春しぐれ / 第3話

 やっぱり今日にして良かった。
 レジで袋に入れてもらった雑誌を受け取った瞬間、ウチは心からそう思った。
 中学時代から大好きなロックバンドがあって、そのボーカルのロングインタビューが掲載される雑誌の発売日が今日だった。一ヶ月前にバンドの公式SNSでこの情報を見てからずっと楽しみにしていた。ただ本当は、買いに行くのは明日にしようと思っていたんだけど。
 今日は金曜日だけど、雄英高校は土曜日も授業がある。おまけに宿題は毎日あるし、金曜日に買ってもすぐに読めないかもしれないから、一週間を頑張ったご褒美に買おうと思っていたのだ。
 だけど結局、我慢ができなかった。家の近くにある本屋では売っていないから、わざわざ途中の駅で降りて大きめの本屋まで来た。外は雨が降っているけど心の中は綺麗に晴れていたから寄り道は全然苦にならなかったし、実際に雑誌を手に取った時の期待感と充実感と言ったらなかった。帰ったらさっさと宿題を済ませてしまおうと決意する。

 雨音が強くなっている気がして、窓の外を見た。晴れの日よりも早く暗くなり始めた景色は、雨で褪めた色をしている。学校を出た頃は薄っすら晴れていたから、「天気予報外れたね」とヤオモモこと八百万と話していたのに、電車に乗ったらぱらぱらと降り始めた。
 入口の傍にある文房具コーナーをうろうろしながら雨脚が弱まるのを待ったけど、無理そうだ。ウチは手に持っていた雑誌を大切にリュックに仕舞い、本屋を出た。
 建物の前で雨宿りをしている人、急いで走り去る人、レインコートを着ずに肩をすくめながら自転車を漕いでいる人、そんな人達をちらほら見掛ける。ウチも天気予報を見ずに家を出ていたら傘を持たなかっただろう。アスファルトに落ちた雨が足元で跳ねて、ローファーを濡らす。

 五分ほど歩いた時、ウチはふと足を止めた。車道を挟んだ反対側の歩道に、見たことがある後ろ姿を見つけたからだ。
 ツンツン跳ねた派手な金髪で、雄英高校の制服を着て、黄色いスクールバッグを肩に掛けている、教室でウチの隣の席のやつ。
 上鳴はビニール傘を差していて、ビルの前で雨宿りをしている子どもの前に立っていた。小学校中学年くらいの女の子と、彼女の服を掴んでいる幼稚園児くらいの男の子がいる。たぶん二人は姉弟なんだろう。男の子の方はちょっと泣いているような感じだった。
 上鳴はその二人と視線を合わせようと、身体を屈めている。そして自分の持っている傘を差し出し、何かを喋っているようだ。女の子はびっくりした様子で手を振っていたけど、何度か言葉を交わすと、おずおずと上鳴の手から傘を受け取った。そして頭をぺこっと下げて、弟の手を握って歩き出す。上鳴が手を振ると、ぐずっていた男の子が小さい手を振り返していた。

 二人の背中をしばらく見送ると、今度は上鳴がビルの庇の下に立ち、雨空を見上げた。ちょっと何かを考えている素振りをしている。かと思ったら、次の瞬間にはスクールバッグを頭にかざし、勢いよく駆け出してしまった。
 上鳴が走っていく方向は駅へ向かう道とは反対で、つまりウチの進行方向とは逆なんだけど、気がついたらなぜかウチも回れ右をしていて、走り出していた。
 近くにあった横断歩道を渡り、反対側の歩道へ行く。傘がぶつかると危ないから、人とすれ違う時は歩いて、誰も居ないところでは走った。あまり人通りは多くないけど、何度も足を緩めているから速く進めないし、上鳴とは歩幅も違うからかどんどん距離が離れていく。気が焦るのを感じながら、

(追い掛けてどうするんだろう)

 とウチは今さら考えていた。
 上鳴が住宅街の方へ曲がる。ウチも少し遅れて同じ場所で左折する。もしかしたらこのわずかな時間差で上鳴はもう違う路地に入ってしまって、ここで見失うかもしれない。そう思ったけど、意外にも上鳴は数メートル離れた場所で立ち止まっていた。予想外の場面に思わず足を止める。
 視線を上げると、理由が分かった。歩行者信号が赤いのだ。上鳴はその場で足踏みをして、左右を何度もきょろきょろと確認しておろおろしている。周りには誰も居ないし、車が通る気配もなかった。でも赤信号。
 上鳴は一歩足を踏み出したけど、やっぱりすぐ引っ込めた。そして肩を落とし、その場にしゃがみ込んでしまった。

