夏日記 / p.1

八月十一日(水)

 帰りたくない、と思いながらウチは人知れずため息をついた。
 ストローの包みをやぶって、運ばれてきたばかりのアイスティーに口を付ける。冷たくて美味しくて、身体が渇いていたんだなと知る。今日も暑い一日だった。昼間パトロールで街を歩いているだけで汗が止まらなかった。
 通りを挟んだ向かいにある美容室が、カーテンを下ろしているのが窓硝子越しに見える。そろそろ八時を回る頃だった。

 一人でも入りやすそうな店をネットで探して、通勤に使っている路線で行けるこのダイニングカフェを選んだ。ウチのアパートの最寄り駅と三駅だけ離れている。
 さっき注文したパスタが運ばれてくるまでたぶんあと十五分くらい。それを食べてちょっと休んで三十分くらい。九時にはもう店を出て電車に乗り、十時前には家に着くだろう。腕時計を眺めながらそんなシミュレーションをする。
 帰りたいけど、帰りたくない。
 天井でくるくると回っているファンを眺めながら、ウチはまたひとつ小さく息をついた。

 もう一口アイスティーを飲もうとした時、テーブルに置いておいたスマホのバイブレーションが鳴った。長く震え続けているから電話だ。画面を確認すると、久しぶりに見る名前が表示されていた。半年ぶりくらいかも、と思いながら指をスライドさせて応答する。
「もしもし」
 スマホを耳に当てて小声で言うと、聞き馴染んだ声が飛び込んできた。
「あ、もしもし。何かオシャレな店に入ってんじゃーん」
「え?」
 久しぶりだっていうのに、前置きも何もなくいきなり話を始めてくるから意味が分からなかった。
「一人? 待ち合わせ?」
「は?」
 ウチの反応はお構いなしにポンポンと勝手に言葉を投げてくる。こっちが戸惑っているのは分かっているはずなのに、というか分かっているからこそ面白がって一方的に喋っている感じだ。
「外、外見て」
 そう言われて窓の方に視線をやってみると、少し離れたところから店の方を見ている男がいた。
 そいつはウチと目が合うと、のん気に手を振ってみせた。黒いキャップを被っている。そのせいでトレードマークの金髪はほとんど隠れていたけど、間違いなく上鳴だった。
 どうして上鳴がこんなところに居るんだよ。
 そう思ったけど、楽しそうに手を振っている姿を見たら、そんなのはどうでも良いことのような気がした。
「なあ、俺もそっち行って良い?」
 自分と店を交互に指差すジェスチャーをしながら上鳴が言う。
 駄目って言っても来るんでしょ。
 咄嗟に浮かんだその言葉を飲み込んで「好きにすれば」と言ったら、待ってましたと言わんばかり通話はすぐ切れた。



「おい、元気かよ。すげえ久しぶりじゃね? 耳郎マジで久しぶりだな~」
 さっそく店に入った上鳴は、店員と一言二言交わすと真っ直ぐこっちにやって来た。ウチの向かいの席に腰掛け、キャップを脱ぐ。
「何なのもう。うるさ」
「うるさくねえだろ。普通のボリュームだわ」
「存在がうるさい」
 何でこいつはいつもこんなにテンションが高いんだろうと不思議に思う。上鳴は「うるさくねえよ~」と受け流しながらメニューを手に取った。ウチが何を頼んだかを尋ね、ちょっと迷った後にオムライスとアイスコーヒーを注文していた。
 上鳴に話し掛けられると、ウチもつい口数が多くなってしまう。返事をせずにはいられないというか、いちいち突っ込まないといけない気になるというか、すっかりこいつのリズムに乗せられる。半年会っていなくても身体は反射的に対応できる。高校時代の寮生活、そして入学から卒業までずっと教室で隣の席だったせいで染みついてしまった習慣みたいなものだ。

 お店の人が気を遣ってくれたようで、ウチのパスタとほとんど同じタイミングで上鳴のオムライスも来た。上鳴はお腹が空いていたのか、しばらく黙々とオムライスを頬張っていたけど、半分くらい食べた頃に顔を上げた。
「つーか、耳郎が寄り道とか珍しくね? あ、それとも今日休みだった?」
 そう言ってアイスコーヒーを飲む。食べ始めて暑くなってきたのか、上鳴の額には汗が滲んでいた。
 鋭いというか何というか。ウチはパスタをフォークに巻き付け、それを口に運びながら思った。
 上鳴の言う通り、ウチは勤務の後はあまり寄り道をしないタイプだ。誰かから食事や飲みに誘われれば大抵断らないけど、基本的には真っ直ぐ家に帰って少しでも多く趣味の時間を確保したい。こういう考えを人に言ったりはしていないけど、付き合いの長い上鳴は察しているみたいだった。性格が違うのに上鳴と親しくなったのはきっと、上鳴にこういうところがあるからだろうと思う。

