ぼくの好きなひとへ / p.3

『ハッピーバレンタイン! いつもありがとー! 倍のお返し待ってます♡ 女子一同より』

 翌日、二月十四日の朝。共有スペースのテーブルの上に、そんなメッセージとともに大きな箱に入った大量の個包装のチョコレートやクッキーが置かれていた。「今年は手作りする時間がない~!」と残念がっていた芦戸や葉隠のことを思い出す。
 一月に最後の期末テストが終わってからというもの、みんな毎日のようにインターンや復興作業のボランティアに出掛けていた。授業はまだ今月いっぱいまであるけど、ほとんど自習やフリーの訓練の時間になっているから形だけみたいなもんだった。全員が揃うことは二月に入ってから一日もなくて、どこかがらんとした寮で過ごしていると、卒業が迫っているんだなとひしひしと感じる。
 お菓子はたくさんあるから、ざっと三つくらい貰ってジャージのポケットに入れた。
「うぇい、ありがと! 女子達の愛受け取ったぜ!」
 並んで朝食を食べている葉隠と耳郎にお礼を言うと、
「どーいたしまして!」
「別に愛ではない」
 といつも通りのテンションで返事が来た。後から降りてきた他の男子たちのお礼の声を聞きながら、俺も空いたテーブルについて朝ご飯を食べ始める。
 味噌汁をすすりながら、俺はちらっと向かいのテーブルにいる耳郎を盗み見た。葉隠と楽しそうに話しながら、焼き鮭を箸でほぐしている。
 どうするんだろう、耳郎。と思った。どこからどう見ても普段通りの耳郎だったけど、内心は分からない。チョコレートを買えなかったことを後悔しているかもしれない。もう今日は外出するタイミングもないだろうし。
 あんまり見てると耳郎に気づかれるだろうから、その前に目線を逸らす。
 俺だって、いつまでもただ落ち込んではいられない。うだうだ罪悪感を覚えていたって、現実は何も変わらないのだ。



 そして午前の訓練の合間、休憩中に俺はひらめいた。一度思いついてみたら、そうすりゃ良いじゃんとしか思えなかった。
 昼休みになったら急いでコスチュームから制服に着替えて食堂に行き、すぐに食べれるようにラーメンを注文して昼飯を済ませると、俺は食堂の出入り口の付近でぶらぶらしていた。時々中を覗き、葉隠と昼食をとっている耳郎の姿を確認する。そして食べ終わったであろう所を見計らって、俺は二人のいるテーブルに近づいた。
「なあなあ、ちょっと耳郎借りて良い?」
 通路側に座っていた葉隠にそう言うと、一瞬きょとんとしつつも葉隠は何も聞かず、
「どうぞどうぞ」
 と手を差し出すように元気に振った。
「ウチ、ものじゃないんだけど。何なの急に」
 ぶっきらぼうに言いながらも、耳郎は渋々立ち上がる素振りを見せてくれた。俺は耳郎の食べ終わったトレイをひょいと持ち上げ、さっさと返却口に戻すと、出口へ耳郎を促した。俺のテキパキとした行動に、耳郎が訝し気な視線を投げる。
「ねえ、どこ行くの?」
「ちょっとね」
「ちょっとって何」
「いーから、いーから」
 そう言いながら手招きすると、全く納得していない顔で耳郎がついて来る。
「本当に何?」
「着いたら分かる」
「言えないところなの?」
「言えないわけじゃねえけど、」
「じゃあ言ってよ」
 耳郎の有無を言わせない圧を感じ取って、俺は立ち止まった。少し躊躇ってから、
「購買」
 とだけ言った。耳郎がぽかんとする。
「購買? 何で? ご飯もう食べたけど」
「良いから」
 そう答えてまた歩き始め、隣の校舎に繋がる渡り廊下を進んだ。

