夏日記 / p.4

八月十九日(木)

 窓を開けていると涼しい夜風が入ってくる。夕方まで降っていた雨のおかげで気温が下がったようだ。ベランダに出ると夏の夜の匂いがして、そよそよと吹く風がシャワーを浴びた後の身体に心地良かった。このまま降らなければ窓を開けてエアコンなしで眠れそうだ。

 皮肉なもので、そんな時にようやく、ウチの部屋のエアコン修理の目途が立った。
 明日の朝に修理業者が来てくれることになったと、夕飯時に上鳴に告げると、
「良かったじゃん」
 とは言ってくれたけど、ウチがこの部屋を引き上げるのはどうも渋っているようだった。またこの間みたいに直らないかもしれないし、とりあえず明日はまだ居ても良いよ、と言われた。
 たぶんさすがに今回は修理が完了するだろうし、仮にしなくても、天気予報によれば明日の気温はさほど暑くないし、もう自分の部屋に帰っても平気だと思う。
 けど上鳴の様子を見たらそう言えなくて、結局見えない空気に流されて、明後日の朝にここを出ることに決めた。明日は帰りが遅くなる予定だから、こっちに帰ってくる方が早く休めるし、という言い訳をなぜか自分にしながら。

 部屋の中から物音がする。振り返ると、上鳴が風呂場から出てきていた。冷凍庫からカップアイスを取り出しこっちに見えるように向ける。それを見てウチは部屋に戻った。
 このアイスは風呂上がりに食べようと、今日の帰りにコンビニで買ってきたものだった。スーパーやコンビニで飲み物や食品を買う時に二つ手に取る、というのがこの一週間ですっかり癖になった。上鳴が新しいもの好きということもあって、新商品とか斬新な味のものも気軽に買えるからつい手が伸びてしまう。
 今日買ってきたのはちょっと高めのアイスで、味もスタンダードなバニラとチョコだけど。てっきり今日で同居も終わりになると思ったから、そのお礼のつもりだった。

「なーんか、もう夏が終わっちゃうみたいだな」
 バニラアイスを一口食べて上鳴が名残惜しそうに言った。
「たぶんそのうちまた暑くなると思うよ。だって毎年九月になっても半袖着てんじゃん」
 ウチもチョコアイスをスプーンですくって食べた。まだ冷凍庫から出したばかりで少し固い。
「まあ、暑い日はあるだろうけど、それと夏とは別なんだよ」
 上鳴もアイスが固いと思ったらしく、手のひらでカップを包んだ。
 暑い日が続くのと、まだ夏なのは別、か。
 上鳴にしては情緒のあることを言った。そんなこと考えてるんだ、と思ってちょっと感心する。ウチもアイスを柔らかくしようと、上鳴と同じことをした。
「耳郎が来てから夏休みみたいだったな」
 上鳴がそう言って笑った。
「生活リズムは何も変わってないんだけどさ、何でだろうな。高校ん時みたいだったからかな」
 上鳴の言葉が自分の気持ちにピタッとはまった。この一週間のソワソワしてちょっと非日常的な感じはそうだ、確かに夏休みのようだった。大人になった今も夏休みは取れるけどそうじゃない、子どもの頃の夏休み。
「分かるかも、それ」
 ウチが同意すると上鳴は嬉しそうだった。
「だよな、そんな感じだったよな! もーさあ、一緒に住まねえ? 楽しかったよ、俺」
 とんでもないことをさらっと言われたけど、意外ではなかった。たぶん上鳴はこう言いたかったんだろうなと思っていたから。ただ、どういう意味を込めて言っているのか、その気持ちははかりかねていた。
「何言ってんの。最初から期間が分かってたから良かったんだよ。これが本当に毎日三六五日顔を合わせてみな。絶対イラっとしたりウザくなったりするから」

 夏休みはいつまでも続かない。ちゃんと終わりが来るものだ。
 そもそも、彼女ができたらどうするつもりなんだよと思った。そこんとこちゃんと考えてんのと聞きたかったけど、ウチらの間にそういう話題を上げるのを躊躇って、喉の奥に押し留めた。なるべくそういう方向に話を持っていきたくなかった。
 上鳴はウチの意見にあまり納得していないようだった。えー、そうかぁ……、とつぶやいてからまた一口アイスを食べる。
「でも家に帰って来てから話し相手が居るって、マジで良いなって思ったわ。ルームシェアとかありかも」
「良いんじゃない、あんたは向いてそう」
 ウチのアイスも良い感じに溶けてきたから、また食べ始めた。
 それからはしばらく沈黙していた。テレビから流れるバラエティ番組の音がウチらの間を埋めてくれている。

