春しぐれ / 第1話

 入学式の頃は満開だった桜の花はいつの間にか散り、葉桜になり始めていた。アスファルトの上には丸い花びらが数えきれないくらい落ちている。ウチらはまだら模様の雄英高校前の坂道をくだっていた。

「体育祭まであと二週間か。結構すぐだね」
 隣の八百万に言うと、彼女は頷いた。
「えぇ。計画的に準備をしないといけませんわね」
「昨日の今日で体育祭の話題が出るとか、雄英って本当にすごいよね」
 ウチよりもずっと背の高い八百万の顔を見ようとすると、自然と見上げるかたちになる。彼女の背景に広がる空は薄っすらと雲に覆われていて、淡い水色をしていた。学校が突然敵に襲われる、なんていうとんでもない事件が起きても、空はのどかに知らん顔をしている。

 それはたった二日前のこと。ウチらのクラスはヒーロー基礎学の授業中に突如敵に襲われた。救助訓練でUSJという施設に集まっていた時のことで、皆状況を呑み込む間もなく敵の個性でばらばらの場所に飛ばされてしまい、何が何だか分からないまま敵と戦うことになった。
 ヒーローと敵の戦闘はテレビ中継で何度も見たことがあるけど、あれだけ大人数の敵が襲ってくるのは見たことがなかった。とんでもない初体験だった。ウチは八百万と上鳴と一緒に、山岳ゾーンへ飛ばされた。初めて対峙した敵に対して、恐怖感は不思議と抱かなかった。状況が唐突過ぎて、怖がるよりも、「何とかしなきゃ」という思いの方が前面に出たんだと思う。上鳴はかなりビビっていたけど、すぐに個性で武器を創ってくれた八百万は頼もしかった。
 この事件はその日の夜、すぐにニュースになった。翌日、つまり昨日、学校は臨時休校になった。これは紛れもない現実。戦闘中の記憶もちゃんとある。だけどあまりに鮮烈で、まだ上手く身体に馴染まない感じがある。中学の友達の何人かが心配するメッセージや電話をくれたけど、どこか現実味がないまま返事をした。

「でも、気持ちの切り替えは必要ですわ。ヒーローならいつでも、何があろうとも最高の働きをしないといけませんもの」
「そうだね」
 八百万は凛とした声で言った。本当に真面目な子だな、と思う。優等生で気が強そうな彼女と初めてまともに喋ったのは、一昨日の事件の時だった。もっと話してみたいなと思って、今日昼食に誘って一緒に食堂でご飯を食べた。約束はしていないけど、授業が終わった後もこうして並んで帰っている。
 何となく話し掛けづらいと思っていたけど、実際に話してみたら会話が途切れることはなかった。ものすごく盛り上がるわけではないけど、ひとつひとつ言葉を丁寧に返してくれる八百万のリズムは心地良く感じる。入学したてで、クラスの中はまだグループが出来上がっていない。八百万と仲良くなれたら良いなとウチは淡く思い始めている。

「当たり前だけど、体育祭って一年も中継されるんだよね?」
「例年通りであればそうですね」
「うわ、緊張する」
 ウチが肩をすくめると、八百万は目をぱちぱちさせた。
「耳郎さん、緊張なさるんですか?」
「するよ。結構、緊張しいだもん」
 ウチは本番には強い方だし、何でもいざ始まってしまえば腹を括ることができるけど、それまで待つような時間は苦手だ。周りの人からウチはそう思われていないらしいけど、これは子どもの頃から全然変わらない性格だ。雄英高校の入試の日の緊張も、昨日のことのように思い出せる。
「そんな風には見えないです。堂々としていて」
「それは八百万の方だよ」
「そうでしょうか」
「うん。一昨日もすごく頼りになったし」
「それは、ありがとうございます」
 ウチが大きく頷くと、八百万は目を細めて微笑んだ。こういう笑い方もするんだ、と新しい発見をした。
 彼女はすっと胸を張る。
「子どもの頃から見ていた舞台に立てるというのは身が引き締まりますわ。頑張りましょう」
 誠実さをたたえた漆黒の瞳が、ウチを真っ直ぐ見つめた。

 それからも主に学校のことを話していたら、あっという間に駅に着いた。二人で改札をくぐり、少し歩いたところで八百万が静かに立ち止まる。つられてウチも足を止めると、彼女は綺麗に足を揃え、こちらに頭を下げた。
「それでは耳郎さん。また明日」
 別れ際に淑やかに頭を下げて挨拶をする同年代の女子をウチは初めて見た。
「あ、うん。また明日!」
 びっくりしてちょっと返事が遅れてしまったけど、ホームに続く階段に向かおうとする八百万にウチは手を振った。彼女は少しはにかんで、胸の前で小さく手を振り返してくれた。その仕草が何だかすごく可愛らしかった。


 そのまま真っ直ぐ家に帰って自分の部屋に入ると、ブレザーを脱いでからベッドの上に仰向けになった。ネクタイをほどいて襟から抜き、シャツのボタンを上から二つ目まで外す。昨日は休みで今日は座学だけだったのに、なぜか疲れていることに横になってから気がついた。
 憧れの雄英高校に入学して、容赦なく始まった専門授業は刺激的でやる気になる。でも、新しい環境に緊張して神経を使っているのも事実だった。さらに有り得ない敵の襲撃があって、思った以上に心身ともにダメージを受けているのかもしれない。
 早く身体を起こして走りに出掛けたいのに、身体の中に溜まっていたらしい疲労が重力に従って落ちてきて、身体をベッドに貼り付けようとする。