 そうしている間にウチはもう一度走り始めて、簡単に追いついた。うなだれた上鳴の頭上に傘を差し出す。ライトグレーのブレザーはすっかり濡れて、黒っぽい色に変わってしまっている。いつも毛先が跳ねるようにセットされている髪は、スクールバッグに守られていない後頭部の辺りが雨を受け、毛束の先から雫が滴り落ちていた。
 バタバタと音を立てて大粒の雨が傘をたたく。
 上鳴は振り返った。ウチの顔を見て、びっくりしている。口は半開きだし。真っ直ぐ見上げてくる瞳は、明るい髪色と同じ鮮やかな黄色だ。いつも隣の席で授業を受けているのに、ウチはそのことに初めて気がついた。
「……風邪、引くよ」
 呆然としている上鳴に、ウチから声を掛けた。信号が青に変わる。我に返った上鳴は、眉を下げて笑いながら、
「傘忘れちゃって」
 と言った。





「良かった~。耳郎が通りかかってくれて」
 バッグから取り出したタオルで髪や顔を拭きながら、上鳴はのん気な調子で言った。
「でももう、あんま意味ないかも」
 傘を二人の間で少し上げて持ちながら、上鳴を上から下まで見る。スラックスもずぶ濡れだった。
「いや、アパートまでもうちょい距離あるからさ。心折れそうだった」
「そう」
 こんな風に身長差がある人と、しかも男子と同じ傘に入る経験はなかったから、傘の上げ方や角度がよく分からない。上鳴がちゃんと中に収まっているか見ようとしたら、それに気づいた上鳴に傘を取られた。自分の傘だから当たり前に自分で持つものだと思っていたのに、手を差し出してくる仕草があまりに自然で、あっさり渡してしまった。
「あ、てか耳郎ん家こっちなの? 帰り道合ってる?」
「こっちじゃないっていうか、そもそもまだ電車乗った先だし」
 ウチは自分の家の最寄り駅を言った。でも上鳴はピンと来ていないようだったから、ここからどっち方面に何駅あるかを伝えた。
「えっ、じゃあ何でここに居んの?」
「ちょっとそこの本屋に寄り道してて」
 そう言いながら、本屋のある方を軽く指さす。
「あ、あの本屋良いよな! でかくて。俺も行ったことある!」
「うん」
 上鳴を見つけた時のことを思い出す。両手が空いてしまったウチは、何となく耳たぶのコードを指でいじった。
「……そしたら何か、雨降ってんのに傘も差さずに走ってるやつが見えたから」
 傘を持っていない方の手で、上鳴は濡れたタオルをぷらぷら振っていた。けどウチの言葉を聞くとその手を止めて、まじまじとこっちを見た。
「えっ、それで来てくれたん⁉」
「……うん」
「わ、マジかよ!」
「うん、マジ」
「えぇ、すげえ! ありがとな!」
 傘を差し出した時は本当に困ったような顔をしていて、雨に濡れたままなのは今も変わらないのに、それはもう忘れたみたいに上鳴は明るく笑う。ぱっと花が咲いたような、そんな笑い方だった。
「すげえ偶然だな~。こんなことあるんだ」
 楽しそうに傘がくるっと軽快に一回転する。
 笑っている横顔を見ながら、ウチは何とも言えない気持ちになっていた。だって本当は知っている。上鳴が最初から傘を持っていなかったわけじゃないこと。なのに上鳴が当たり前のように言わないから、つられてウチも見ていなかったことにしてしまった。


