夏日記 / p.2

八月十三日(金)

「……お邪魔します」
 部屋のドアを開けると、先に帰っていた上鳴がキッチンに立っていた。小鍋にお湯を沸かしている。
「おー、お帰り。つーか何だよ、ただいまで良いだろ」
 案の定突っ込まれてしまった。上鳴に笑われてばつが悪い。
 昨日は上鳴と一緒に来たからお邪魔しますと言ったけど、一人で帰ってきた今日は何と言ったら良いか分からなかった。たった今、玄関のドアの前で三十秒くらい「ただいま」と「お邪魔します」で迷った末に後者を選んだ。上鳴のリアクションも正直予想済みだったけど、「ただいま」だと何だか図々しい気がして言えなかったのだ。だけど指摘されたから明日からはそう言うことにする。

「これ、上鳴も食べて」
 ウチは腕に抱えていたビニール袋を床に下ろした。
「ん、何それ?」
 コンロから目を離して上鳴がこっちに顔を向ける。ウチは袋の口を広げて見せた。
「西瓜」
「お、すげえ! どうしたん、買ってきたの?」
 丸くずっしりとした西瓜を見て上鳴の目がパッと輝く。ウチは首を横に振って、やっと楽になった腕を揉んだ。
「貰ったの。今年入った事務の人の家が農家らしくて、お裾分けって」
「へえ、良いなー。美味そう。てか、重かったんじゃね?」
「結構重かった」
 袋に入れたものの、片手で持ったらビニールが重みに耐えきれそうにないから両腕に抱えてきた。これくらいの重さなら平気だろうと思っていたけど、ずっと持っているのは想像以上に腕にきた。
「連絡くれたら駅まで迎え行ったのに」
「いいよ別に。実際持ってこれたし」
 洗面所で手洗いとうがいをしてキッチンに戻る。上鳴から包丁を借りて西瓜を切った。
「耳郎飯どうすんの、買ってきた?」
「うん、お弁当。ごめんこれ、冷蔵庫結構埋まっちゃうかも」
 とりあえず今日の分の西瓜だけ食べやすいように切って皿に入れ、残りはそのままラップをかけた。なるべく小型のものを選んできたつもりだったけど、いざ切ってみると大きかったんだなと思う。
「全然いいよ。あんま入ってねえし、余裕だと思う」
 冷蔵庫を開けるとその通りだった。あまり買い置きはしていないらしくガラガラだ。上鳴の言葉に甘えて西瓜を収めていく。冷えてる方が美味しいから、今日の分も食べるギリギリまで入れておくことにする。
 冷蔵庫の扉を閉めた時にちょうど良い匂いがした。振り返ると、上鳴がお皿に盛ったご飯にレトルトカレーをかけているところだった。
 お腹空いた、と思ってウチも買ってきた弁当をテーブルに運んだ。


 昨日上鳴と話をして、食事はそれぞれ勝手に用意することに決めた。お互い一人暮らしのつもりで楽にしようということで。キッチンにあるものは好きに使って良いと言われた。
 上鳴の部屋は1LDKで、玄関を入ってすぐのところにお風呂とトイレがあり、短い廊下の先のドアを開けるとLDKがある。それと隣り合うように四帖の洋室がついていて、そこがウチが借りる部屋だった。
 上鳴が高校を卒業してから借りていた部屋は1Kだったけど(ウチも何回か行ったことがある)、この数年で一人暮らしも慣れてきて、趣味の空間を作ってみたい気持ちが湧いて小さい部屋があるこの間取りを選んだらしい。でも実際のところこの四帖は物置兼筋トレ部屋になりつつあって、基本的には一番広い部屋で生活が完結していると言っていた。
 かなり片付けてくれたようで、それほど物は置いてなかった。狭くてごめんと言われたけど、寝るためだけなら充分な広さだった。この部屋にはエアコンがないから寝る時はドアを開けておく必要があるけど、リビングからわざわざ覗こうとしなければ部屋の中はよく見えないから特に気にならなかった。別に寝ているところを上鳴に見られたからどうってことないし、着替える時だけ閉めれば良いし。
 客用の布団を出してもらって、さっそく昨日からここで寝ている。ひとの家の慣れない寝具でちゃんと眠れるか心配だったけど、それは取り越し苦労に終わった。連日の寝苦しさで自覚以上に疲れていたらしく、昨夜目を閉じた後はもう記憶がなかった。夢をまったく見ず、アラームも寝ぼけて止めていて、上鳴が起こしてくれなかったら危うく寝坊するところだったくらいだ。一日目で爆睡してしまった自分に驚いている。


