夏日記 / p.5

八月三十一日(火)

 スーパーを出て、自分のアパートへ向かって歩き始める。
 昼間の気温はまだまだ三十度を越すけれど、すっかり日が落ちる時間は早くなった。まだ七時を過ぎたばかりなのに辺りはもう暗い。
「暑い日はあるだろうけど、それと夏とは別なんだよ」という上鳴の言葉がふと思い浮かぶ。今年の夏休みはまだ取っていないけど、ウチの夏ももう終わった気がしていた。

 上鳴との共同生活が終わって十日ほどが経った。
 あれからずっと、頭の中に靄がかかっているみたいにぼんやりしていた。ヒーロー活動をしている時はかなり気を張っているから良い。だけどオフになった途端に、その反動もあってか無為に過ごすことが多かった。帰宅時に降りる駅を間違えそうになったことも何度かある。
 あの朝に上鳴から言われたことばかり考えている。考えているというか、絶えず脳内再生していると言う方が正しいかもしれない。上鳴とはあれきり連絡を取っていなかった。

 上鳴から好きと言われた時、正直意外ではなかった。むしろ一緒に暮らし始めてから微妙に抱いていた違和感みたいなものとの答え合わせができた。でも心の中で漠然と思っているのと、実際に言葉になるのとでは全く違った。はっきりと突き付けられて、とても戸惑ってしまっていた。
 あの一週間はウチにとっても楽しい時間だった。ストレスなんて全然なかった。
 でもだからと言って、じゃあ好きとか付き合おうとか、そんな風に気軽に決めつけられない。付き合いが長い間柄だからこそ、間違っちゃいけないと思うからだ。上鳴も「付き合って」とは言わなかった。それはたぶん上鳴もウチと似たようなことを考えているからなんだろうと想像できる。付き合ってと言われて断ってしまったら、そこではっきりと何かが切れてしまいそうな気がするから。

 手に持っているスーパーのレジ袋が太腿に当たる。
 その時にふと、あ、と思って袋の中を覗いた。
「……」
 一個しか買うつもりのなかったプリンが、二個入っていた。

 どんなに楽しいことがあっても時間が経てばだんだんと思い出になって、次の季節や出来事に目が向くものだ。でも十日経った今もあの毎日の印象はいつまでも強いままで、全然薄まる気配がない。
 なぜなのか。二つのプリンを見つめながらウチは考える。
 いや、本当は考える必要なんてない。ウチはもうその理由を分かっていた。
 それは、自分が引きずっているからに違いなかった。思い出にならないんじゃなくて、いつまでもウチが引き留めているから、思い出にならないだけだった。夏休みの出来事なんていう言葉では片付け切れないもの。

 ウチは回れ右をして、駅へ向かう道へ引き返した。





「あれ、耳郎?」
 上鳴のアパートの最寄り駅の改札を出てすぐの時、背中の方から呼び掛けられた。予想外の出来事に思わず肩がびくっと跳ねる。
 振り返ると、勤務帰りらしい上鳴が立っていた。
「どうしたんだよ、こんなとこで」
 上鳴は普段通りの穏やかな雰囲気をまとっていて、気軽な調子で話し掛けてくる。ここで出会うことは想定していなかったから、ウチは言葉に詰まってしまった。

 ウチは上鳴のアパートに行こうとしていた。
 建物の前まで行って、部屋の窓に明かりがついていたら会う、暗かったら帰る。衝動的に来ておきながら、まだ迷っている心もあって、一種の賭けみたいなことをしようとしていた。
 だけどもう会ってしまった。しかも状況的に、偶然会ったとはどう考えても言えないシチュエーションだ。上鳴もどうしたと聞きながら、きっとウチが自分に会いに来たということを察しているだろう。

 黙っているわけにもいかないから、ウチは咄嗟に手に持っているレジ袋を前に差し出した。
「……何か、プリン二個買っちゃったから。一個上鳴にあげようと思って」
 そう言って袋を広げて見せる。
 上鳴は面食らったように数回瞬きをしてから、袋の中を覗いた。そしてプリンが二個あることを確認すると、声を出して笑った。
「何だよそれ。それでわざわざ来てくれたん? あれ、もしかして連絡くれてた?」
 ズボンのポケットに手を入れようとした上鳴に、ウチはただ首を振った。
 上鳴のリアクションは、そりゃそうだといった感じだった。自分がすごく間抜けたことを言った自覚はある。ここに来てしまったきっかけはまさに言葉の通りだけど、言いたかったのはそんなことじゃないのに。
 ただでさえ緊張していたのに、何もなかったかのような上鳴の普通な態度もウチを怖じ気付かせていた。上鳴は別に返事なんか待っていなかったんじゃないかと考え始めてしまっている。