「体育祭、か」
 天井を眺めながらぽつりと呟いてみるけど、まだ実感は湧かなかった。
 雄英高校の体育祭はただの学校行事じゃない。プロヒーローにスカウトしてもらうための大きなチャンスの場で、日本中が注目するイベントだ。ウチも中継は何度も見たことがある。幼い頃は、放送に気づいたら見るくらいの興味だったけど、小学校高学年になってヒーローへの憧れを自覚してからは、すすんで見るようになった。それでも最初は、エンターテイメントのひとつくらいにしか思っていなかったけど。
 その思いが変わったのは、去年の中継を見ていた時だ。ウチは自然と、来年の自分がテレビの向こうの会場に居る可能性について考えていた。数々の種目をこなす雄英生達を眺めながら、自分だったらどうするかを考えていた。そして見終わった時には、あの場所に立ってみたいと思っていた。
 去年の今頃はまだ、ウチは進路を迷っていた。幼い頃から大好きな音楽の道へ進むか、憧れのヒーローを目指すか。将来なりたい職業をきっぱり決めている友達はそう多くなく、自分もその中の一人だった。

 結局、雄英体育祭の中継を見てから志望校を決めるまでにはもう少し時間が掛かったけど、今思えば、気持ちは前から固まっていたような気がする。自分の本心を見つめて、選び取る勇気が出なかっただけで。
 今年は本当に出る側になった。「頑張りましょう」という澄んだ八百万の声を思い出す。
うん、頑張ろう。そう思いながら目を閉じた。





 ふと目を覚ますと、部屋の中は真っ暗だった。眠ってしまったらしい。枕元を手探りしてスマホを掴む。
「……マジ?」
 時間を確認すると、もうすぐ八時になるところだった。家に着いたのは六時前だった。部屋に入ってからすぐベッドに寝転がって、ちょっと考え事をしていたけど……その後はもう記憶がない。ということはつまり、二時間は爆睡していたことになる。スマホを伏せて寝返りを打ったら、身体にタオルケットが掛けられていることに気がついた。
 ランニングをさぼってしまった。中学三年の夏から今まで、決めたトレーニングのスケジュールを守らなかったことは一度もなかったのに。せっかく気合を入れようとした矢先にこうなってしまって、思わずため息が出た。

 制服から部屋着に着替えてリビングに行くと、父さんと母さんが夕飯を食べていた。気づいた二人がこちらを見る。
「あ、起きてきた」
「ごめん。寝てた」
「すごくよく寝ていたから起こさなかったの」
「八時過ぎたら起こそうかって、ちょうど今話してたところだよ」
「いつ寝たか全然覚えてない」
 母さんが立ち上がってキッチンへ行き、ウチもその後ろに続いた。
「私たちも今食べ始めたばかりなの。だからそんなに冷めてないと思うけど」
「うん、良いよ温め直さなくて。大丈夫」
 フライパンから皿へ肉野菜炒めを移す母さんの隣で、ウチはご飯と味噌汁をよそった。まだ頭がぼんやりしていて、テーブルに着くとあくびが出た。
 手を合わせて頂きますと言ってから、味噌汁をすする。
「枕の跡ついてるぞ」
「え。……ほんとだ」
 父さんに笑われて咄嗟に頬を触ると、確かに何本か線がついているのが分かった。ずっと同じ体勢で寝ていたんだろう。
 おかずを頬張りつつご飯を食べていたら、だんだん目が冴えてきた。空になった茶碗におかわりを盛って、自分の椅子に戻る。
「あーあ、走るのさぼっちゃった」
「明日も学校だし、そんなに根詰めなくて良いんじゃないの」
 もう食べ終わっている母さんは、漬物の入った容器をウチの近くに置いてくれた。ほとんどおかずを食べてしまっていたから、大根をひと切れ口に放り込む。
「うーん……でも、もうすぐ体育祭もあるし」
「お、体育祭か!」
「あら。一昨日のことがあったからどうなのかと思っていたけど」
 父さんと母さんの声のトーンがちょっと上がる。もともと二人はそんなにヒーローに関して興味はなかったけど、ウチが体育祭中継を積極的に見るようになってからは、一緒に楽しみにするようになった。
「プロヒーローにアピールできる大事なイベントだから、中止する訳にはいかないんだよ。ただ、警備はかなり厚くするって。例年の五倍とか言ってたかな」
 ウチの言葉に二人が頷く。
「一年生もテレビに映るの?」
「たぶん、どの学年も映ると思う」
「いつだ? 録画予約するぞ!」
 リアルタイムで見れるか分からないからな、と父さんがさっそくテレビのリモコンを握りしめた。
「絶対言わない」
「何でだ⁉ 娘の晴れ舞台を保存して何が悪い!」
「恥ずいから。マジで。ウチ映るか分かんないし」
 父さんの手からリモコンを奪い取ると、自分の近くに置く。それを見て母さんが笑っている。
「じゃあ良いじゃない。いつなのか教えてよ」
「何で母さんまでノリノリなわけ」
 本人よりも楽し気な二人をにらみながら、ウチはご飯を黙々と口に運んだ。




2020.08.09
2021.06.06 修正



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