 購買部と言っても雄英高校のそれはちゃんとしたショップという感じで、小型のコンビニくらいの品揃えがある。だから、そこにならあるかもしれないと俺は思ったのだ。
「本当に何なの? 意味分かんない。飲み物とかお菓子買うなら、勝手に一人で行けば……」
 隣から聞こえていた小言が、そこでふと止まった。同時に耳郎自身も立ち止まったらしい。数歩耳郎を置いていくようなかたちになったと気づいた俺も、遅れて足を止めた。そして後ろ歩きをして再び並ぼうとした時だった。
 耳郎が小さな声で、
「……行かない」
 と言った。それから、俺が何か言うよりも先に、くるっと回れ右をして来た道を早足で引き返した。
「あ、待って。耳郎!」
 慌てて追いかけるけど、耳郎は全然立ち止まる気配がない。肩をこわばらせたその雰囲気からして怒っていると分かったけど、正直それは想定内だった。ただそれが予想より早かっただけで。鋭い耳郎は、たぶん俺の思惑にちゃんと気づいているみたいだった。
「待てって」
「ウチ、購買に用事ないから」
「怒んなよぉ」
「別に怒ってない。何でそう感じてんのか知らないけど」
「口調が怒ってんじゃん……」
「もともとこういう喋り方ですけど?」
 涼やかな目元をきっと吊り上げて俺を一瞥する。その凄みにびびって俺が仰け反ると、その一瞬で耳郎は俺を撒こうとした。突然進行方向を変えて、そばにあった階段を駆け上がる。教室へ向かう方向とは違う道にいきなり切り替わったから、こっちが面食らっている内にあっという間に踊り場まで上りきってしまった。そのまま次の階段へ消えていきそうになったから、俺も二段飛ばしで追い掛ける。
「耳郎、ごめんって!」
「うるさい、デカい声出すな!」
 振り返らずにそう言う耳郎もまあまあデカい声だった。
 俺らが階段を上っているこの校舎は文化棟と呼ばれるところで、複数の美術室や音楽室、シアターやホール、畳の敷かれた本格的な茶室などが集まっていて、つまり昼休みはそんなに生徒が来ない場所だ。それでもまばらに人影はあって、だからこそ追いかけっこをしている俺らは普通に目立っていた。階段側の廊下で立ち話をしていた女子生徒三人が、びっくりしたみたいにこちらを見ているのが分かった。
 そのまま階段を駆け上がり続ける耳郎に、俺はひたすらついて行った。
「耳郎、ごめん! ほんと、マジで!」
「良いからついて来ないでよ!」

 四階まで一気にダッシュしたところで、ようやく耳郎は立ち止まった。あまり息は乱れていないけれど、一回だけ大きく深呼吸をした。さすがに四階に生徒はいないらしく、その呼吸音がしんとした空間に良く聞こえた。数秒遅れて耳郎に追いついた俺は、あと一段を残したところで立ち止まった。
「……なあ、耳郎」
 それだけ言って一旦口を閉じ、手すりを握りながら小さく息を整える。
「俺、昨日のこと謝りたかったんだよ」
「昨日って、何」
「コンビニで、」
「何かあったっけ?」
「じゃあ何で今、耳郎逃げたの」
 そこで耳郎は黙った。本当に何も思い当たらない様子で聞いているのではなくて、しらばっくれようと頑張っているのは口調から明らかだった。
「昨日あそこで声掛けなきゃ良かったって、マジで後悔してんだよ、俺」
 耳郎はずっと前を向いていて、振り返らなかった。ブレザーの背中を俺は見ていた。
「耳郎あの時……。あの時、さあ……。誰かにあげるためのチョコ、買おうとしてたんだろ?」
 チョコ、のところで小さく耳郎の肩が震えた気がした。
「なのに俺が話し掛けちゃったから、買わないでそのまま、」
 そこまで言ったところで耳郎が首だけ振り返る。久しぶりに目が合う。その瞳は、思っていたよりも怒りに燃えてはいなかった。たぶん怒っているには違いないけど、どちらかと言えばぶっきらぼうで、ばつが悪いといった感じだった。ゆっくりと身体もこっちに向き直り、やっと向かい合った。