「はい、西瓜」
 ローテーブルの上に西瓜の乗った皿を置く。厚めに切った三角が四つ。
「あ、わりぃ。ありがと」
 上鳴はベッドに腰掛けてテレビを見ていて、うちわで顔の辺りを扇いでいた。エアコンはもちろんついているんだけど、さっきシャワーを浴びたからか暑いらしい。ウチの前に浴びたからもう二十分は経っているはずなんだけど、代謝が良くて子どもみたいだ。
 ベッドから降りてきた上鳴とテーブルを挟むように座り、二人でテレビを見ながら西瓜を食べた。シャワーを浴びたばかりの火照った身体に冷たい西瓜が美味しい。

「こうやって一緒に西瓜食ってると、何か高校ん時のこと思い出すな」
 表面に見えている種を人差し指で落としながら上鳴が言った。種が皿に落ちて、カンカンと小さく軽い音が鳴る。
「そうかも」
 高校生の時、夏になると皆で少しずつお金を出し合って西瓜を買い、寮の共有スペースでワイワイ食べていた。砂藤が西瓜の中身をくり抜いて皮を容器にし、フルーツポンチを作ってくれたこともあった。西瓜で作った容器は口のところがギザギザの飾り切りになっていて、西瓜やみかんやりんごといった色んな果物や白玉がサイダーの中できらきらしていた。
「砂藤のあのフルーツポンチ凄かったよな! 俺あんな豪華なの初めて食ったわ」
「ウチも。美味しかったよね」
 上鳴も全く同じことを思い出していたみたいだった。こいつと思考回路が同じでちょっと複雑な気持ちだけど、あれはインパクトが強かったから当たり前と言えば当たり前か。西瓜と聞けばたぶん、ウチらだけじゃなくてA組皆があれを思い出す気がする。
「あ。あとさ、塩かけるやついたよな! 耳郎もそうだっけ?」
「ウチはやらない」
「俺も。やってみたけど、甘味が増すとか意味分かんなかったんだよなぁ。でも何か通な感じするよな。塩って」
 あんたの場合はただのかけ過ぎだったよ、と思ったけどとりあえずスルーした。
「瀬呂とか障子とかやってたね」
「そーそー」
 上鳴が瀬呂の真似をして西瓜に塩を振っていた、そんなことをすぐに思い出せた自分に少し驚いた。ちょっとしたきっかけで、些細な出来事たちが昨日のことのように鮮明によみがえる。手を伸ばせばこんなに簡単に触れる距離にあったのか。こうして完全にオフな状態で話をしていると、何だか気持ちまで当時にさかのぼるようで、今この瞬間だけは本当にまだ高校生なんじゃないかと錯覚しそうになってしまう。
 卒業してプロヒーローになって、未成年から成人になって、自分は変わったようでいて、実は変わったことってそんなにないのかもしれない。