 それからウチらは、お互いのことを少しずつ話した。入学した最初の週に簡単な自己紹介はしていたけど、上鳴と個人的な話をしたのはそれっきりだった。
 上鳴はこの春の進学のために埼玉から出て来て、アパートを借りて一人暮らしをしていることを教えてくれた。
「埼玉から来ると、この辺つまんなくない?」
 この地域は中心街から離れていて、高校生が気軽に遊ぶような場所がない。昔は駅前にゲームセンターがあった気がするけど、いつの間にか閉店していた。ものすごく田舎というわけではないけど、都会でもない。ウチから見れば普通の町だけど、関東から来た人からすると地味なのかなと思う。
「全然。俺の実家の辺りもこんな感じだぜ」
「ふーん。そうなんだ」
 東京に近いところは都会ってイメージだったけど、そうでもないのか。上鳴を見て勝手に、垢抜けた街で育った人なんだと思っていた。うちの中学校の男子には、気軽に女子をデートに誘うやつなんていなかったし、誰にでもにこにこ人懐っこく振舞うやつもいなかった。こんなに開放的な雰囲気の男子に出会ったのは初めてだった。
「それより俺、こっちに誰も知り合い居なかったからさ。入学式の何日も前から超緊張してたんだけど。何か面白いクラスで良かった」
 相槌をうちながら、上鳴でも人付き合いで緊張なんてするんだ、と意外に思った。
「ウチも同じ中学から誰も来なかったよ。だから、皆の出身がほとんどバラバラで良かったって思った」
「わかる。つーか本当色んなところから来てるもんなあ。誰か忘れたけど、確か九州とか東北もいるよな?」
「いるいる」
「俺でも一大決心のつもりだったけど、そういうやつら見たらそうでもないなって思ったわ」
「ウチからすれば県外から来るのは皆すごいと思うけど」
 ウチは家から通える距離に雄英高校があったから、ヒーローを目指した時点で志望校はもう決まっていた。国内最高峰のヒーロー科を有する高校が自分の県にあって、受験しない理由はない。
「いえーい、褒められた」
「別にあんたのことだけじゃないし」
「いやでも褒めたじゃん⁉」
「さあ」
「何で認めねーんだよっ」
 上鳴は唇をとがらせていじけた振りをしている。ウチはそれについて何も言わなかった。こいつの前では何となく、素直になりたくない。
 もし県外に、家から通えない距離に雄英高校あったら、ウチはどうしていたんだろう。それは今まで全く考えていなかったことだった。もしそうだとしたら、二つの夢の間で迷うだけではなくて、家を出る気はあるのかとか、親の負担になるとか、ちゃんとやっていけるのかとか、そういう悩みまでプラスされていたことになる。想像するだけで途方もない。

 すぐに上鳴は表情を戻した。
「でもさすが雄英だよな。皆すげえ強いし。マジでタメかよ」
 そして他人事みたいにそんなことを言う。何を言ってんだと思った。自分だってその雄英高校のヒーロー科に受かった一人なのに。
「あんただって、強いじゃん」
 ウチはぽろっと、何かを考える間もなくそう言っていた。言ってから、また調子に乗った返事が来ると思ってちょっと身構えた。でも、違った。
「俺? いやいや授業で一緒に組んで分かってんだろ?」
 声色で分かるけど謙遜ではなくて、至って普通の調子で上鳴はそう言って、首を横に振る。
「……だから、言ってんだけど」
 不意をつかれて、もう一つ素直なことを言ってしまった。言ったそばからそわそわして、居心地が悪い。だけど上鳴はウチのそんな様子には気がついていないみたいで、落ち着いた声で続けた。
「まだ全然上手く調整できねえもん」
 調整、と言われれば、思い浮かぶのはあの姿だった。
「……すぐウェイってなるもんね」
「うっ……! こんな短期間で何回もなるつもりはなかったんだよなぁ」
「今まではあんまりなったことないんだ?」
「子どもの時はよくなってたけど、最近はあんまりっつーか、そもそも日常で個性限界まで使うってことないじゃん?」
「まあ、そうだよね」
 公共の場で個性の使い方は制限されているし、中学校までの間で授業中に個性を使うことも基本的にない。一応、各々自分の個性の使い方を考える「個性教育」という授業があったけど、先生は個性研究の専門家でも何でもないから、全力で使ったり鍛えたりなんかはしない。
「だからまだ、やってみないと限界が分かんないって言うか」
 上鳴が思う存分放電するためには、ちゃんと環境を整えていないと危ない。巻き込んでしまう、というのがこいつの演習時の口癖だ。
「じゃあ逆にリミッターがあって良いんだ。ないと身体に悪そう」
「んー、昔医者にもそんなこと言われたけど。でも、よりによって何であーなるんだよって」
「まあ、それは何か。何て言うか……」
「いーよいーよ、無理してフォローしなくて……って、おい! 笑ってんじゃねえか!」

