春しぐれ / 第2話

 地面に刺したプラグが、こちらに近づいてくる一人分の足音を拾った。駆けているその音はだんだんと大きくなってくる。ウチはすぐ傍の建物の陰に身を隠した。グラウンド・βは、本物の街と見間違うほど精巧に造られていて、学校の敷地内に居るということを忘れそうになる。
 少し離れた場所で足音が止む。地面にプラグを突き刺したまま、ウチはそっと通りを覗いた。
 そこに居たのは上鳴で、ほっと胸を撫でおろす。もうしばらくここに居ようと頭を引っ込めようとした時、辺りをきょろきょろ見渡していた上鳴がどうやらウチに気が付いたらしい、「あ! 良かったー、おーい!」と手を振りながらこちらに向かって走ってきた。

「ちょ、デカい声出すな! しっ!」
 ウチが慌てて口の前に人差し指を立てるジェスチャーをしても、必死に走ってくる上鳴の耳には入っていないようだった。どうやら興奮した様子だ。
 個性で周囲の音を確認しつつ、ウチは上鳴を隣に寄せた。
「見つかったの?」
「う、うん。芦戸、に」
 上鳴はずっと走っていたのか息が荒い。膝に手を置いて俯き、呼吸を整えようとしている。
「で、どうした?」
「な、何とか巻いた」
「そう。じゃあ、バイバイ」
 軽く手を振ってここから立ち去ろうとした時、上鳴はバッと勢いよく顔を上げた。
「えっ、そんな薄情な!」
 そして眉を下げて、ものすごく情けない表情をしている。
「ばらけようって最初に皆で決めたの忘れたわけ?」
「そ、そうだけど……。やっぱ一人じゃ心細いんだよぉ!」
「男のくせにしっかりしろっつーの」
「いや男とか関係なくね⁉」
 ウチは上鳴の背中をバシッと叩いた。うごぉ、と大袈裟な声を上げながら上鳴がよろめく。
「おい、いってーな!」
「だってあんたがつべこべ言ってるから」
 上鳴は首をすくめて自分の黒いジャケットの背中に手を回し、さすった。
「だ、だってさあ。芦戸の個性やべえよ、当たったら溶けんだぜ? 俺溶けたくねえよ!」
「こないだのマジもんの敵に比べたら全然マシでしょうが。あんた電気男なんだからバリバリっと応戦すれば良いじゃん」
「いや、でもクラスメイトじゃん? しかも女の子だし。何か、気が進まないっつうか」
 へらっと笑う上鳴を見て、思わず口元が引きつった。ヒーロー科に来ておいて何言ってんだこいつ。返事をする気が失せて、ウチはその代わりにため息をついた。
 とその時、背後に人の気配を感じた。

「見~っけた」
 耳元で声がして、咄嗟に振り返る。するとそこにはニッコリ笑った芦戸が居た。ウチはもう腕を掴まれてしまっていて、彼女の手には敵役捕獲用のベルトが握られている。芦戸が近づいて来ていることにウチは全然気がつけなかった。
 やばい、と思った瞬間、唐突に視界が明るくなった。
「きゃっ、……いったぁ!」
「いっ……!」
 腕が痺れてビリビリっと痛みが走った。目の前の芦戸はウチを掴んだ手を引っ込めて、顔をしかめている。何が起こったのか理解する前に、感覚が麻痺しているウチの腕がガシッと掴まれた。
「わっ、わりぃ! 授業だから勘弁な!」
「かみなりっ、」
「芦戸ごめーん!」
 謝罪の言葉を叫びつつ、上鳴はウチを引っ張りながら全速力で走り始めた。いきなり腕を引かれたから、最初はよろめいてしまって足がもつれかけたけど、何とか体勢を整える。
「わりぃ! ちょっと驚かすだけのつもりだったんだけど! 耳郎にまで」
「それはもう良いから! 次のこと!」
 上鳴の手が離れる。電撃を受けた腕はまだ軽くピリピリしていた。もうしばらくすれば治るだろうけど、待っている時間がもどかしくて、思い切り腕を振って不快感を誤魔化した。

