イン・ステップ / p.4

 電車が到着したアナウンスが駅に響く。ウチは手に持っている紙袋から視線を上げた。数分後にちらほら乗客が現れて改札口に向かって歩いてくる。予定通りその中に上鳴の姿もあった。上鳴の方もすぐウチを見つけたようで、こっちに向けて軽く手を上げている。
「お疲れ」
 上鳴がやって来るのを待たずに、ウチは改札のところまで歩いていく。
「おー。ただいま」
 ウチが声を掛けると、上鳴はいつもの穏やかな調子で言った。そのことにひとまず胸を撫で下ろす。駅で待っていると昨日連絡はしていたものの、会うのは久しぶりだし、あんな電話が最後の会話だったから、電車を待っている間ウチはすごく緊張していた。今もまだそれは身体から抜けない。
 上鳴も普段通りのようでいて、やっぱりちょっとぎこちなさを感じた。なぜならウチらはどちらも、二言目がすんなり出てこなかったからだ。上鳴が言葉を探すような雰囲気を出したのに気づいて、ウチは先に口を開いた。今日は何でも自分からと決めていた。
「ねえ、お腹空いてる?」
 ウチがそう尋ねると上鳴は意外だったのか、ぽかんとして、ひとつ頷いた。



 日曜日の昼間の公園は、親子連れの姿が多かった。楽しそうな子どもたちの笑い声を聞きながらウチらは広場を横切り、屋根のある休憩スペースに行った。いまいち状況を飲み込めていない感じの上鳴を促してベンチに座らせる。ウチも向かい合うように座り、寮から持ってきた紙袋を木のテーブルの上に置いた。上鳴はまじまじとそれを見ていた。
「何それ」
「お弁当。作ってきたんだ」
 袋の中から大きな包みを取り出して見せると、上鳴は素直に驚いた声を上げた。
「えっ?」
 ウチはハンカチをほどいて、三つのタッパーを開けた。おかずを詰めたものがひとつ、おにぎりを並べたものがひとつ、それから果物を入れたものがひとつ。歩く時に紙袋が斜めにならないように気を付けていたから、中身は偏らずにちゃんと詰めた時の状態のまま保たれていた。
「すげえ! これ、耳郎が作ったの!?」
 大人しく座っていた上鳴が、ぐっとテーブルの方に身を乗り出す。今日初めて聞いた元気な声に、ウチの心もふっと明るくなる。
「うん、でもヤオモモにも手伝ってもらった」
「ヤオモモ……、そっか」
 その名前を聞いて上鳴の表情が緩む。インターンの時にヤオモモに話し掛けた時のことを思い出したのかもしれない。

 結局あの夜、ウチはヤオモモに上鳴と付き合っていることを話した。いつから付き合い始めたのかも、どうして皆に黙っていたのかも、どんな喧嘩をしてしまったのかも全部。あんな風に泣いてしまった以上、嘘を吐くことはできなかった。ヤオモモは黙って頷きながら話を聞いてくれた。
 そのおかげで気持ちがずいぶん楽になった。冷静になって、自分がどうしたいのかを考える余裕ができた。
 上鳴と駅で待ち合わせる約束をしてから、お弁当を作るかどうかはぎりぎりまで迷っていたけど、ヤオモモに相談してみたらやろうということになって、ヤオモモも今朝一緒に早起きして手伝ってくれた。朝の自主練を終えた男子が何人か、ウチらがキッチンに立つのを珍しがって覗きに来たけど、その度にヤオモモは、天気が良いから二人で出掛けるのだと言った。一緒に寮を出たヤオモモは、美術館へ行くと言って駅で別れた。