 ウチが手の甲で口を押さえて笑いを堪えているのがバレて、上鳴に思い切りツッコまれてしまった。
 実はさっき、「すぐウェイってなるもんね」って言ってから、ショートした上鳴がずっと頭の中に居たのだ。気が散るから片隅にやろうと思えば思うほどイメージが鮮明になって、なぜか一人だったのが二人三人……と増えていって、もうどうしようもなかった。結局ちょっと吹き出してしまった。
「いや、笑って、ないっ」
「いやいや、そんなストレートに嘘つく⁉ 俺今も目の前で見てんだけど⁉」
「ごめっ、何か、せっかく強いのに、だって」
 咳払いをして、笑いを鎮めるように努める。
「んだよー、真面目なこと言ってくれたと思ったら」
「それは、本当。本当に思ってる。ただツボっただけっていうか」
 大きく息を吸って、吐いて、ようやく少し落ち着いた。すると周りを気にする余裕が戻ってきたのか、上鳴からの視線を強く感じて、ウチは顔を上げた。何かを観察するような眼差しが自分に注がれていた。妙な気分になって、何かと聞こうとしたけど、その前に上鳴が口を開いた。
「……耳郎って、笑うんだな」
「え?」
「お前、あんま笑わないじゃん」
「いや、笑うけど……」
「でも何かいっつも、ブスーってしてんじゃん」
「してない」
「えぇ、そうかあ? こんな感じだぞ、いつも」
 と言って上鳴は突然、ぎゅっと眉を寄せた。あまりに雑過ぎてウチの顔真似に全然見えなかったから、言い返す気にはならなかった。
 でも確かに指摘された通り、上鳴の前で笑うことは今までなかったかもしれない。
 上鳴は似合わない険しい顔を止めると、ははっと笑った。悪戯っぽいその笑顔を見て、あぁ、今ウチが笑った仕返しをこいつなりにしてきたんだ、と分かった。



 二人で歩き始めてから十分ほどが経った頃、上鳴の住むアパートに着いた。二階建てで四角い形の簡素な外観のアパート。壁面には同じ形の窓とベランダがずらっと五つずつ二列に並んでいる。
 上鳴の部屋は二階だという。屋根のある外階段の前まで一緒に歩いて行くと、上鳴は親指を立てて上の方を指した。
「茶でも飲んでく?」
 そんな全身濡れた格好で何を言ってんだか。こういう社交辞令と言うか気の遣い方をするところが、同年代の男子には珍しいんだよなと改めて思う。
「いい。それより早く帰って着替えなよ」
「おう。そうする。ありがとな」
 そして上鳴から傘を受け取る。雨脚はいつの間にか弱まっていた。たたきつけるような音はもうしない。

 どう考えても今が別れるタイミングのはずなのに、そこで沈黙が生まれた。上鳴はなかなか階段を上ろうとしない。ウチから視線を外して斜め下辺りに視線をやりながら、何か考えているような表情をしていた。
「何、どしたの」
「あ、いや、その」
 じっと見つめていると、上鳴は濡れた頭に手をやり、湿った髪をいじった。
「……実は俺、もしかしたら耳郎から嫌われてんじゃねえかなーとか、思ってて」
「え?」
「だから、何か、良かった」
 ようやく目線を上げてウチの顔を見てきたけど、すぐにまた伏せて顔を逸らす。何を言われたのかが一瞬分からなくて、上鳴の言葉をもう一度頭の中でリピートさせる。どことなく安心しているような横顔と再生した上鳴の言葉が重なった瞬間、ちくりと胸が痛んだ。

 上鳴は感じ取っていたんだ、ウチの態度からにじみ出る苛立ちを。
「……そんなこと、ないよ」
 正直、上鳴は何も気にしていないと思っていた。というか、ウチはそういう可能性すら想像していなかった。
「ははっ、わりぃ変なこと言った」
 ウチはそれに上手く返事ができなくて、ただ首を横に振った。気に掛かっていたことはこれだけのようで、さっきまでもたもたしていた上鳴は、あっさり階段の一段目に片足を乗せた。
「じゃ、また明日!」
「うん。また明日」
 濡れたスニーカーが階段を上る音がする。一番上まで上りきったところで上鳴は振り返り、ウチに手を振った。それを見て、自分がただぼーっと突っ立っていたことに気がついた。軽く手を上げて応えてから、ウチは来た道を引き返した。雨に濡れたローファーがとても重たく感じられた。

 どんなことがあっても言い訳をしないと決めたのは自分なのに……。ウチはのろのろと歩きながらそんなことを考えていた。上鳴に対して湧き起こっていた苛立ちの正体が分かった気がして、認めたくなかったけど、でももう直視するしかなかった。
 たぶんウチはきっと、不安だったのだ。ちゃんと授業についていけるだろうかとか、この個性で皆と張り合えるんだろうかとか、体育祭で結果を残せるんだろうかとか、色々。
 今まで、目に見えることだけを材料に判断して、勝手に比べて、腹を立てていた。思い通りに行かなくて弱気になりそうな心を、ムカつくって言葉で隠していた。
 そんなの、上鳴には何も関係がないことなのに。




2020.08.14
2021.06.06 修正



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