 後ろを振り返りつつ、芦戸が追い掛けて来ないことを確認するとウチらは交差点を曲がった。そこは大通りにつながっていた。
「オオォォォォ!」
「ぎゃあぁぁ、さっ、砂藤君、顔怖過ぎん⁉ うわぁぁ!」
「麗日!」
 向こうの方から同じチームの麗日が全速力で走って来ていた。その後ろでは、筋骨隆々のレスラー体型の砂藤がこれまた全速力で追い掛けて来ている。
「か、上鳴君! 耳郎ちゃん!」
 ウチらを見つけて麗日の表情が一瞬緩んだけど、後ろに迫る砂藤の圧力ですぐにまた必死の形相に戻った。普段の麗かな様子とはほど遠い表情をしている。
三対一。数では有利だけど、どうすべきか。スルスルと耳たぶのコードを伸ばして前傾姿勢を取った時、ウチらの背後からも足音がした。
「やったぁ! 砂藤、挟み撃ち!」
 追いついてきた芦戸が手を真っ直ぐ伸ばしてウチらの方に向ける。彼女の指先から、酸性の液が勢いよく発射された。
「どわぁ⁉」
 ウチと上鳴はそれぞれ横に飛んで避けた。ブーツに少しだけ酸が掛かって、その部分がちょっと溶けた。芦戸はこちらに近づきながら攻撃を止めない。そしてウチらがまごまごしている間に麗日と砂藤も近づいて来る。
「やべぇ、どうするよ⁉ 三人まとめて捕まっちまう!」
「うるさいっ、騒ぐな!」
 とは言いつつ、ウチも頭の中には何も思い浮かんでいなかった。とりあえずプラグをブーツに接続しようとした時、急に身体がふっと軽くなった。
「上鳴君! お願い!」
 麗日がもう傍に来ていて、ウチの背中にしがみついていた。砂藤もあと数歩で追いついてしまう。
「で、でも、全員巻き込んじまうから……」
「大丈夫避けるから!」
 麗日はそう言いながらウチの手を取った。かと思うと、身体がふわっと浮いた。
「うわっ」
 ばたつく足が空を切る。初めての感覚に戸惑っている間に、麗日に誘導されるがまま上昇して地上がどんどん遠ざかる。一人残された上鳴を見れば、ビリ、ビリ、と音を立てて身体に電気をまとい始めていた。
 あと少しでビルの屋上に辿り着きそうな時、足元がかっと光った。上鳴の身体からは誰も近づけないほどの電気が溢れていた。それはとても明るく、直視できないほど眩しくて、ウチは目を逸らした。



 制限時間が終わったブザーが演習場に響き渡り、皆動きを止めた。次のチームの訓練が始まるから、各々演習場の出入り口に向かう。ウチは同じチームだった麗日、尾白、切島と並んで歩いていた。
「皆お疲れ様~」
「やっぱりばらけない方が良かったかな」
「相手によっては一人はきついかも」
「疲れてくると、個性の発動鈍くなっちまうしな」
 講評は授業の終わりにまとめて行われるから先生のコメントはまだ聞けていないけど、最後の方はかなりしっちゃかめっちゃかになってしまったから褒められた内容ではないだろう。終わってほっとした一方で、不完全燃焼な気持ちもある。
「あの時、上鳴君居て助かった」
 麗日がヘルメットを外し、汗で額に張り付いた前髪を手で払いながら穏やかな調子で言った。ウチと屋上に避難した時は個性の使い過ぎで青い顔をしていたけど、血色が少し戻って来ている。
「環境さえ整えば無敵だもんな」
 切島が元気に腕を振る。その時ふと隣に居た尾白と目が合った。たぶん同じことを思ったんだろう、ウチはぽつりと呟く。
「……まああと、あれさえなければ」
 二人からの誉め言葉は、たぶん本人には届いていない。四人で後ろを振り返った。
「ウェ、ウェイ、ウェイ、ウェ~イ……」
 そこには、放電のし過ぎでアホになり、両手の親指を立てながらその辺をさまよっている上鳴が居た。あの後も上鳴は個性を何度か使い、最終的にこの姿になってしまった。