 自分の今の境遇を思い出して、またため息をつきたくなった。上鳴と会ってつい忘れかけていた現実。
「……一昨日の夜にエアコンが壊れてさ」
 ウチがそう言うと上鳴は、「へ?」と素っ頓狂な声を上げた。自分としては一大事だけど、いざ言葉にしてみると結構しょぼい話題だ。
 ぽかんとしている上鳴にウチは話した。一昨日の夜から部屋のエアコンが急に効かなくなってしまったこと。昨日アパートの管理人に修理を頼んで、ようやく今日の朝一に業者に来てもらったけど、いざ調べてもらったら部品交換が必要で結局直らなかったこと。
「うわ、この連日熱帯夜に?」
「だからもう、最悪だよ」
 八月に入ってからというもの夜になっても気温が下がらなくて、窓を開けても風はなく、昼間部屋にこもった熱気はなかなか逃げてくれずに、この二晩は汗だくになりながら寝た。扇風機はつけたものの、ないよりはマシなだけで寝苦しいには変わりなかった。夜中に何回目が覚めたか分からない。
 でもそんな苦痛に耐えられたのも、今日になれば直ると信じていたからだ。だけどその望みはあっさり砕けてしまって、何かもう、現実逃避するしかなかった。初めて自分のアパートに帰りたくないと思い、帰宅時間を延ばし延ばしにしていた。

「いつ直んの?」
「分かんない。一週間くらいかかるかもって言われた」
「えっ、マジ? かかり過ぎじゃね」
「部品の在庫がないから取り寄せらしいんだけど、お盆時期だから時間かかるって」
「あー、なるほどな」
 本当にタイミングが悪いことこの上ない。
 一週間くらいならいっそホテル暮らしにしてしまおうかと本気で悩んでいるけど、出費のことを考えると迷ってしまう。でも毎晩この調子なら疲れが取れないどころか蓄積していきそうだし、体調やヒーロー活動のことを考えると迷っている場合でもないのかもしれない。
 上鳴に向かってウチにしては珍しくそんなことをグズグズ言っていたら、上鳴がちょっと身を乗り出してきた。そして内緒話をするように口の脇に右手を添える。
「あれ、つーかさ、」
「ん、何」
 声を潜めるから何事かと思って、思わずウチも小声になってしまった。
「お前、彼氏いるんじゃなかったっけ」
「は?」
「いるなら泊めてもらえば、」
「……は? 何の話?」
 自分の眉間に思い切り皺が寄るのが分かった。
「……え、何言ってんのマジで」
 明後日の方向から話題が飛んできて、おまけに全然思い当たる節がない。目の前の上鳴の表情を見るに冗談を言っている風ではなかった。ウチに付き合っている人はいないのに、どこでそんな噂が流れているのだろう。
「誰から聞いたの、それ」
 つい声が低くなってしまったら、上鳴はびっくりしたみたいで慌てて顔の前で手を振った。
「誰からっつうか、ほら、前に皆で飲んだ時言ってたじゃん」
「え?」
「何か、あれ、遊びに誘ってくれる人がいるって」
「……」
 前に飲んだ時、というのは半年前にA組の有志で集まった時のことだろう。上鳴と最後に会ったのもその時だった。
 その飲み会で話したことを思い起こそうと、たっぷり一分ほど記憶の中を探って、探って、探って……、ようやく見当がついた。
「……あぁ、あれか」
 でも上鳴は勘違いをしている。
「あんた勘違いしてるよ。だいたい付き合ってるなんて一言も言ってないでしょ」
「いや、そうだけど。何か秒読みみたいなこと言ってたから、てっきりもう」
「それは芦戸が酔って盛り上がってただけ」
「あ、そうだっけ?」
 飲み会をした当時、ウチにはよく声を掛けてくれる男の人がいた。以前音楽雑誌の取材を受けた時に知り合ったライターだ。彼に誘われて何度か食事に行ったり出掛けたりしていた。芦戸にその人の話をすると「絶対もうすぐ告白されるやつ!」と言われ、なぜか芦戸が一番盛り上がっていた。そしてその話の輪に上鳴も途中から加わっていた。上鳴もまあまあ酔っていたのによく覚えてたな。
 結局のところ、その人とは何も起こらなかった。一時期は、この人と付き合うんだろうかと考えたこともあったけど、相手の気持ちも自分の気持ちも正直分からなくて、何も進展がないうちにお互い忙しくなり、自然と疎遠になっていた。それに対して残念と思えなかったから、それが自分の答えだったんだろうと思っている。

 色々説明するのが面倒だし、そもそも上鳴に詳しく話す理由もないから、
「とりあえず、その人とは何もなかったし、彼氏もいないから」
 と、現状だけを伝えた。上鳴と二人きりでいる時にこういう恋愛が絡んだ話をすることは全然ないから、変な感じがして居心地が悪い。そもそも何の弁明だよ、と思った。
 上鳴は身体を引いて、
「お、そっか」
 と言いながら何度か頷いた。ちょっと唇をとがらせて、どういう感情なのかよく分からない表情をしている。
「何、変顔してんの」
 中断していた食事を再開すると、上鳴もつられたようにスプーンを手に取った。
「いやー、せっかく耳郎に春が来たかと思ってたからさ。残念だったなと思って」
「マジで余計なお世話」
「ま、あれだな。きっとキョーボーなのがバレた……って、」
 テーブルの下で上鳴の足を軽く蹴る。
「ほら、そういうとこだぞ! そういうとこ」
「うるさい、別に痛くないでしょ」
「痛い痛くないじゃなくて、普通は蹴らねえの」
「あんたに普通とか言われたくないわ」
 それからも上鳴は二言三言余計なことを言ってきたけど、ウチは無視してパスタを食べた。

