ぼくの好きなひとへ / p.1

 コンビニに足を踏み入れた瞬間に、俺ははたと立ち止まった。そこに耳郎がいたからだ。まさかこのコンビニで知り合いに会うとは思わなかった。
 耳郎も俺と同じくインターンの帰りなんだろう。棚の前で何を買うか迷っている耳郎は、俺の存在には全く気がついていないみたいだった。どうせなら驚かせてやろーって思って、黙って背後に回り、背中を叩こうとした。

 と、その瞬間。耳郎が何を見ているのかに気づいて、とっさに「あ、これ声掛けたらヤバいかも」と思った。だけど時すでに遅し。耳郎の背中に向かって下ろした手は完全には止まらなくて、弱くトンと指が当たってしまった。
 その些細な感覚だけで、耳郎はこっちがびっくりするくらい肩をびくっと大きく震わせた。ひっ、みたいな小さな悲鳴みたいなのまで聞こえた。
(うわー、マジで知らんぷりすれば良かった……)
 俺はさっそく心から後悔をしていた。

 ぎこちなく耳郎がこちらを振り返る。俺は努めて明るく「よっ」と言った。そしてそれだけ言ってこの場を立ち去ろうと思ったのだ。でも、それはできなかった。明らかに「まずい」と言っている耳郎の目線ががっちりと絡んできて、目を逸らさせてくれなかったのだ。
「か、上鳴、何で……? 何でここにいんの」
 耳郎の顔はみるみるうちに赤くなり、唇がわなわなと震えた。
「インターンの帰りっすよ。ちょっと小腹が空いちゃってさ~。耳郎もそう?」
「でも、何でわざわざ、こっちまで」
「俺、セバン好きなんだよね。ロートンとファリマも悪くはないんだけどさ~」
 俺が知り合いに会うと思わなかった理由はこれ。ここは駅から雄英高校への道とは反対方向にあるコンビニだからだ。最寄り駅の近くではあるんだけど、高校側の出口と反対の出口から数分歩いたところにある。
 学校へ帰る道すがらにコンビニは二軒あるから、普通、雄英高校生はそっちへ行く。でも俺は近くにあるロートンとファリマよりも、セバンの商品が好きなのだ。普段はあまり行けないから、こうしてインターンがあって駅まで来た時に、ちょっと足をのばして寄るのがひそかな楽しみだったのだ。

 なるべく耳郎の向こう――バレンタイン用の立派なチョコレートが並んだ棚――は見ないようにして、軽い調子で喋ってさっさと話を切り上げようとした。
 なのに耳郎が、
「こ、これは別に、ただ見てただけだから!」
 と、急に弁明を始めた。あちゃー、と俺は思った。自分から言わなきゃ良いのに、墓穴掘ってやんの。俺がせっかく無関心な振りしようとしてんのに!
 仕方ないので、たった今そのことに気づいたような風を装った。
「あぁー、もうそんな時期だったな。つーか明日か。へえ、コンビニでも色々売ってんだな」
「うん、そう、色々あるんだなって。ただ見てただけ。美味しそうだなって」
「分かる分かる、入口に近いとこにあると見ちゃうよな。うんうん」
「だから別に、ほんと、何でもないからっ!」
 そう言い終わるか終わらないかのうちに、耳郎はさっと俺の脇をすり抜けて、レジの横にある温かい飲み物コーナーへ小走りに行った。かと思うと、ちゃんと選んだのか心配になるほど素早くお茶のペットボトルを一本取り、会計を済ませた。それで俺の横を通り過ぎる時に小さく「じゃ」とだけ言って、さっさと外へ出て行ってしまった。ありがとうございましたー、という店員さんの間延びした声が聞こえる頃には、もう駐車場を突っ切りそうなところまで行っていた。
 耳郎に声を掛けてからここまで、ほんの一分くらいの出来事だった。あっという間だった。てか、あいつ足早過ぎだろ。

 呆然と立ち尽くしていたことに気づいて、俺は後頭部を掻きながら小さく息をついた。そしてもう一度、今度はまじまじと、箱入りのチョコレートが並んだ棚を見つめた。有名なチョコレートブランドや、ホテルとコラボレーションした商品が所狭しと並んでいる。
 俺が声を掛けるまで真剣に迷っていた耳郎の姿を思い出す。「何でここにいんの」と耳郎は言った。「何でわざわざこっちまで」とも。つまり耳郎も、ここで顔見知りの人に会うとは思っていなかったんだろう。耳郎はきっと誰にも会いたくなかったから、このコンビニを選んだのだ。なぜか。そんなの、考えなくたって分かる。
 耳郎は、誰にも気づかれずにバレンタインのチョコを買いたかったのだ。もし自分のためだったり、友達のためだったりしたら、あんなに挙動不審にならなくったって良いはずだ。ただそう言えば良いだけで。
 あのいつも冷静な耳郎が取り乱す様を、久しぶりに見た。たぶん一年生の時の、透形センパイの全裸を見た時以来だ。
(やっちまったな……)
 胸の中で俺はぽつりとつぶやいた。
 耳郎はきっと、好きな人にあげるためのチョコレートを買いに来たのだ。なのに俺が声を掛けたばっかりに、恥ずかしさに耐え切れずに、買わずに帰ってしまった。



「あぁー、俺は罪を犯してしまった……」
 寮に帰って夕飯を食べた後の瀬呂の部屋。ハンモックに寝転がってゆらゆら揺れながら、俺は両手で顔を覆った。
「なに、警察でも呼ぼうか?」
 漫画を読んでいる瀬呂がそう言う。そっちを見ていないから分からないけど、絶対漫画から目を離さないで言っている。心底どうでも良いと思っている返事。

 ワンチャン、耳郎はあの後どこか別のところへ買いに行ったんじゃないかと淡い希望を抱いていたけど、どうやらそれはなかったっぽい。俺が寮に帰ったらもう、耳郎は制服から私服に着替えた上で、共有スペースで談笑していたから。どこかに寄っていたらこんなに早く休めているはずがない。常闇と口田と喋っていた耳郎は、もういつも通りの耳郎だった。二十分くらい前までめちゃくちゃキョドっていた面影はどこにもなかった。俺に気づくと、おかえりと言ってくれたものの目は合わせてくんなかったけど。

 きっと今日がチョコを買う最後のタイミングだった。明日がバレンタインだから。それなのに、俺がそのチャンスを潰してしまった。
 耳郎は恋愛に全然興味がなさそうだったから正直意外だったけど、そうだよな、耳郎だって誰かを好きになることもあるだろう。三年にもなれば、だんだん他の科との交流の機会も増えてきて、耳郎も経営科や普通科に何人か友達がいるみたいだし。男子も女子も。

 耳郎、好きなやつできたんだ。良かったじゃん。
 俺は素直にそう思った。コンビニで声を掛ける前の、真剣にチョコを吟味する姿がふっと頭の中によみがえる。そうしたら、ずきんと胸に鈍い痛みが走った。これはきっと罪悪感に違いなかった。
「俺は罪人だー……」
「はいはい、じゃあ自首しましょうね」
「ダメだ。これは法では裁けない罪だから」
「まあ、法で裁ける罪犯したら普通に駄目だからな」
 耳郎ごめん、マジでごめん。
 俺は隣の女子棟にいる耳郎に向かって、精いっぱい心の中で謝った。




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