夏日記 / p.3

八月十六日(月)

 リュックを背負って部屋を出ると、今日も朝からもやもやした空気が停滞していた。思わず、あつ……とつぶやく。きちんと玄関の鍵を掛けたことを確認してから、エレベーターに向かった。
 上鳴の部屋にお世話になって四回目の朝。久しぶりに、一人で自分のアパートに暮らしていた時のような静かな朝を迎えた。喋る相手がいないのが普通だったはずなのに、どことなく物足りないような気がしてしまうから慣れって怖い。
 昨夜は上鳴が夜勤で不在だった。上鳴が居る時はこの部屋にすんなり馴染めていたつもりだったけど、一人で過ごしてみると変な感じだった。やっぱりひとの家って感じで、夕飯を食べた後すぐ手持ち無沙汰になってしまい、かなり早く寝た。そのおかげで体調は万全だけど。

 駅に向かって歩き始めて五分くらい経った時、向こうから上鳴が歩いてくるのが見えた。ウチが気づいたのとほとんど同じタイミングで上鳴もウチを見つけたらしかった。こちらに向かって片手を上げる。
「おー、お疲れ。じゃなくて、おはようか」
「おはよ。お疲れ様」
 上鳴の顔はいつも通り朗らかだけど、勤務明けで気が抜けているというか、ちょっとだけ疲れたような表情をしていた。お互い近づいて、立ち止まる。
「昨日は一人でのびのびできたんじゃねえの」
「上鳴こそ、今日は一人で羽伸ばせて良かったね」
「べっつに。耳郎が居ても伸ばしてるし」
 上鳴はそう言って両腕を上げて伸びをして見せる。
 気遣いではなく本当にそうなんだろうなとは思う。上鳴はもともと人と居るのが好きで、一人きりじゃなくてもリラックスできるタイプだ。この数日間も、ウチが居てもかなり無防備だった。ウチも友達と過ごす時間は好きだけど、一人で居る時間もそれなりに欲しいと思っているから、高校の時に上鳴の様子を見て、こういう人も居るんだなと思ったのをよく覚えている。
 誰かと一緒にいるのをストレスに感じていないのが言動から伝わってくるからだろうか、上鳴の部屋に来てから一人きりの時間はそんなにないにも関わらず、ウチもそれを全く気にしていなかった。それは自分として結構驚くべきことだった。気を遣わせないっていうのはある意味才能かも、と思う。

「西瓜まだある?」
 腕を下ろしながら上鳴が言う。
「うん、全部切って冷蔵庫入れといたから食べなよ」
「やったぜ。食ったらちょっと寝るかな」
 子どもみたいな喜び方が可笑しい。
 それからウチは、昨日買ってきた炭酸水があるから好きに飲んで良いと伝えた。スーパーに行った時に上鳴の分も買ってきたのだ。いつも冷蔵庫に入っているから好きなんだろうと思って。食品関係はお互い好きにしようとは言ったし、水道光熱費の足しにしてといくらか渡してあるけど、住ませてもらっているんだからこれくらいはしないとなとは思う。
 上鳴はそれを素直に喜んでくれた。そして、じゃあ行ってら、と言われて別れた。
 駅に向かって歩き始めてしばらくして、少しだけさっきよりも歩調が速くなっていることに気がついた。肌を刺す強い日射しも、夏らしくて許せるような気がしてくる。
 今朝から身体の中にあった物足りない感じは、いつの間にか消えていた。




八月十七日(火)

 洗濯物が乾燥機の中でぐるぐると回り始める。このコインランドリーに乾燥機は十台ほどあって半分くらいが使用中だったけど、この場で待っている人は誰も居なかった。平日の午前中でもそれなりに使う人が居るんだなと思う。
 乾燥が終わるまで三十分くらい。ここから上鳴のアパートまで五分くらいの距離だから帰れないこともないけど、これくらいの時間なら待っていても良いか。そう思ってウチはベンチに座り、何となく耳たぶから下がるコードを指でいじった。

 今日は二人とも休みだ。そしてお互い外出の予定がない。つまり一日中一緒にいることになってしまうけど、さすがに良いのだろうかと思ってしまう。これはウチが気にしているだけであって、きっと上鳴は何も遠慮することないと言うだろうけど。
 それどころか、自分から泊まることを誘ってきただけあって、上鳴はこの共同生活をかなり楽しんでいる節がある。昨日なんてウチの分の夕飯まで作って待っていてくれた。勤務が終わってスマホを見たらそんなメッセージが届いていたからびっくりした。「もし食いたいのあるなら気にしないで」とも書いてあったけど、真っ直ぐ帰って有り難くそれを食べた。焼きそばとサラダとスープ。
 一人分も二人分も手間なんて変わらないし、と平然と言う上鳴を見ながら、こんなに世話好きで甲斐甲斐しいやつだったっけ? と意外に思っていた。高校を卒業してからしばらく彼女が居たらしいから、それで大人になったのかもしれない。
 高校時代から変わったところもあれば、変わっていないところもある。上鳴の新しい一面を見つけると、その度ちょっと戸惑いに似た感情が湧く。その感情の中に、会わないでいた時間を感じるというか、ウチの知らない経験とか思い出とかが色々あるんだろうなと分かるというか。
 そしてそんなことを考えてしまう自分にも戸惑う。だって平気で半年も会わないこともあるんだから、分からないことがある方が自然なのに。


