き合うようになって、物思いにふけることが増えた。二人で居て嬉しかったことを取り留めなく思い浮かべることもあれば、小さなことが気に掛かって考え込んでしまうこともある。上鳴のことで不意に弱気になってしまう自分に、どうしても慣れなかった。

 上鳴には言っていないけど、付き合いを内緒にしていたい理由はまだあった。ヒーロー科に居て誰かと付き合うなんて、ちゃらついて見えるんじゃないかという不安がある。学校の勉強やヒーロー活動で不調に陥った時、恋人なんか作ってるからだと思われるんじゃないかと考えてしまう。先生に気づかれるのも気まずいし。
 こんなネガティブなことを考えてしまう自分は嫌いだった。こんな格好悪いところを上鳴に知られたくなくて、あいつの前ではいつも強気に振舞ってしまう。それで言い過ぎたり、言葉がきつくなったりして、一人になった時にへこんでしまう。

 ため息を吐いた瞬間、机に突っ伏していた額に振動が伝わった。すぐそこに置いていたスマホが二回震えたようだった。顔を起こして、画面を点ける。上鳴からのメッセージの通知がきていて、ウチは思わず姿勢を正していた。緊張する指で画面をタップする。メッセージアプリが起動するまでのほんの数秒間で、心臓がすっかりドキドキしていた。

 だから、上鳴からのメッセージを読んだら拍子抜けしてしまった。
『明日の英語の小テストの範囲ってどこからどこまでだっけ?』
 時間を確認すると九時半だ。今から勉強を始めるんだろうか。ウチはすぐ返信した。
『40~48ページだよ』
 ていうか範囲くらい自分でメモっときなよ、と思う。続けてその可愛げのない一言を打ちかけて、でも消した。昼休みのことを思い出したからだ。
 すぐに既読がついて、返信がくる。
『ありがとう!』
『今からやるの?』
『気づいたら寝てた…』
 続けて泣いている猫のスタンプが送られてきて、それがいかにも上鳴っぽくて、声を出して笑ってしまった。すぐに返事を打ち込む。
『そこまで大変でもないと思うよ』
『マジで』
『授業ちゃんと聞いてれば』
 今度は、光のない目で遠くを見つめる猫のスタンプがきた。またクスッとしてしまう。
『まあ、がんばれ』
『がんばる』
 それからお互い、おやすみのスタンプを送り合って終わった。
 ウチは椅子の背もたれに体重を預けて、たった数分のやり取りを眺めた。さっきまでの重たい気持ちは、いつの間にかさーっと嘘のように晴れていた。

 メッセージの履歴を何度も読み返して、ウチはふとあることに思い至った。上鳴はもしかしたら、連絡のきっかけのために小テストを使ったのかもしれないと。本当はテスト範囲を分かっているのに、知らない振りをしたのかもしれない。想像に過ぎないけれど、一度思いついたらそうとしか思えなくなってきた。
 うだうだ悩むくらいなら、ウチも自分から連絡をすれば良かったとちょっと反省した。上鳴のすぐに行動に移せるところは、いつも羨ましいと思う。でもまあ上鳴のことだから、授業をちゃんと聞いていなくて本当に今まで爆睡していたことも充分有り得るんだけど。
 ウチはスマホを置いて、大きく伸びをした。それからすっきりした気持ちで予習を再開した。