「だから何、今から購買で買えば良いって? 別に上鳴にそんな世話される筋合いないんだけど。てかデリカシーとかないわけ?」
 腕を組みながら耳郎は、そう早口で一気にまくし立てるように言った。誰かにあげるためのチョコレートを探していたことについては、何も否定しなかった。ほぼ確信を持っていたものの、耳郎の態度を見て「あ、マジでそうだったんだ」と思った。
「……デリカシーがないのは、自覚してっけど」
「へえ、そう」
「でも、せっかくの高校最後のバレンタインじゃん。それを俺が台無しにしちゃったんだったら、申し訳ないって思って」
「別に、もう良いよ。よく考えたら柄でもないし。てか今のこのあんたとのやり取りで、完全にそういう気持ち消滅したから気にしないで」
「ダメだ!」
 自分でもびっくりするくらい通る声が出た。静かな怒りを込めて淡々と話していた耳郎でさえ、びくっと肩を驚かせて目を丸くした。
「ダメだよ、そんなこと言うな」
 意識して声をトーンダウンさせようとするけれど、上手くできそうになかった。なぜか今度は俺の方が、めらめらと胸の中が燃え上がってくる。
「だって高校最後だぞ? もう来年からなんて、バレンタインなんか言ってらんないかもしんないんだぞ! ……二年から行事らしい行事なんてほとんどなくて、毎日訳分かんないくらい早く過ぎていってさあ。だから今年くらい楽しめば良いじゃん!」
 言いながらどんどん感情が昂ってきて、抑えられなかった。
「お前が……、お前がチョコをあげたいって思うなんて、よっぽどじゃん! だからその気持ち、大事にしなきゃダメだ……」
 頭に血が上り過ぎて最後の方は声が震えてしまった。さっき階段をダッシュしていた時よりも胸が苦しい。

 あのAFOや死柄木との戦いの後、当然だけど学校再開までには時間が掛かった。俺たちヒーロー科の生徒たちは全国に散らばって、減ってしまったヒーローたちの手助けをするために奔走した。他の科の生徒もみんな、復興作業のボランティアに勤しんだ。
 当時に比べれば今はだいぶ社会も安定を取り戻しつつあるけれど、地域差があるし、まだまだ支援が必要なところはたくさんある。そんな状態だから、学校が再開した後も休日はほとんどインターンやボランティアに出掛けていた。授業の大幅な遅れを取り戻すために冬休みや春休みは短縮になったし、空いた時間も課題やトレーニングでいっぱいだった。
 昨年度の学校行事は卒業式以外中止だったし、今年度も体育祭はなかった。それでも例年より短い林間合宿と小規模な文化祭は開催されたから、去年の先輩に比べたらまだ恵まれている。それに忙しい毎日でもクラスのみんなと支え合って乗り切ってきたから、その日々だって大切な思い出に違いない。だけど、いわゆる高校生らしい学校行事やイベントの時間があまりなかった寂しさがあるのも本当だ。

 だから俺は、耳郎の気持ちをくじいてしまったことを心底後悔していた。その好きな人にチョコを渡して欲しかった。共有スペースなんかで恋愛の話題が上るたびにいつも、「ウチには無縁だから」なんて言っていた耳郎に芽生えたその心を大切にして欲しかった。

「もちろん渡してどうなるのかは分かんねえよ、さすがに。付き合うことになんのか、そうじゃないのか、そもそもどんなやつにやるのかも俺には分かんないけど。……でも、何もしなかったら、きっと耳郎後悔するって。気持ちは伝えられる時に伝えないと、次はないかもしんないんだから。俺、耳郎には幸せでいて欲しいんだよ」
 耳郎はすっかり素の表情に戻って、瞬きも忘れて、呆気に取られているようだった。それを見て、俺がいかにヒートアップしてしまっていたかに気づいた。しかも何だか、すごく恥ずかしいことを口走ってしまった気がする。だけど今言ったのは全部本音だからもう良い。
 いつの間にか上がった息を鎮めるように、俺はゆっくり呼吸をした。

