イン・ステップ / p.3

 それからの毎日は、一日一日がとても長く感じられた。今回の上鳴のインターンは十日間。カレンダーを見てもまだ四日しか経っていないのが信じられなかった。インターンの、しかも遠征の前にあんな嫌な思いをさせてしまった自分が心底嫌になる。むしろ気持ち良く送り出してあげなきゃいけないのに。これ以上気を散らすようなことはしたくないから、連絡は一切取っていない。上鳴からも勿論来ていない。

 ウチは勉強机の端に置いたカレンダーをもう一度見て、ため息を吐いた。この数日間、教室や寮の共有スペースでも気を抜いているとため息を吐きそうになるから、頑張って気を張っている。その反動で部屋に戻ってくると、力が抜けてため息が増えてしまう。
 上鳴が帰って来るのは、次の日曜日。昼過ぎには戻って来れるだろうと言っていたけど、今度はその次の日からウチがインターンに行く予定になっている。だから顔を合わせられる時間は限られている。その短いチャンスの中で、ちゃんと直接顔を見て謝りたかった。それを逃したらまた、何日も会えなくなってしまう。

 どう切り出して話したら良いかずっと考えているけど、聞き慣れない上鳴の不機嫌な声を思い出す度に頭の中のシミュレーションが止まってしまう。もしかしたら上鳴はもう、ウチに愛想を尽かしているかもしれない、話すことなんてもう何もないのかもしれない、そんな風に弱気になってしまう。上鳴があんなに素っ気ない態度を取るのは初めてだった。他の人に対しても見たことがない。普段穏やかな上鳴がああなるんだから余程のことだ。つまりウチは、それくらい大変なことをしてしまった。
 ベッドの上に投げておいたスマホを拾いに行く。メッセージアプリを開いてみるけど、やっぱり上鳴から連絡はない。ウチはまたひとつ、ため息をついた。


 夜に一人で居るとますます気が滅入りそうだから、それから数日間はむしろ積極的に共有スペースに降りて行き、なるべく誰かと過ごすようにしていた。
 それでどうにか七日目になった今日、一昨日までインターンに行っていたヤオモモから部屋に来ないかと誘われた。二人でゆっくり話すのは久しぶりだったから、ウチは喜んで宿題をさっさと片付けてヤオモモの部屋を訪れた。

 ふかふかのベッドに腰を下ろすとほっとする。掛け布団のカバーはさらさらした手触りで気持ち良い。ヤオモモの部屋は一年生の時から何度も訪れているから、とても落ち着く空間だった。ハーブの匂いがふわっと部屋の中に漂う。ヤオモモは湯気の立つティーカップを二つ乗せたトレーをベッドサイドのテーブルに置き、ウチに一つすすめてくれた。
 カップの中には、綺麗に透き通った淡い黄色のお茶が入っていた。
「カモミールティーですわ。安眠効果があるんです」
 ヤオモモもウチの隣に座った。
「良い香り」
 熱さに気を付けながら一口飲むと、甘い香りがぱっと広がって、心がふっとくつろぐ。
「美味しい」
 ウチがそう言うとヤオモモは微笑んで、下ろした長い黒髪を耳に掛けた。そしてカップに口を付ける。

 それから他愛のない話を五分くらいした頃だろうか、不意にヤオモモがカップを置いて、ウチを真っ直ぐ見つめてきた。耳郎さん、とわざわざ呼び掛けてくるもんだから、思わず背筋が伸びる。
「何?」
「上鳴さんと何かあったのですか?」
 完全に無防備だったところにその名前を聞いて、どくんと胸が鳴った。綺麗な黒い瞳がじっとウチを見つめている。上鳴はここ一週間学校に居ないのに、どうしてそんなピンポイントで聞いてくるんだろう。
 中途半端に開いた口からは何も言葉が出てこなかった。びっくりし過ぎて変な沈黙が流れたから、今さら「何もない」と言ってもただの嘘なのは明らかだった。だけど頷いたとして、その後どう話を続けるべきか迷ってしまって、ウチはなかなか喋り始めることができなかった。
 ヤオモモも黙っている。ウチが何か言うのを待っているんだろう。しばらく見つめ合っていたら、色々考えても仕方ないという気持ちになって、ウチは手元のカップに目線を落とした。

「……何で分かったの。すごいね」
「あ、いえ、私はすごくないんです」
 ベッドがわずかに揺れる。顔を上げるとヤオモモが胸の前で大きく手を振っていた。そして、「実は……」と切り出した。
 ヤオモモは一昨日まで行っていたインターンで数日間、上鳴のインターン先の事務所と一緒に活動をしていたという。これからまた違う任務へ向かう上鳴は、ヤオモモの方はもう学校へ帰ることを知ると、別れ際にこう話してきたらしい。


――俺、出てくる前の日に耳郎とちょっと喧嘩っぽいことしちゃって。感じ悪いこと言っちまったから、あいつ気にしてると思うんだよ。早く謝れよって話なんだけど、電話だと顔見れないから俺また余計なこと言うかもしんないし。俺が言わなくてもヤオモモなら耳郎のこと、気づくかもしんねえけど、耳郎の様子ちょっと気にしててくんねえかな。


「私から見ても耳郎さん、あまり元気がないような気がしましたから……。詳しいことは分かりませんが、私で差し支えなければお話だけでも」

 どうして、とウチは思った。
 そしてそう思うと同時にヤオモモの顔があっという間に滲んで、カップを持つ手にぱたっと涙が落ちた。瞬きをする度にぽろぽろと零れてくる。ヤオモモがひゅっと息を飲むのが分かった。
「す、すみませんっ! 私、出過ぎた真似を」
「……違う、大丈夫。ごめん、ヤオモモ」
 こんな姿を見られるのがみっともなくてうつむく。気にしないでという意味を込めて上げた片手を振るけど、ヤオモモは腰を浮かせたり座ったり落ち着きないようで、その度にベッドがゆらゆらした。心配をかけるだけなのに涙が全然止まらなくて、でも泣き止む努力をする気力がないくらい呆然としてしまっていた。
 何て馬鹿だったんだろう。この一週間、上鳴はウチのことを気に掛けてくれていたのに。上鳴に痛い思いをさせたウチの方は、「もう嫌われた」とか「口を聞いてもらえないかもしれない」とか、そんなことしか考えていなかった。いつもいつも、自分のことばかりだ。

「耳郎さん、」
 すっかり困った様子のヤオモモは、ウチの背中にそっと手を添えた。優しくさするその仕草にもっと泣きそうになる。でもウチにめそめそする資格なんてない。
 上鳴の言動の細かいことに腹を立てて、口うるさいことを言って、それが何になったんだろう。誰からも「上鳴と付き合ってるの?」なんて聞かれていないのに。苛々したことよりも、上鳴が傍に居てくれて良かったことの方がずっとずっと多かったのに。
 だけどウチは、そう感じていることをちゃんと言葉にしていただろうか。肝心なことばかり、すっかり置き去りにしてしまっていた気がする。
 今すぐにでも上鳴に会いたかった。直接顔を見て謝って、それから……。




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