 ウチが特にそれ以上何も言わないでいると、上鳴が歩こうと促した。二人で上鳴のアパートに向かって歩き出す。すっかり身体に馴染んでしまった帰り道。
 二人で歩き始めてからずっと、耳たぶから下がるプラグがぷらぷらしていた。隣にいる上鳴の様子をとにかく察したくて、勝手に動いている。そんな自分に気づいて情けなかった。ウチってこんなにうじうじした人間だったっけって。
 決心しようと思っても決めきれない、ウチと上鳴の間柄だからと理由をつけてはぐらかす。ビビリで頼りないと思っていた上鳴の方がよっぽど……――。

 そこまで思った時だった。上鳴がウチの手を握った。
 びっくりして顔を上げると、上鳴は真っ直ぐ進行方向を見ていた。ちょうど駅前通りから抜けて住宅街に入ったところだった。
「……こ、これで、合ってる、よな?」
 どもりながら上鳴が言う。触れている手の温かさがじんわり伝わってきて、遅れて心臓がドクドクと大きく鳴り始めた。
 上鳴が恐る恐るといった様子でウチの方に視線を寄越す。
 目が合ってウチは、こくんと頷いた。

 すると突然上鳴がその場にしゃがみ込んだ。手が引っ張られて少しよろめく。上鳴は空いている方の手を自分の額に当て、「あー、良かったぁー……」と地面に向かって喋っていた。心底ほっとしたような、身体の力が全部抜けてしまったような、そんな声だった。
 それを見てウチの緊張も緩む。そして生まれて初めて、上鳴のことを可愛いと思った。
「……ごめん、連絡しなくて」
 ウチも上鳴と視線を合わせようと、そこにしゃがんだ。
 あの朝、あんなにさり気なく好きと言ってきた時や、さっき普段通りのテンションで話し掛けてきた時の上鳴の姿が思い浮かぶ。何だか堪らなかった。
 どうしたら良いか分からなくて、とりあえず肩をさする。

 十秒くらいそうしていると、ずっとうなだれていた上鳴が動いた。
「そうだよ、もおー。早く何か言ってこいよぉ」
 そう言いながら顔を上げる。口から出ている文句とは裏腹に表情は弱気な風で、眉を下げて笑っていた。ウチが言葉に詰まると、続けた。
「まあ、あんな言い逃げみたいなことをした俺が悪いんですけど」
 そして口をとがらせる。
 この会わないでいた間、上鳴はあんな風に告白したことを後悔していたんだな。そんなことを感じさせる言い方だった。
 言い逃げと言ってしまえば確かにそうかもしれないけど、でもそれは上鳴が情けないからとか、意気地がないからとか、そういうわけではなかった。
「……別に、悪いことないよ」
 あんな言い方をさせてしまったのはウチのせいだ。上鳴が言動の端々に滲ませていた好意を見ない振りしていたウチのせい。
 ウチの返事が意外だったのか、上鳴は間の抜けた声で「え、」と言った。あんたの言い方が悪いとでも言われると思ったんだろうか。ウチがそんなことを言う資格なんてないのに、上鳴は上鳴でずいぶん自虐的になっていたようだ。
「……ね、早く帰って食べよ」
 ウチは手首に掛けていたレジ袋を、上鳴の目の前に差し出した。

 あの一週間程度の期間でもう、一緒に過ごすことが当たり前になってしまった。身体に習慣が染みついてしまった。あの日々がこれからも続いてくれたらどんなに良いだろうと、心から思っている。期間限定のイベント事じゃなくて、これをずっと日常にしたい。
 ウチがじっと見つめていると、上鳴の瞳から弱気な色が消えた。上鳴はウチの手から袋を受け取り、元気に頷く。
「おう、帰ろ帰ろ!」
 そして勢いよく立ち上がる。いきなりだったからまた手が引っ張られて、今度は転びそうになった。それを見て上鳴が笑っている。
 夏の終わりの夜風は涼しかったけど、ウチらは二人とも手にかなり汗をかいていた。だけどお互いそのことには触れずに、ずっと離さず繋いだままでいた。
 本当は聞きたいことが沢山あった。でも何だか気恥ずかしくて、ウチも上鳴も他愛のない話題ばかりを選んで喋りながら、一緒に上鳴の部屋に帰った。




2021.08.23



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