「……食べてくれる?」
 ウチは紙皿に箸を添えて上鳴に差し出す。すると上鳴は首がもげそうなくらいの勢いで頷いた。
「もっ、もちろん、もちろん!」
 そして頂きますと手を合わせてすぐに箸を持ち、迷う素振りもなく真っ先に玉子焼きをつまんだ。
「これ、耳郎が焼いたの?」
「うん」
「すげえじゃん」
「味は保証しないけどね」
 火が強かったのか砂糖を入れ過ぎたのか、玉子焼きは綺麗な黄色にならなくて、焦げたというほどではないけれど茶色っぽい色になってしまった。上鳴は不格好な玉子焼きをひと口で頬張る。
「お、甘くて美味い! あ、これ何?」
「何か野菜炒めたやつ。料理名は特にない」
 玉子焼きを飲み込んだと思ったら、上鳴はもう次のおかずに箸を伸ばしていた。想像以上にテンションが上がっていてそれはすごく嬉しかったけど、大したものは作れなかったから何だか申し訳ない。上鳴が今皿に移している炒め物は、野菜も入れなきゃと適当に炒めたやつだ。
 もうちょっと見栄えがするレシピを調べれば良かったかなと思うと、恥ずかしさで返事が不愛想になってしまう。でも、そんなウチの様子に上鳴は気づいていないみたいだけど。
「美味い美味い。お、唐揚げもあんじゃん!」
「それは冷凍食品」
「解凍の仕方が絶妙だぜ」
「何それ」
 休みなく口を動かしている上鳴を見ていたら、ほっとしてウチもお腹が空いてきた。ようやく箸を伸ばして、皿の上におかずをいくつか確保する。でも自分が食べてお腹を満たすよりも、上鳴が食べてくれるのを見ている方が満足するような気がした。こんな風に思ったのは生まれて初めてで、変な心地がする。
「上鳴がどれくらい食べるか分かんなくて多めに作って来たから。無理して食べなくて良いからね」
「え、全然食える。余裕余裕。大丈夫」
 そう言って上鳴は今度おにぎりにかぶりつき、具に入れたツナマヨに喜んでいた。別にコンビニでも買って食べられる味なのに、何でもかんでもデカいリアクションを取るのが可笑しかった。

 食べながら話をしていたら、いつの間にかウチらの雰囲気はいつも通りに戻っていた。お互い冗談を言い合う余裕もある。うっかりこのまま和やかなランチタイムを過ごしそうになって、ふと思い直す。今日は一緒にお昼ご飯を食べるためだけに待ち合わせをしたわけじゃない。
 ウチは水筒に入れてきたお茶をコップに注いで、ひとつ上鳴に差し出した。
「あのさ、」
「ん?」
 もぐもぐしながらそれを受け取る上鳴は、すっかり無防備な様子だった。これから話すことによって、せっかく明るくなった空気が台無しになってしまうんじゃないかと一瞬迷ったけど、やっぱりうやむやにするのは良くないと思って、ウチは口を開いた。

「……この間は、ごめん」
 はっきり言うつもりだったのに、声は弱弱しくなってしまった。上鳴は持っていたおにぎりを皿に置いて、慌てて姿勢を正す。
「いやいや、俺こそごめん。謝んなきゃって思ってたんだけど、顔合わせてからって思ってて」
「上鳴が謝ることは何もないよ」
 自分のコップに視線を落とすと、お茶から湯気が立っているのが見えた。それが風に揺れているのを眺めながらウチは、話そうと用意してきた言葉をもう一度心の中でおさらいする。

「……ウチ本当に、相手が上鳴だから皆に言いたくないとか、そんなことないからね」
 上鳴に言われたことを改めて声に出してみると、胸が痛んだ。
「あっ、わりい、この間の! やっぱ気にしたよな。俺、本当はあんなこと言うつもりはなくて……」
「でも、実際に気にしてたことなんでしょ」
「それは……」
 上鳴は口ごもった。何かを考える素振りをしたけど、すぐに止めて小さく頷く。
「……うん。でも格好悪いから、ぜってー言わないって思ってた。言っちゃったけど」
 そして苦笑いをしてうつむく。そんな姿を見たら、さらに胸の奥が締め付けられるようだった。自分で指摘しておいて何だけど、やっぱり上鳴にとってこれは勢いに任せて出てきた言葉じゃなくて、本当に気にしていたことだったんだと分かったから。
 ウチと付き合い始めていつ頃から、上鳴はその不安な気持ちを抱え始めたのか。いつも元気だったから全然気がつかなかったし、今思い返してみても見当もつかない。しかも格好悪いから言わなかったなんて。格好悪いとか悪くないとか、そういう問題じゃないとウチは思うんだけど。上鳴の物事を考える基準がよく分からない。
 だけどウチもひとのことは言えない。自分だって本当のことは言えていなかった。
 鏡みたいなものなのかもしれないな。今ふと、そう思った。