 上鳴はひと切れ食べ終えて、ティッシュで手と口を拭った。
「もしや今なら俺も塩の良さ分かるかな。大人になったことだし!」
 そしてふいに立ち上がり、キッチンの方へ歩いていく。
「へー、上鳴って大人だったんだ」
 白いTシャツの背中に声を投げると、「うるせ」と適当な返事が返って来た。
 上鳴はキッチンで何やらガサゴゾと探し物をしているようで、「あれ?」とか「ん?」とか言う声が聞こえてくる。しばらく二分くらいそうしていて、ウチもひと切れ食べ終わった頃、細長い瓶を持って戻って来た。
「塩、これしかなかった」
 コトン、とテーブルに瓶が置かれる。そこには淡いピンク色の粗い粒が入っていた。
「……これ、岩塩だよね」
「うん、そう。何かこういうの使うとカッケーと思って買ったんだよな」
 いかにも言いそう、と思った。そういう理由で買っていそうなものがまだキッチンにありそうだ。
「理由が頭悪過ぎじゃない?」
「や、でも、実際美味いんだって! 見た目だけじゃなくてマジで!」
「だけど粗すぎて西瓜に付かないでしょ」
 岩塩が美味しいのはウチも分かるけど、今の問題はそれじゃない。どう見ても西瓜にかけるには粒が大き過ぎる。
 ウチがそう言うと上鳴は、「んー……」と言いながら瓶を振った。塩は三分の一くらい使ってあって、揺れた塩がガラスに触れる軽快な音が鳴る。
「あ、じゃあ、先に塩を口に入れてから西瓜食えば良いんじゃね?」
 上鳴は瓶の蓋を開けて手のひらの上に塩を数粒落とした。それをまず口に入れ、すぐに西瓜をかじる。咀嚼しながら一瞬考え事をしている風になり、だけどすぐに何か閃いたように目を見開いた。何度か頷いて口の中のものを飲み込んだ。
「んー、んー、なるほど! すげえ!」
「え、何」
「耳郎もやってみ。騙されたと思って!」
 すっと上鳴がウチの方へ瓶をスライドさせる。
 爛々とした瞳をこっちに向ける上鳴を細目で見つめ返して数秒、その圧力に押されてウチも手のひらに塩を乗せた。二粒落ちたそれを口に入れて、その後すぐに西瓜。
 合うんだろうか、と考えながら咀嚼して、飲み込んだ。
「……何か西瓜と塩バラバラで食べてるみたい」
 どっちも一緒に口の中に入っているのに、岩塩の主張が激しくて、西瓜のために食べているとは思えなかった。双方が好き勝手な方向を見ている感じ。ちょっとしょっぱいし、とりあえず全然西瓜の甘みは引き立っていない。
「だよな。俺もそう思った」
 上鳴は瓶の蓋を締めながらさらっとそんな返事をした。さっきまでのテンションはどこへ行ったのか、スンと落ち着いている。
 ウチは何かを考える前に、気づいたらこいつの腕を思い切りはたいていた。
「いってぇ!」
 ちょうどTシャツの袖から出ている二の腕の辺りに手のひらが当たったから、パチンと乾いた良い音がした。
「何なのちょっとイケるみたいな顔しといて、ムカつく」
「だって何か俺ばっかやるのもなぁって」
 上鳴は唇をとがらせていじけた風に言った。それでさらにムカついて、耳たぶのコードを上鳴に向かって勢いよく伸ばすと、上鳴は大袈裟に身をよじって逃げた。そのままお互い数秒止まっていたけど、結局ウチは何もせずにするするとコードを短く戻した。
「あーもう、やだ。上鳴のくだらない茶番に付き合った自分が本当にやだ」
「へっへ。まさかやるとは思わなかったな。疑ってやんねえと思ってた。耳郎ノリ良くなったな」
 上鳴はニヤニヤしながらテーブルの前に戻って来て、西瓜を手に取った。種をちょっと落としてからかぶりつく。
「は、何それ。ムカつく」
 ウチもさっき一口かじった西瓜にかぶりついた。
 部屋の中は、二人分のみずみずしい音がする。

 ここに来ることを決めた時、食事の時以外は基本的に四帖の部屋に居ようと考えていた。だけどそうすることの方が不自然な雰囲気があって、西瓜を食べ終わっても二人でテレビを見て、結局寝る時間になるまで上鳴とダラダラと喋って過ごした。




八月十四日(土)