 お互い皿が空になって、グラスに残ったドリンクを飲んでいた時だった。
「じゃあさ耳郎、俺んち来る?」
 上鳴がとても気軽な調子でそう言った。
 唐突だったから、一瞬何のことか分からなかった。
「……え?」
 ストローから唇を離して呟いた瞬間に、ウチは上鳴の言葉の意味を理解した。
「今住んでるとこ、こっから歩いて二十分くらいなんだけど。あ、もちろん同じ部屋で寝たりしねえよ!? 普段あんま使ってない部屋あるからさ、そこ使って良いよ。四帖くらいしかないから狭くて悪いんだけど」
 上鳴のアパートも所属事務所もこの辺にないから、どうしてここに居るんだろうと今日会った時から不思議だった。そうか、引っ越していたのか。最初に感じていた疑問が今さら解決したけど、今はそんなことは最早どうでも良い。
「いや、狭いとかそういうのは別に良いんだけど」
「あ、そう? じゃあ俺、今日帰ったらソッコーで片付けるから、」
「いやいや、ちょっと待って」
 上鳴の言葉にストップをかけるようにウチは軽く手を上げた。
「……え、本気?」
「……え、本気だけど?」
 きょとんとした瞳で見つめてくるけど、呆気に取られているのはこっちの方だ。何でそんなにあっさりと、ウチを自分の家に泊める話を進められるのかが全然分からない。どこから突っ込んで良いか分からず頭を抱えて黙っていると、上鳴は続けた。
「今さら気なんか遣わねえだろ。高校の時だってひとつ屋根の下だったんだし」
「……あれは寮でしょうが」
「で、一週間くらいなんだろ? そんなんすぐだって」
「……すぐ? いや、まあまあ長くない?」
「つーか、夜寝に帰るくらいじゃん。ずっと一日中同じ家にいるってわけじゃねえんだから、ただの寝床だと思えば良いよ」

 寝に帰るだけ。
 その言葉がやけに素直に、すとんと自分の中に落ちた。

 一緒に暮らすと思ったら大ごとのような気がしていたけど、この言葉を聞いたら一気に軽い話のような気がしてきた。
 お盆期間だからといって夏休みはないから、いつも通り朝からヒーロー活動をして、夜は帰って夕飯を食べて寝るという生活。上鳴もきっとそんな感じだろう。顔を合わせるのは長くてもせいぜい夜に三時間、朝に一時間といったところだろうか。上鳴とだったら、これくらいの時間を一緒に過ごすのは大したことではないかもしれない。
 上鳴はそれが分かっているから、こんなに簡単に誘っているんだろう。そう考えたら、それほど変な話でもないような気がしてきた。
「エアコンなしはマジで熱中症危ねえぞ。かと言って、一週間のホテル代も馬鹿になんねえじゃん。その点、俺んとこだったらタダだし」
「いや、上鳴の部屋に泊めてもらうにしてもいくらか払うけど」
「いいよそんなん」
「逆に払わない方が気遣うって」
「ん、まあそれもそうか。じゃあそれは耳郎の好きで」
 気づけばもう、上鳴の部屋にお世話になることがほぼ確定している流れになっている。そして正直に言えば、ウチの気持ちも完全にそっちに傾いていた。エアコンの効いた部屋で眠れるという魅力もそうだけど、もっと現金な話がある。ウチのアパートよりこの辺から通う方が事務所が近いことに気づいてしまったのだ。
「じゃあどうする? 今日来るんだったら今ちょっと待ってもらえば」
「……や、準備あるから今日はいいよ。もう一晩くらい大丈夫だし」
 本当に良いんだろうか、と思う心もまだ残ってはいる。けど口からはもうこの流れに乗った言葉しか出てこなかった。
「そっか、気を付けろよ。なら俺、明日も今くらいの時間なら待ち合わせできるけど」
「……ウチも、この時間でたぶん大丈夫」
 ここの最寄り駅を待ち合わせ場所にして、具体的な時刻は明日お互いの勤務が終わった時に連絡を取り合って決めようということになった。
 つまりは、話がまとまってしまった。

 別れ際、駅の入口前で、
「部屋めっちゃ綺麗にしとくから!」
 と、上鳴は元気に言って帰っていった。自分の帰り道とは反対方向なのに、駅まで着いて来たのだった。
 ウチはその場に立ったまま、上鳴の後ろ姿が小さくなるまでずっと眺めていた。角を曲がって見えなくなるまで。
 上鳴が見えなくなった時、思わずぽろっと独り言がこぼれた。
「……マジで?」




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