ぼくの好きなひとへ / p.2

 俺がこんなに申し訳ない気持ちになるのには理由がある。
 それは、耳郎のことが好きだからだ。だけど好きと言っても、それはいわゆる「好き」とはちょっと違う感じがする。この気持ちはどうも複雑だ。それを抱いている当の本人である俺でさえ、何だか上手く説明できない不思議な感情だからだ。

 この思いを自覚したのは、この間の夏、二年ぶりの林間合宿でだった。
 一年生の時と場所は違うけど、今回も山で合宿だった。猛暑でゆがみそうな街中と本当に同じ日本なのか疑うほど、合宿所のある辺りは涼しくて快適だった。
 二日目のその日、俺らは屋外の広場や併設の体育館を使って各々が個性強化の訓練をしていて、俺は広場の方にいた。一段落ついてふと辺りを見渡した時、耳郎がタオルと飲み物を持って川辺に降りていくのを見つけた。俺もそろそろ休憩しようと思っていたところだったから、耳郎と同じものを持って、後を追い掛けた。

「調子どうっすか」
 先に着いて川の近くに腰掛けていた耳郎の左隣に立つと、耳郎は首を反らせて俺を見上げた。そのまま靴下を脱いで、ぽいぽいっと脇に置いたスニーカーの中に入れる。
「まあまあかな。悪くはないよ」
 そしてジャージの裾をまくり、足首まで川に浸す。冷たくて気持ち良さそうだから、俺も真似することにした。
「いーじゃん、それ。俺もやろーっと」
 スニーカーの中で蒸していた足が一気に清々しくなった。生き返るうー、と唸ると、オッサンかって隣から突っ込みが飛んできた。
 空のてっぺんに昇ろうとする太陽の光が、穏やかに流れる川に反射して、白くきらきらしていた。遠くの方で、みんなの訓練している音や声が響いている。
「あんたはどう、順調?」
「うん、一年の合宿じゃウェイウェイ言ってた電圧も余裕でクリアだぜ」
「そりゃそうでしょ。相当使ってきたんだから」
 耳郎は上体を逸らせて腕を大きく広げると、そのまま上にゆっくり持っていって伸びをした。

 ギガントマキアや脱獄囚によって破壊された町の復興作業にあたるとき、俺の帯電の個性は本当に重宝された。そのために俺は色んなところに派遣されて行った。そんな中、無我夢中で毎日毎日個性を使いまくっていたら、いつの間にかキャパが何倍にも増えていった。もう頭がショートしてアホになるなんていうことは、ほとんどなくなった。
 自分で言うのも何だけど、個性は目に見えて成長したなあと思う。判断力とか戦略的思考とか、そういうのはまだまだ頼りないけど。
「耳郎も、もうだいぶ慣れた?」
 俺が自分の耳たぶを指差すと、耳郎は頷いた。
「さすがにね、もう一年以上経つし。右だけを動かすってのが当たり前になってきたかな」
 そよそよと風が吹いて、耳郎の髪が揺れる。あらわになった左耳には、個性のイヤホンジャックがぶら下がっていない。AFOとの戦いで失って、戻らなかったからだ。
 しばらくはその状態に、耳郎自身なかなか慣れないようで苦労していた。個性を使う時、もうない左耳のプラグを動かそうとして、攻撃のタイミングが遅れたりバランスを崩してしまったりしていた。それに、耳自体は残っているから聴力には問題ないんだけど、イヤホンジャックがないことで今までと聞こえ方が少し違うらしく、それで頭が痛くなったり、気分が悪くなったりすることもあったらしい。
 それでも耳郎は一度も弱音も愚痴も吐かなかったし、落ち込んでいる様子も見せなかった。病院に担ぎ込まれて手術が終わったばかりの時でさえ。周りの俺らの方がショックを受けていて、それを耳郎が屈託ない態度で励ますみたいな、あべこべの状況だった。
 三年生になって、ずいぶん個性の使い方に余裕が出てきたみたいだなと、傍から見て思っていた。右耳の個性だけでも耳郎は充分強かった。いや、そうなるように努力を重ねてきたという方が正しいんだろう。耳郎はすごく頑張っていた。