「お、耳郎何作ってんの?」
 ドアを開けてただいまと言うや否や、上鳴はそう言いながらウチの隣にやって来た。
「野菜炒めてるだけ。最近外食とか買ったりとか多かったし」
 ウチはフライパンから目を離さずに返事をする。
 ひとの家のキッチンは気を遣うから自炊をするか迷っていたけど、上鳴は使って良いと言ってくれたし、自分の食生活のことも考えて今日初めて使わせてもらった。上鳴より早く帰って来れたから、上鳴が料理するにしても時間が被らないだろうし、と思って。
「これ、一袋に入ってるやつだろ? 俺もよく買う」
「うん。洗わなくて良いし」
 ウチが今炒めているのは、上鳴が指摘した通りスーパーで買ってきたカット野菜の詰め合わせだ。ほとんどもやしで、キャベツと人参とピーマンが彩り程度に入っているやつ。
「分っかる! そこ大事だよな! 野菜食わなきゃと思ったら俺これ買うもん」
 自炊が面倒だけど作って食べたい時、どれだけ楽できるかが重要だ。洗わずにフライパンに入れるだけで良いのは本当に助かる。
「だよね。何かあんたと一緒ってのが複雑だけど」
「んだよ、喜べよ」
「何で喜ぶの」
 特に考えずに言ったらしく、上鳴はただ笑うだけの返事をしながら、買ってきた総菜を電子レンジに入れた。それから鞄を下ろすために部屋の方へ行く。
 その時、上鳴が何か気づいたように、「あ、」と声を上げた。ウチは、見つけたか、と思いながら炒めている野菜に醤油を回し入れた。
「耳郎、これ」
 上鳴の足音が近づいて来て、ウチはコンロの火を止めてから振り返る。
 予想通り、上鳴は小瓶を手に持っていた。
「スーパーで目に付いたから買ってきたの。今日はそっちで試そうと思って」

 小瓶の中に入っているのは、白くて細かくサラサラの、いわゆる普通の塩。
 スーパーに入った時は全然そんなつもりはなかったけど、買い物の途中でふと「塩」の文字が見えたら昨晩の出来事がよみがえって、カゴの中に入れていた。話のタネにしようと思い、帰って来てからテーブルの上に置いておいたのだ。いつ気づくだろうかと思っていたけど、すぐに発見された。それは何となく想像していたけど。
「やべえ、耳郎」
 だけどリアクションは予想外だった。笑われるだろうと思っていたのに、現実の上鳴は真顔だ。それはどういう感情なんだと思いながら次の反応を待っていると、上鳴はおもむろに自分の手首に掛けていたレジ袋に手を入れた。
 そして出てきたのが、ウチが買ってきたのと同じ塩だった。
「俺も買ってきちゃった」
 呆然とした表情で上鳴が見つめてくる。ウチもそのまま固まってしまった。
 しばらく沈黙が続いている中で、温めが終わった電子レンジがピーっと鳴った。それを合図に上鳴が吹き出す。
「マジかよ。すげえな」
 両手に持った二つの塩の瓶を見ながら笑っている。
「以心伝心じゃん俺ら」
「止めてよ、そんなんじゃないし」
 ウチもつられて笑ってしまった。こんなの笑うしかないというか。
「や、だってさ。これはもう、そうとしか言いようがねえよ」
「違うよ。以心伝心だったら、相手が買ってくるのを察してどっちかしか買ってこないんじゃないの」
 食器棚の方に向き直ってウチは、出来上がった炒め物を盛るための皿を探った。
「あー……、そういう考え方もあるか? じゃあ、思考回路が一緒ってことだな! 俺とお前の!」
「げ、絶対やだ。そんなの」
「ここに動かぬ証拠があるからな」
 へっへっへ、と変な笑い方をして、上鳴はウチの傍に瓶を二つ並べて置いた。そして電子レンジから総菜を取り出す。ウチはそれを横目に、フライパンから大皿に野菜炒めを移した。
「これ多めにあるから上鳴も食べる? いらなかったら明日の朝、残りウチが食べるけど」
「お、良いの? 食う食う。じゃあ俺のもちょっとやるよ」
「何買ってきたの」
「ホイコーロー」
 上鳴が自分のおかずと一緒に山盛りの野菜炒めを持っていく。ウチが他に買ってきた焼き魚を皿に出したり、ご飯を盛ったりしていたら、先に支度が終わった上鳴が二人分の麦茶を入れてくれた。

 準備が終わって、二人で向かい合ってラグに座る。とりとめなく今日あったことを話しながら、夕ご飯を食べた。
 高校時代、寮生活で朝から晩まで顔を合わせていたからだろうか。軽いノリで始まってしまった同居生活は、意外にも違和感なく日常になろうとしていた。




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