「……上鳴、お人よし過ぎない?」
 耳郎はかたく組んでいた腕をほどいて、だらんと重力に逆らわずに垂らした。
「え、そうかあ? まあ耳郎じゃなきゃ、こんなに言わないかもだけど……」
 俺が口ごもりながら言ったそれに対して、耳郎が何かを言いかけたようだったけど、結局は何も言わなかった。唇の上下をぐっと合わせて、しばらく何か考えているように俯く。やがてふっと肩の力抜くように息を吐いた。
「……分かった」
「……え?」
 耳郎はブレザーのポケットからスマホを取り出して一瞬画面を確認すると、また仕舞った。時計を見たんだろう。
「……購買、行こ。チョコ買うから」
 そうつぶやいて、階段を降り始める。言葉を飲み込むのに数秒掛かって、状況を理解してから俺も、耳郎に少し遅れて階段を下った。
「よっしゃ、行こう行こう!」
 耳郎はもう普通のペースで歩いていたから、すぐに隣に並ぶことができた。そして景気づけにと思って耳郎の肩を二回軽く叩く。
 だけどその直後に、あっと思って素早く手を引っ込めた。もうこんなこと、気軽にしちゃいけないんだなと気づいたのだ。耳郎に彼氏ができてしまったら、こうして二人きりでいるのもあんまり良くないかもしれない。
 ちらっと耳郎の顔を見やると、どういう表情でもなく、いつものクールな調子で前を向いていた。今耳郎は、何を考えてるんだろう。チョコをあげるそいつのこと、考えてんのかな。

 そう思ったら急に、猛烈に寂しくなってきた。いきなり胸の中にスースーと風が吹き込んできて、そこにあるもの全部どこかへ持って行ってしまうような。
 その寒々しい空間にぽつんと、一つの思いが取り残されていた。耳郎、俺じゃないやつと付き合うかもしれないんだな、って。
 そんなことを思った自分にびっくりした。あんなに耳郎をけしかけておいて、何言ってんだよって。たったさっき耳郎に伝えたことは、今思い返しても嘘じゃない。ちゃんと俺の本当の気持ちだ。だけど今胸の中に横たわっている寂しさも、間違いなく俺の本心だった。
「何見てんの」
 俺の視線に気づいた耳郎が、居心地悪そうにこちらを見上げる。
「いや、何でもないっす!」
 首を振って、進行方向へ目線を戻した。

 仕方ねえな、と俺は思った。こんな気持ちになるのは仕方ない。だって俺はやっぱり、仙人でも何でもなくて、ただの十八歳の高校生でしかなかったからだ。
 だって耳郎は、俺の一番近くにいた女の子で、俺の好きな人なんだから。



 購買部に着くと耳郎から、「あんたはそこで待ってて」とドアの外を指定されたので、主人を待つお利口さんな犬よろしく、俺は入口の脇に突っ立っていた。二分くらいで耳郎は戻ってきた。手には中身の詰まった白いレジ袋を持っている。
「それっぽいチョコもう売り切れてた」
「うぇ、マジ?」
 別に残念そうでも何でもなく、ちょっと出掛けてくるねとでも言うくらいの気軽さで、耳郎はそう言った。そして手に持っていた袋を俺の胸に押し付けた。反射でそれを受け取る。
「だからそれで勘弁してよね」
「えっ?」
「それ、あげる」
 そう短く告げると耳郎はさっさと教室のある校舎に向かって歩き出した。
 ぽかんとしたまま目線を下ろすと、袋の中にはお菓子がいくつか詰まっていた。
「いや、別に俺にお菓子買わなくても、」
 耳郎の背中に向かってそこまで言って、あれ、と思って言葉を止めた。と同時に耳郎がこちらを振り返った。
「鈍すぎ、ばーか」
 今時の小学生だってもうそんなことしないんじゃねってくらい、綺麗なあっかんべーを一瞬だけ素早くすると、耳郎はまたすたすたと歩いていった。

 胸に押し付けられたお菓子は全部、俺が好きなのばかりだった。偶然かもしれないけど、よくこんなピンポイントで選べたなってくらい完璧なラインナップだった。しかもあの短時間で、バレンタイン用のチョコがないか確認してから買ったのに。
 しおれていた心に空いた穴がみるみるうちに塞がって、力がみなぎってくるのを感じた。思い切り飛び上がりたくなる衝動を抑えて、俺は耳郎に向かって走って行った。




2024.02.18



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