「ウチさ、周りの目が気になってたんだ。ヒーロー目指してんのに付き合ったりして、ちゃらついてるって思われるんじゃないかとか。調子が悪くなったら、恋愛のせいだって思われるんじゃないかとか。先生にバレたら気まずいとか。そんなこと考えてるなんて情けないから、言えなかったけど」
「耳郎」
「でも、それって全部ウチの都合だって気づいた。それなのにあんたにきついこと言って、嫌な思いさせてさ」
 そこまで喋って一旦言葉を止めた。お茶を二口飲み、その間に心を落ち着かせる。
「もう、良いよ」
「え?」
「付き合ってんの、隠すの止めよう」
 ウチはコップを置いて、真っ直ぐ上鳴を見つめた。上鳴は瞬きもせずにこちらを見ていて、目を大きく見開いている。
「い、良いの?」
 上ずった上鳴の声にウチはすぐ頷いたけど、尋ねた本人はまだ納得していないようだった。
「でも今言ってたじゃん。周りの目が気になるとか、先生にバレたくないとか」
「そう、だけど」
 上鳴に今指摘されたことは、何度も考えた。心の中で色んなものを天秤に掛けてみるようなこともした。だけど掛けるまでもないことだったのだと、今ははっきり自信を持って言える。ウチは上鳴から視線を逸らさずに言葉を続けた。
「今更かもしれないけど、上鳴が喜んでくれる方がウチにとっても良いなって、思うから」
 上鳴が楽しそうにしている、笑っている。それだけで自分のことのように嬉しいのだと思える。そう感じることができる相手が居ることを大切にしたい。これが自分の出した答えで、向かい合ってお弁当を食べている間にその思いはさらに強くなった。上鳴が告白してくれたから付き合えているんだということをウチは忘れていた。

「だから、もう大丈夫。何も気にしない。今まで我慢させてごめん。ていうか、もうヤオモモに付き合ってること言っちゃったし。あんたに禁止しておいて、本当自分勝手なんだけど」
 用意していた言葉を出し切ったからウチは口を閉じた。こんな風に自分の思いを正直に言葉にするのは初めてだから、何となくばつが悪い。上鳴も同じようにじっと黙っていた。遠くにいる子どものはしゃぐ声が聞こえるくらい、ウチらの間は静かだった。
 あまりにも沈黙が続くから、何か困らせるようなことを言ってしまっただろうかと心配になってくる。事情が事情とは言え、内緒にしようと言ったウチが上鳴に無断でヤオモモに喋ってしまったことも罪悪感はある。
 もう一度謝ろうとしたら、それと同じタイミングで上鳴が息を吸うのが分かった。待ってみると、やっと上鳴が口を開いた。

「……俺さ、耳郎は俺と付き合ったことを後悔してんのかなって思ってた」
 上鳴の声を聞いて、ウチは視線を上げた。
「マジで皆に言うの嫌そうだったし、他にもまあ。……ぶっちゃけ今日も、振られんのかと思った」
 振られる。そんな言葉が出てくるなんて思わなかったからぎょっとした。
「そんなっ、インターン帰りにわざわざ呼び出してそんなことするわけないでしょ」
「そうだよな、うん。そうなんだけど」
 驚いているウチとは対照的に、上鳴は落ち着いていた。ウチへの返事というよりは自分に何か言い聞かせているようで、何度か小さく頷く。
「……でも俺、いつもビビってた。耳郎から振られるんじゃないかって」
 上鳴の言葉のひとつひとつが、真っ直ぐに胸を刺した。すっかり見慣れたはずの上鳴の姿を、ウチは今初めて見るような気持ちで眺めていた。