 やがて、ほとんど食べ終わったらしい上鳴が、スプーンでカップの底をなぞりながら口を開いた。
「俺、実は前から思ってたんだけど」
「うん」
 何その改まった言い方。
 そう思ったけど、何も気にしてない風を装ってスプーンを口に運ぶ。
「老後になったら景色の良いところにデカい家買ってさ、A組の皆で一緒に住むってどう? 良くね?」
 何だそれ。変に一瞬緊張してしまったから、あまりに突拍子もない、だけどとても平和な夢が飛び込んできて、素直に笑ってしまった。そんなウチの様子を見て、上鳴も笑いながら続けた。
「まあ結婚とかして無理な人も居るだろうけど、住めない人でもいつでも遊びに来れて、毎日誰かが居んの。個室もあるけど、共有スペースみたいな場所もあってさ」
 どれくらい本気で言ってんの、無理じゃないのと思いつつ、完全に否定しきれない自分もいる。いざやろうと言ったら、何でもできてしまうのがウチらのクラスだった。そして何より、想像するだけでパッと明るい気持ちになれる。そういう未来を持っておくのは悪くないと思う。
「もう家っていうか、マンション建てる勢いでしょ、それ」
「あ、そうだな。もう皆の貯金合わせてすげえの建てようぜ! 高額納税者の爆豪にいっぱい出してもらお。ぜってー楽しいと思うんだよな」
「うん、楽しいと思う」
 ウチらはこの話題でかなり盛り上がった。間取りはどうするとか、欲しい施設は何があるとか、どんな場所に建てるかとか。寝る時間になるまで話は全く途切れなかった。

 上鳴が前からこんな夢を描いていたというのは、たぶん嘘じゃないだろう。ウチももちろんA組が好きだけど、上鳴はとりわけ皆の中に居るのが大好きな人で、皆で過ごす時間を大事にしていたから。
 だから心にもないことを言ったわけではないということは大前提として、だけどきっと上鳴は、ウチが上鳴の真っ直ぐな言葉をはぐらかしていることを察して、こういう話題に切り替えてくれたんだろう。実際のところ上鳴の本音は分からないけれど、確信に近くそう思えた。
 今夜は考え事をしてしまい、上鳴の部屋に来てから初めて、眠るまでに少しだけ時間が掛かった。




八月二十一日(土)

「朝飯ぐらい食ってけば」
 スーツケースに荷物を詰めて四帖の部屋から出ると、半分寝ているような声で上鳴が言った。声の方を向くと、上鳴はベッドの上に身体を起こしていた。目は半分くらいしか開いていなくて、髪は寝癖でぼさぼさだ。
「大丈夫。出勤前に一旦アパート行きたいし」
 昨日寝る前、「もう五時半頃に出ていくし、上鳴は休みなんだから寝てて」と言っておいたけど、起きてしまったようだ。なるべく物音を立てないようにしていたけど気になっただろうか。
「本当にありがとね。泊まらせてもらって助かった」
「ん、全然」
 のっそりと上鳴がベッドから降りる。
「今度何か奢るよ。食べたいの考えておいて」
「そんないーって。普通に食いに行こうぜ」
 そして眠たそうにあくびをしながら、玄関に向かうウチの後ろに着いて来る。ウチがスニーカーを履いたら上鳴も素足にサンダルを引っ掛けた。下まで送るわ、と言われて、特に断る理由もなかったから頷いた。
 廊下を歩いている時も、エレベーターに乗っている時も、上鳴は無口だった。ウチも何となく黙っていた。

 一階に着いて、エントランスを出る。まだこの時刻では辺りを歩いている人はいなくて、住宅街はひっそりとしていた。土曜日だからなおさらそうか、と思う。
「じゃあ、ありがと。二度寝しなよ」
「うーん、寝る」
 目を擦りながらぼやけた声で上鳴は返事をした。
 さっきまでの沈黙は、眠くて喋る気力がなかっただけなんだろうか。静かな空間が変に緊張を誘って、ずっと胸の辺りがどぎまぎしていた。それを感じていたのはウチだけだったのかもしれない。ここのところ、上鳴の言動を深読みし過ぎている節がある。調子が狂っている。
 もう一度じゃあと言って、上鳴に背を向けて歩き出した時だった。耳郎、と呼ばれた。振り返ると、やっぱりまだ眠たそうな目で、でも真っ直ぐに上鳴がこちらを見ていた。
 何、と聞こうとしたのと同じタイミングで、上鳴が口を開いた。
「俺、耳郎のことが好きだから、毎日すげえ楽しかった」
 朝の澄んだ空気の中で、上鳴の声だけがくっきりと浮かび上がる。
 まだ眠気が残っているけど、さっきよりもずっとはっきりとした声だった。その声は、どう聞いても聞き違えることはないくらいちゃんと、好き、と言った。
「じゃ、行ってら」
 そしていつものように軽くそう言う。上鳴はひらひらと手を振って、固まっているウチをここに置いて、建物の中に戻って行った。




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