 どうやらこいつの個性には、放電のキャパシティを超えると頭がショートしてアホになるという副作用があるようだ。普段は整っていると言える顔立ちをしているけど、なぜか限界を超えると輪郭がまるで変わって、顔つきもギャグっぽくなってしまう。
 この状態を初めて見たのは先日の敵との戦闘時。あの時は気を張っていたからあまり気にしていなかったけど、改めて見てみると笑いがじわじわ込み上げてくる。
 ふざけてやっている訳ではないんだから笑ってはいけないと思いつつ、とぼけた顔でウェイウェイ言っている上鳴の姿はかなりシュールだ。
「おーい、早くしっかりしろよー」
 切島が声を掛けると、少しは回復してきたのか上鳴はその言葉に反応して振り返った。親指を立てたままの右手を高らかに上げる。
「ウェ~イ」
 間の抜けたのん気な返事に、皆の表情が緩んだ。演習後で張りつめていた緊張がほどける。ウチも笑いかけて、でも上鳴で和むのが何だか癪で、咳払いをして誤魔化した。
「もう、しょうがねえなあ」
 切島は笑いながら来た道を戻り、どこかへ行ってしまいそうな上鳴の腕をとって、こちらへ引っ張ってきた。

 次のチームの様子をモニターで見つつ、ウチらは先ほどの反省会をした。ようやく元に戻った上鳴は、麗日にお礼を言われてめちゃくちゃ浮かれていた。鼻の下が伸びている。
 こいつは極度のビビリで、すぐに逃げたがって、簡単に無理とか言う。狙って放電できないという弱みを自覚しているくせに、それをカバーするようなアイテムを申請していない。ちゃんと要望を書いて提出すれば、コスチューム会社がちゃんと作ってくれるのに。
 そういう考えが足りないところがあるのに、活躍できてしまう。そんな細々としたことに配慮をしなくたって、周りを圧倒することができる。個性が強いから。
 ムカつく。ウチの心の中には、そんな言葉がぽっと浮かんだ。

 だいたい、こいつがふやけているのは演習授業の中だけではない。ウチと上鳴は教室で隣の席同士だけど、授業を受けている時に、上鳴は寝ていたのかぼーっとしていたのか、
「今何ページ?」
 とこっそり聞いてくることがよくある。まだ入学してからたった数週間しか経っていないのに。
 放課後になればよそのクラスの女子に、
「ねえ、俺と飯行かね? お茶でも良いし!」
 なんて軽口を叩いてナンパみたいなことをしている。振られているところしか見たことないけど。
 休み時間に峰田と教室の隅で漫画雑誌のグラビアページを開いて、それを下から覗き込むようにしながら、
「やべえ、この角度からなら見えそうな気がする」
 とか馬鹿みたいなことを大真面目にしているのは日常だ。
 とにかく上鳴は、チャラい、軽い、ビビリ、度胸がない。どうしてヒーローを目指しているのか、全然分からない。本人にも言ったけど、プロヒーローになれても万年サイドキックで終わりそうなやつって感じ。だけどどうして雄英高校のヒーロー科に入れたのかは分かる。生まれながらの勝ち組、電気系の個性を持っているからだ。個性は強い。強いくせに、へらへらしていてムカつく。強いから、だろうか。

 そこまで思った時、ふいに肩が揺れた。
「耳郎ちゃん?」
 呼ばれてはっとすると、隣に座った麗日が顔を覗き込んでいた。全然皆の話を聞いていなかったことに気がつく。どれくらい自分の内にこもっていたんだろう。
「大丈夫? ぼーっとしとるみたいだけど」
「大丈夫、大丈夫。ごめん」
 手を振って笑って見せると、麗日はほっとした顔をした。
「演習の後って何かこう、気張ってた反動か、どっとくるものがあるよね」
「え、何。まさか耳郎、目ぇ開けて寝てたとか?」
 軽薄な調子の声が飛んでくる。それが耳に入ったと同時にウチは低く、
「違う」
 と呟いていた。自分で驚くくらい、無愛想な声だった。
「うぇ、こわっ。キビシーの!」
 上鳴がすぐにそう返して、何となく笑いが生まれた。そしてまた、反省会の続きが始まった。





 高台へ続く坂道を上りきって、ウチは大きく息を吸った。走るのを止めて歩調を緩める。
 いつも演習授業があった日のランニングは、本当はこれとは違う平坦なコースを走ることにしている。高台への道は家から距離がある上に坂道があって、軽く流したい時には向かないからだ。
 家を出発した時はいつものコースに行こうと思っていたのに、ちょうど別れ道になるところに差し掛かったら、ウチの足は自然と反対の方に向いていた。