 アパートに帰ると、玄関ドアの付近でアコースティックギターの音色がかすかに聞こえた。たどたどしく弦を弾く音。
 部屋のドアを開けると、上鳴がベッドに腰掛けてギターを弾いていた。
「へえ、まだ続けてたんだ」
 ウチがそう言うと上鳴は手を止めて、おかえり、と言った。
「でも最近全然できてねえんだよな。久しぶりにやってる」
 そのギターには見覚えがある。一年前に一緒に買いに行ったものだから。「ギター欲しいから選んで!」と上鳴から急に連絡が来て、二人で楽器屋に行ったのだった。
 その時はいきなりどうしたんだと思っていたけど、話を聞いてみれば、高校を卒業する時からずっと続けたい気持ちはあったらしい。その証拠に、まだギターを持っていないのにも関わらず、当時から上鳴は楽器演奏可の部屋に暮らしていた。だからここもそうなんだろう。アパートの廊下でほとんど音が漏れていなかったし。
 ウチは四帖の部屋に行って、洗濯物をたたんだ。上鳴のギターの音をBGMに聞きながら。

 懐かしい曲だった。高校一年の文化祭の後、もっとギターを弾きたいと言った上鳴の練習用に教えた曲。
 当時上鳴は本当に初心者で、文化祭で一曲演奏するために短期間でギターを習得していた。だからこれからも続けたいのならば、最初に変な癖がつかないようにと、ウチはテンポがあまり速くない曲を選んだ。誰でも一回は聞いたことがあるくらい有名な古い洋楽。派手なのが好きそうな上鳴からしたら物足りないかと思ったけど、特に文句を言うことなく練習していた。
 上鳴に付きっきりで教えたのは、文化祭で演奏した曲とこの曲だけだから、どうも思い出深い。
 一年生の途中からインターンが始まってゆっくりギターを教える時間が取れなくなったから、それからしばらくは練習を中断していた。その間もギターはずっと上鳴に貸しっぱなしにしておいて、三年生の夏頃からまた暇を見つけてはやっていたけど、その時は上鳴が自分で練習している曲の分からないところや難しいところだけ聞いて、アドバイスをするという感じだった。

 かなりスローなテンポでサビの部分が聞こえてくる。何度も繰り返される、傍に居てという意味の英語の歌詞を口の中でつぶやいてみる。上鳴も小声で歌っているらしく、ギターの音色にほんの少し声が乗っている。
 服をたたみ終えても、ウチはしばらくそこでぼーっとしていた。綺麗に晴れた空が窓から見える。
 感慨にふけっていると、上鳴が音を外した。何でそこで外すんだよという絶妙なタイミングだったから、一気に目が覚めた。
 部屋から顔を出すと上鳴と目が合った。ウチがそうするのを見越していたかのような様子だった。
「高校の時の方が上手かったんじゃない?」
 ウチがそう言うと、上鳴はうなだれて笑った。
「はっきり言うなよ。俺もそう思ってんだから」
 自覚はあったらしい。やっぱり弾かない期間が空いてしまうと指の動きはどんどん衰えていく。ウチも一週間弾かないだけでかなり鈍ってしまうし、上鳴はなおさらそうだろう。
「耳郎弾いてよ」
 ウチがキッチンに行って冷蔵庫から飲み物を出していると、上鳴が言った。
「え、何で」
 ペットボトルのキャップを捻って、プシュッと音が鳴る。「上鳴もいる?」と聞いたら「欲しい」と言われたから、コップを二つ出して炭酸水を注ぐ。
「いーじゃん。つーか耳郎もギターとかベースとか持って来るかと思ってたのに」
「いや、場所取ると悪いでしょ。てかここで弾くと思ってなかったし」
「部屋に置きっぱなし?」
「ううん。暑いから、知り合いのスタジオに預けてるよ」
 ローテーブルにコップを置き、ベッドから少し離れた場所に腰を下ろした。炭酸水を飲んでいると、上鳴がウチにギターを差し出してきた。
「先生、お手本お願いします」
 その呼び方も懐かしい。二人きりで練習している時、上鳴はウチをよくそう呼んだ。
 コップに口を付けながら上鳴の表情を見る。ウチが弾くまで絶対言い続けるんだろうな、という雰囲気だった。ウチは素直にギターを受け取った。この上鳴に逆らえないと思ったからではなく、ウチも渋る理由が特になかったからだ。
 上鳴が自分の隣のスペースをたたいたので、そこに座った。ギターを構えると、やたら期待に満ちた目がこっちを見ていた。見んなと言ったけど無視される。
 ウチも弾くのは十日ぶりくらいだから、最初はちょっと指が硬いかもしれない。さっき上鳴をからかった手前ミスはできないなと身構えていたけど、弾き始めたら数日間のブランクは特に感じなかった。
 ギターのメロディーに合わせて上鳴が歌を口ずさむ。そっと隣に視線をやると、上鳴はウチの手元を見ていた。

 俺、お前の弾く音が好きだな。

 高校三年生の夏休み、ウチの部屋で久しぶりにギターの練習を再開した時に、上鳴からそう言われたことを思い出した。今の上鳴は、その時と何も変わらない楽しそうな表情をしている。ウチはこの顔をずっと知っている。変わらない上鳴の部分の一つだ。
 なのにどうしてだろう。今は知らない一面を見つけた時みたいに落ち着かなくて、少し恥ずかしかった。サビに差し掛かったらウチも歌おうかと思っていたのに、傍に居てという歌詞がどうしても言えなくて、上鳴の素直な歌声を聞きながら、ただただギターを弾いていた。




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