 昼休みにトイレから教室に戻ると、前の方の席に数人固まって何やら盛り上がっていた。芦戸と上鳴と尾白は自分の席に、瀬呂は切島の席に座っていて、その周りに葉隠と砂藤が立っている。上鳴はスマホをいじっていて、話の輪には半分だけ入っている感じだった。
 どうやら皆は今週末から公開される映画の話をしているみたいだった。コメディとミステリーの掛け合わせが人気のシリーズで、今回の新作で三作目だ。芦戸がスマホで予告動画を再生して、皆に見せている。
「あー、早く見たーい!」
 動画が終わると芦戸が声を上げた。隣で葉隠も同意している。尾白や瀬呂はもう原作の小説を読んでいるらしくて、あのシーンが楽しみだとか何とか喋っている。ウチは皆の会話を聞きながら自分の席に腰を下ろした。
「分かる! 楽しみだよな!」
 上鳴もスマホから目を上げて、会話に参加し始めた。すると尾白が不思議そうな目を向ける。
「あれ? 上鳴見たことないって言ってなかったっけ」
「この間ばっちり履修したんだ~!」
 上鳴はピースサインを作ってみせた。と同時にこちらを振り返る。
「なあ、面白かったよな!」
 話を振られなければ良いのに、と内心思っていたけどやっぱりそんなことはなかった。ウチは渋々小さく頷く。
「あ、耳郎も見たの?」
 尾白がウチの方を向いた。見たよ、と言うと上鳴が続ける。
「そうそう。耳郎も見たことないって言ってたから、この間レンタルして二人で一緒に見たんだよ」
 先週の日曜日、ウチの部屋で上鳴とシリーズ一作目と二作目を一気に見た。寮の部屋で二人きりで過ごすのはすごく久しぶりだった。あらかじめお昼ご飯も買ってきておいて、午前中から上映会を始めた。その日はクラスの半分以上がインターンで不在だったから、部屋に呼んでもあんまり目立たないだろうという思いもあって、映画を見終わってからも上鳴はウチの部屋に居て、だらだらと夕方まで一緒に過ごした。

 芦戸がそっとウチに意味ありげな視線を投げる。目が合うとニヤッとしてきたから、何か言おうと口を開きかけたけど、ウチらのやり取りに気づいていなかった葉隠がそれを遮るように、元気にぶんぶんと手を振る。
「じゃあ耳郎ちゃんも見に行けるね! ねえ、皆で行こうよ!」
「うぇーい! 行く行く!」
 上鳴も葉隠に負けないくらい明るい声を出して、スマホをタップする。他の皆もスマホを取り出してスケジュールを確認し始めたようだった。でも皆それぞれ違うヒーロー事務所でインターンをやっているから予定が全然合わなくて、わあわあ言っているうちに授業開始のチャイムが鳴ってしまった。


 その日の夜、ベッドの上に寝転がりながら、ウチは耳に当てたスマホに向かって相槌をうっていた。数日に一回程度の上鳴との夜の電話は、だいたい消灯前後の遅い時間にすることが多いけど、今日はまだ九時過ぎ。明日から上鳴はインターンで遠征に行くことになっていて寮を七時前に出るらしいから、今夜は早めに休むとのことで、いつもより早い時間に電話が掛かってきた。

 上鳴の話がひと段落して、ふっと沈黙が訪れる。ずっとぼんやり聞き役に回っていたから、話を繋ぐタイミングを逃してしまった。何を話そう、と考えれば考えるほど何も見つからない。気にしていない時は考えなくてもポンポン出てくるのに。
 言葉を探している間に、上鳴が先に口を開いた。
「ん、何か元気なくね? どうした?」
 直接顔を合わせている訳ではないのに、何で分かってしまうんだろう。一瞬そう思ったけど、そうじゃないか、と思い直す。それくらい分かりやすい態度をウチが取っていただけなんだ。
 寝返りを打って仰向けになり、心に気に掛かっていることを正直に言うべきか、はぐらかすべきかを迷う。だけどはぐらかしたら、本当のことを言っていないと上鳴には分かってしまう気がしたから、ウチは正直になる方を選んだ。

「昼間のことだけどさ」
「昼間?」
「日曜に二人で映画見たの、何で喋っちゃったの」
 何度も深刻に胸の中で繰り返した思いだったわりに、いざ言葉にしてみたらあまりにも下らない話題のような気もした。自分で言っておいて、嫌な感じだなと思う。
「えっ、何でって……」
 戸惑った様子で上鳴が呟く。少し黙って、でも何か閃いたようにすぐ声を上げた。
「あっ! もしかして二人で行くつもりだった!?」
「いや、」
「わ、わりぃ! 全然気が回らなくて。そうだよな、そっか、ごめん。俺らだけでも行こう!」
「そうじゃなくて。それは別に良いよ。皆で行くの楽しいし」
 まあ実は、二人で行きたいと思わないでもなかったけど。でも別にそれはウチにとって大したことじゃなかった。
「え、あ、そうなの? じゃあ何?」
 ウチはマイクに拾われないように静かに息を吸って、吐いた。
「……部屋で二人きりになったこと言わないで欲しかった」
「え? ……あぁ、でも映画見ただけじゃん?」
 上鳴はウチの言葉の意味を悟ったみたいで、声のトーンが低くなる。
「日曜に二人で居たのバレちゃったじゃん」
「バレるって……。そもそも、去年バンド練習してた時も俺一人で行ったりしてたじゃん」
「あれは文化祭の準備っていう理由があるじゃん。でも今は、」