「でもさ、」
 緩やかに流れる川を見つめながら、耳郎がつぶやく。
「両耳に個性があるのがずっと当たり前で生きてきたから。急に片方なくなっちゃって、それは仕方ないことだったって分かってるし、もう生活でもヒーロー活動でも慣れたけど。でも……、やっぱ今でもちょっと寂しいよね」
 それは失くした左耳の個性について、初めて聞いた耳郎の気持ちだった。
 耳郎の表情は悲しそうではなく、どちらかというとむしろ穏やかだった。
「ま、そんなこと言うのカッコ悪いから、内緒だけど」
 照れ隠しなのか、川に浸した足を軽くばたつかせる。ぴちゃぴちゃと音を立てて、川面に小さなさざ波が生まれた。
 耳郎は強いなと、俺はずっと思っていた。個性を片方失くしても感情的にならないで、現実を受け止めて、理性的に考えて淡々と目の前のことに取り組む。それを徹底できる耳郎はすごい奴だなと思っていた。
 でも今、初めて気づいた。耳郎は最近になってようやく、自分の個性の喪失を受け入れられたのかもしれないと。耳郎の心の中を覗くことはできないから実際のところは分からないけれど、たぶんそうだと直感的に思った。だからこうして今、言葉になって耳郎の口から気持ちが出てきたのだ。きっと。
 そしてこのことに気づいてしまえば、それはそうだろうとしか思えなかった。すぐ平気になるわけがない。この一年とちょっと、色んな思いが耳郎の中にあったのだと分かった。何でもかんでも、はいそうですかと納得して、葛藤しないわけがないんだ。

 内緒のことを俺に話してくれた嬉しさと、気づいてしまった耳郎のこれまでの気持ちの揺らぎと、この二つがいっしょくたになって胸の中で混ざった。
 俺バカだなとか、耳郎はやっぱり強いなとか思った。つらいとか悲しいとか言わずに、寂しいと言うところに、耳郎の自分の個性への愛着を感じた。色んな言葉が思い浮かんでは感情の渦の中に溶けていく。
「別にカッコ悪くないだろ。それが耳郎の、素直な気持ちなんだろ」
 上手く言葉がまとまらなくて、そうとだけ言った。うん、と耳郎が聞こえるか聞こえないかくらいの声で返事する。そのまま少しお互い黙って、川とか林とかを見ていた。

 一分くらいが経って、耳郎が再び口を開いた。
「……でも、雄英に来たことは、一度も後悔してないけどね」
 落ち着いて、自分の心を確かめるような話し方だった。その横顔を見ると、耳郎ってこんなに大人っぽかったっけかなあと思った。この二年半で俺も背が伸びたし、家族からは顔つきが変わったと言われた。だから耳郎も変わっているんだろう。
「俺もそうだぜ」
 本当にそう、いつも思っているから、すんなり言えた。
 すると耳郎はこちらを向いて、勝気に笑った。
「だよね」
 すっと目元が優しく細くなる。今まで見たことがない、新しい耳郎の表情だった。
 それを見た瞬間に俺はなぜかふと、こう思った。この先耳郎が傷つかなきゃ良いのにって。
 だけど思ってすぐ、それは無理だろうともう一人の俺が心の中で言う。ヒーローをやっていれば、身体的にも精神的にも傷つくことなんてざらにあるから。
 でもなるべく、せめて耳郎の本当に大切なものだけは、なくならないで欲しいと思った。それは切実で、少し苦しくて、だけどどこか温かいような気もする、変な気持ちだった。


 その日の夜、消灯した後も俺はしばらく眠れずに、昼間に抱いたこの感情についてぼんやり思いを巡らせていた。
 傷つかないで欲しい、大切なものがなくならないで欲しいと思った気持ちは、悲しいことが起こらないで欲しいとか、毎日明るくいて欲しいという言葉でも言い換えらるような気がした。
 そんなの生きていれば無理だって分かっているし、何なら傷や悲しみが全くない人生ってどうなんだろうとも思う。そのおかげで優しくなれたり、ひとの気持ちが分かるようになった経験があるからだ。それに、そう思うこと自体、耳郎を見くびっているようにも取れるかもしれない。俺がこんなこと願わなくたって、耳郎はきっとちゃんと前を向いて歩いていけるだろう。これまでと同じように。だけどやっぱり、そんな綺麗ごとを願いたいのも間違いなく俺の本心だった。

 ぐるぐると取り留めのない思考の中で、俺は一つの結論に行き着いた。
 あ、俺は耳郎のことが好きなんだ、と。
 色んな表現で思い浮かんだ耳郎に対する思いは、「好き」の二文字でまとめても問題ないような気がした。そうか、俺、耳郎のこと好きなのか。確かめるようにもう一度心の中で唱えると、結構しっくりきた。驚きは特になくて、この山の夜のようにとても静かな気持ちだった。収まるべきところにものが収まったような、ぴったりとした感覚がした。
 でも耳郎って、俺みたいな奴はタイプじゃなさそうだよな、とも思った。俺みたいに落ち着きがなくてカッコ付かない男より、冷静で包容力があるような、つまり大人なひとが合うだろうなと。それならそれで良いや、と思った。耳郎が幸せになれるんなら何でも良いやって。

 夜中の思考はどこまでも飛んで行けるような自由さがあった。だんだんうとうとしてきながら、俺は眠りに落ちるまでずっと、こんなことを考えていた。こんなに穏やかで大らかな気持ちは生まれて初めてだった。こういう好きもあるんだなと、新しい発見だった。たった一晩にして、俺は仙人にでもなってしまったのかと思った。マジで。




| ← p.1 | NOVEL TOP | p.3 → |