 コンクリートの階段を上り、広場に出る。真っ直ぐ進んで木の柵に行き当たると、そこに腕を置いて凭れた。
 ここからは、自分の住んでいる町を見下ろすことができる。絶景というわけではない、ただの町並みだけど、ウチはこの景色を眺めるのが好きだった。中学三年の夏にランニングを始めてから、つまり雄英高校を受験しようと決めてから、見つけた場所だ。悩んでいる時やもやもやしている時によく訪れていたからか、ここに立つと色んな気持ちが思い出される。ちゃんと雄英高校に合格するよ、と当時の自分に言ってあげたい。

 中学生のウチは、三年生に上がっても志望校を決めかねていた。音楽とヒーロー、自分にとっては比べられないくらい大切な二つの夢を持っていたからだ。
 学校の友達のように、将来のことは高校に行ってからゆっくり考える、ということはできなかった。ヒーローを目指す場合は、高校のヒーロー科に入学して学び、卒業と同時にプロヒーローになるのが定石だからだ。大学から初めて学ぶという例は聞いたことがない。身体を使う職業だから若いうちに訓練を積むべきなのだろう。だから目指すにしても諦めるにしても、中学時代に決めなくてはいけなかった。
 悩みに悩み抜いて、ウチはヒーローになることを選んだ。決断するには少し時期が遅かったように思う。どっちつかずの心のまま、とりあえず普通科目の勉強はそれなりにしていたし、一応自分の個性でできることを考えてもいたけれど、いざ受験勉強を始めたら焦りが生まれて「もっと早く決断すれば良かった」と思うこともあった。

 だけど中学三年の春を思い出してみても、当時の自分には迷う以外の選択肢がなかった。あの出口が見えないような日々は全部、ウチにとって必要だったのだと思う。だから間違っても、何か上手くいかなかった時の理由を、準備不足のせいにはしないと決めた。その気持ちは今も変わらない。
 それでもやっぱり、不安はいつでもつきまとう。無事に受験が終わってもそれは解消しなかった。ヒーロー基礎学の授業を受けていると、皆それぞれ考え方や見ているところが違って驚く。ウチからすれば全然思いつきもしなかったことにすぐ気づく鋭い人もいる。そうとう個性を使いこなしている人もいるし、そもそも強い個性持ちだらけだ。
 専門的に学び始めるのは高校から。だから、クラス全員同じスタートラインに立っている――と思っていた。だけどそんなことはないのだと、入学初日にさっそく思い知らされた。

 今日も演習授業で悔しい思いをした。よりによって、自分の個性が活きる場面で集中力を欠いて、近づく芦戸の足音に気がつけなかった。一緒になって騒いでいた上鳴は結局、チームメイトの役に立てているのが悔しかった。今思い出しても腹が立つ。こつこつ地道にやってできることより、恵まれた素質がぱっと一回何かすることの方が大きいような、そんな気がした。でもそれを認めてしまいそうな自分も嫌で、なおさらムカつく。
 思い切りうなだれると、頭に血が上る感覚がした。力いっぱい叫んでしまいたい衝動に駆られる。辺りを見渡してみれば誰も居ないけど、やっぱり恥ずかしいから止めた。柵に手を置いたまま後ろに仰け反ると、頭上の空はだんだんと暮れ始めていた。

 もちろん心が折れているわけではない。母さんから遺伝のイヤホンジャックの個性に派手さはないけど、間違いなくヒーロー活動に活きると確信しているし、この個性はウチのプライドでもある。
 背が低くて小柄だからといって体力がないと言いたくないし、誰にも負けたくないし、授業で置いて行かれるのは嫌だ。絶対にヒーローになるという夢だけは揺るがないし、夢で終わらせるつもりもない。まだできないことだらけだけど、ヒーローになれると思っている。そういう風にウチは、誰よりも自分のことを信じている。
 でもそれは、根拠のない自信だ。自信と言うより、思い込みや夢を見る力の強さのような気がしている。だからそれが本物の自信になるように、頑張る。

 薄暗くなり始めた夕方の町に、ぽつりぽつりと明かりが灯り始めていた。いつもこの景色を見ると心が落ち着く。良いことがあった日も、悪いことがあった日も、ひとしく終わっていくのだと思える。
 しばらく町を眺めてから深呼吸をして、ウチはまた走り始めた。




2020.08.09
2021.06.06 修正



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