 ウチの言葉を遮るように、んんー、と電話の向こうで上鳴が低く唸った。思わず口をつぐむ。上鳴にしては珍しく、分かりやすく不機嫌な調子だったからだ。
「俺らさ、何か悪いことしてんの?」
「え?」
 上鳴はそう言ったきり、じっと押し黙った。ウチは少し間を開けてから、「……してない」と呟く。
「皆にコソコソしてんの俺、ちょっと嫌だよ」
「それはウチも……」
 そうだけど、と口ごもる。その言葉が上鳴の耳にちゃんと届いたかどうかは分からない。
 そこを突かれるとウチも弱かった。ウチだって、皆に隠し事をしているのは申し訳ない気持ちがずっとある。だけどどうしてもまだ自分の気持ちと折り合いがつかないでいて、心の中で行ったり来たりしている。

 耳郎、と上鳴がウチを呼んだ。その声が含んだ真剣な響きに、心臓がどくんと鳴る。続く言葉を待ったけれど、上鳴はなかなか喋ろうとしない。ほんの数秒の沈黙がじれったいほど、今の空気が怖くて仕方なかった。耳に意識を集中させているから、電話の向こうで上鳴が静かに息を吸う音がちゃんと聞こえた。
「耳郎はさ……、俺と付き合ってんの、恥ずかしい?」
「え?」
「相手が俺だから、皆に言いたくねえの?」
 全く想像していなかったことを言われて言葉が出てこなかった。どうしてここで上鳴の話になるのか、全然分からなかった。頭の中が真っ白になって、でも上鳴の言葉は否定しなきゃということだけは分かって、慌てて口を開く。
「だ、誰もそんなこと言ってない」
「なら、良いんだけど」
「何でそんなこと言うの」
「別に。違うならいーんだ」
 それからもウチは同じようなことを聞き返したけど、上鳴の返事も似たようなものだった。繰り返せば繰り返すほど、上鳴の声は硬くこわばっていく。ウチらの間には、見えないけれど確かに壁があるようだった。十秒ほどの重たい沈黙の後、「明日早いから寝るわ」と上鳴が切り出して通話は終わった。
 何も聞こえなくなっても、ウチはしばらく耳にスマホを押し当てたままぼんやりしていた。耳の奥にはずっと、ひどく傷ついたような上鳴の声がこびりついて、いつまでも離れなかった。
 ウチはスマホをベッドの端に追いやって、壁に背を向けるように横になった。瞼を閉じると、この間上鳴がこの部屋に来た日のことが自然と頭に浮かんできた。上鳴が買ってきてくれたポップコーンとコーラをテーブルに並べて、二人で映画を見た日。

 午後から二本目を見始めて三十分くらいが経った頃、上鳴は眠ってしまった。急に寄り掛かってきたから何事かと思ったら、すーすー寝息を立てていた。二年生に上がって、上鳴は身体も顔つきも少しずつ大人っぽくなってきているけど、寝顔はあどけなくて幼く見えた。映画はすごく面白かったのに、このまま映画を止めて上鳴を見ていても良いかと思えるくらい、寝顔は見飽きなかった。実際、五分くらいは見ていたかもしれない。ふと我に返ってそんな自分にびっくりして、ウチは上鳴を起こして続きを見たのだった。
 映画を見終わった後も上鳴はなかなか自分の部屋に戻ろうとしなかったから、きっと楽しんでくれていたんだと思う。特別なことなんて何もしていないけど、ウチも楽しかった。

 ゆっくり目を開ける。明かりの点いた部屋の中にはウチしかいない。そのことがとても心細く思えて、ウチはそれを紛らわすように身体を丸めた。




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