「けど、もう平気。耳郎が考えてること分かったから」
 弱気な様子から一転、上鳴は顔を上げて笑った。
「俺も耳郎が喜んでくれる方が良い。だからまだ黙ってる」
「へ?」
 そして清々しい口調でそんなことを言うもんだから、思わず気の抜けた声が出てしまった。
「だって、周りからチャラついてるって思われるかもって、解決してねえじゃん。言われるかもしれないし、言われないかもしれないけど。心配事は少ない方が良いじゃん。先生にバレたくないってのもそうだし」
「……良いの?」
 隠すのはもう良いって本心で思っていたはずだったのに、ウチの口からぽろっと落ちたのはそんな言葉だった。上鳴は迷いなく頷く。
「うん。ていうかよく考えたら、わざわざ言いふらすようなことでもねえしな」
 ふいに上鳴の手がこちらに伸びてきて、テーブルの上に置いたままのウチの左手にそっと触れた。重ねた後、ゆっくり握られる。手のひらの温かさがじんわり伝わってきて、初めてだ、と思った。ウチらはまだ手すら繋いだことがなかった。遅れて状況を飲み込んだ心臓がドキドキし始める。
「耳郎と付き合えんなら何でも良いや。でも、聞かれたら素直に言おうかな。耳郎もヤオモモに言ったしな」
 上鳴は握る手にぎゅっと力を込め、それから照れくさそうに笑った。心臓の鼓動が加速する。ウチも握り返した方が良いのか、どうするのが正解か分からなくて、どぎまぎしたままじっとしていた。
 でも心の中は久しぶりに爽快な気分だった。上鳴の言葉が胸の底にすとんと落ちて、ウチもそう思えたからだ。そうだな、わざわざ言うとか言わないとか決めずに、その時の状況に合わせてやりたいようにすれば良いんだなって。

 ウチらはテーブルの上で手を繋いだまま、しばらく黙った。上鳴の手が少し汗ばんできて、上鳴も緊張しているんだということが分かる。
「おーい、何か喋ろよ」
 沈黙を破ったのは上鳴だった。軽い調子で言い、ウチの手をぷらぷらと振る。
「何か」
「うわ、言うと思った!」
「うるさい」
「もうちょ……んぐっ?」
 慣れない空気がくすぐったくてたまらなかった。だから咄嗟にウチは箸で玉子焼きを掴み、それを上鳴の唇に押し付けた。上鳴は目を丸くしている。黙って見つめ合ったままぐっと玉子焼きを押すと、上鳴は大人しくそれを口に入れた。ゆっくりと箸を抜く。
「……どう?」
 上鳴がもぐもぐしている間、大した話題も見当たらなかったから、結局こんなことしか言えなかった。上鳴は玉子を飲み込むと大きく頷く。
「ん、美味い!」
 そして明るく笑うと同時に、ちょっと恥ずかしそうにはにかんだ。頬がほんのり赤くなっている。何だろうと思ってすぐ、ウチは今自分がしたことに気がついた。上鳴の口を塞いだつもりだったけど、おかずを食べさせてあげたことでもあるんだって。
 そんな表情をされたらこっちまで顔が熱くなってきた。それを悟られたくなくて、誤魔化すようにウチは唐揚げを自分の口の中に放り込む。すると上鳴はのん気な調子で、「なあ、俺も唐揚げ食べたい」なんて言ってきた。
 上鳴の手はまだしっかりとウチの左手を握っている。自分で食べなよって言えばきっと、手が塞がってるとでも答えるんだろう。聞こえてない振りをしてやろうかと思ったけど、ちらっと目を上げれば楽しそうに上鳴がウチを見ていた。
 それを見たら、やっぱりもう一回くらいならやってあげても良いかなという気になってしまった。ウチって結構単純なのかも、と思いながら、ウチは一番大きな唐揚げに箸を伸ばした。




2021.03.17



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