春しぐれ / 第4話

 昨日のことがあったから、今朝はとりあえず自分から上鳴に挨拶をしようと思っていた。だけどそれはできなかった。始業のチャイムが鳴っても、ウチの右隣は空席のままだったからだ。

 上鳴は風邪で欠席だと、ショートホームルームの時間に相澤先生が言った。まだ入学間もないし、クラスの中の欠席者は初めてだったから、ちょっと教室の中がざわついた。相澤先生が出席簿を教卓に二回打ちつけて、すっと静かになる。
 昨日のびしょ濡れだった上鳴の姿が頭の中に浮かぶ。もしかしたら、ウチが傘を差し出さない方が良かったのかもしれない。あのままだったら浴びる雨の量は増えただろうけど、もうすでに結構濡れていたし、それなら歩いて帰らずに走った方が早く家に着いたと思う。しかも喋りながら結構のんびり歩いてしまった。
 ウチの斜め後ろの席の切島が、「帰りに様子見に行こうかな」と呟いていた。その声を拾った相澤先生が抑揚なく、「何かあれば俺が対処するからお前らは気にしなくて良い」と有無を言わせない調子で言った。
 もうすぐ体育祭がある。他人の心配をする前に、自分のコンディションを整えることを優先しろ、とのこと。切島はそれに対して、明らかにしょんぼりした感じで返事をしていた。


 土曜日は六限までだから、平日よりも一時間早く帰れる。座学しかなかった今日は、穏やかな空気のまま一日が過ぎていった。いつも通り休み時間は賑やかな教室だったけど、隣に一人居ないだけで、何だか普段とは違う席に座っているみたいで変な気分だった。
 明日は週に一日しかない休みの日。一週間を無事に乗り切った安堵感もあってか、放課後の雰囲気は平日よりも浮き浮きしている。そんな中、授業が終わったらいつも周りと駄弁っている切島が、そそくさと荷物をまとめてさっさと教室から出て行くのをウチは見つけた。
(珍しい……)
 と思ったところでピンときた。ウチも急いで教科書やペンケースをリュックに仕舞う。そして帰り支度が終わると教室の後方へ行き、まだ授業のノートを熱心にまとめていたヤオモモに声を掛けた。
「ごめん、ヤオモモ! 今日はもう帰るね、また来週!」
「あ、はい。よい週末を!」
 いきなり声を掛けたから跳ねるようにヤオモモが顔を上げる。二人で手を振り合って、教室のドア付近にいるクラスメイトとも帰りの挨拶を交わして、ウチは教室を飛び出た。

 階段を駆け下りて、はやる気持ちを抑えながら速足で廊下を歩く。土曜日に午後も授業をしているのはヒーロー科しかいないから、廊下に人はまばらで、走っていたら先生にすぐバレて怒られてしまう。最短距離で下駄箱に着いたけど、そこに切島の姿はなかった。内履きからスニーカーに履き替えて、今度は走った。校門を出て坂道を下り始めたらようやく、前を歩く切島の真っ赤な髪が見えた。
 追いつこうと思って、でもやっぱり足を止めた。声を掛けてウチは何を聞くつもりなんだろう。上鳴のお見舞いに行くの、って?
 よくよく考えなくても、「切島が上鳴に会いに行こうとしている」というのはウチの思い込みに過ぎない。もしそうじゃなかったら、何か気まずい。でも自分の直感は結構信じているところがあるし……。

 考え事をしながら歩き始めたら、足元への注意が疎かになっていたみたいだ。わずかな段差に気がつかなくて、つま先が引っかかってしまった。
「うわっ……! っと」
 思い切り身体が前につんのめったけど、何とか転ばずに持ち直した。うっかり声が出てしまったのは恥ずかしいけど、顔からアスファルトにダイブしてコケるよりはマシだろう。
 ほっとして顔を上げると、切島がこちらを見ていた。もしかしたら声が聞こえていたのかもしれない。目が合うとかなりデカい声で、「大丈夫かー!」と聞かれた。やっぱり見られていたんだ。それはめちゃくちゃ格好悪いけど、それで迷いが吹っ切れて、ウチはまた走り出した。
 いきなりそんなことをしたもんだから、切島はびっくりしているようだった。ウチはすぐに追いついた。
「ねえ、もしかして……」
 実際に口を開いたらまた、「違ったらどうしよう」と迷いが生まれた。だけど切り出したんだからもう進むしかない。
「上鳴のお見舞い、行くの?」
 はっきりそう聞くと、切島は目を見開いた。
「えっ、何で知ってんだ⁉」
「な、何となく?」
 急にそわそわし出した切島は、辺りをきょろきょろ見渡してから少し声のトーンを落とした。
「……せ、先生には止められちまったけどさ、あいつ一人だし。ちょっとだけ様子見に行こうかなって。ちょっとだけだから」
 何をおどおどしているんだろうと思ったけど、どうやら先生に止められた手前、ちょっと罪悪感があるようだ。もしかして、ウチが先生に告げ口をするとでも思っているんだろうか。
 切島は豪快に見えて結構用心深いところもあるんだな、という新しい発見をした。誤解を解くために、そうじゃなくて、と前置きしてから言った。
「ウチも一緒に行って良い?」





 上鳴のアパートの最寄り駅で降りて、ウチらは駅の向かいにあるコンビニでスポーツドリンクやゼリー飲料などを買い込んだ。切島は上鳴の部屋に遊びに行ったことがあるようで、迷うことなくウチが昨日辿った道を歩いていく。千葉出身の切島も一人暮らしをしているから、きっとお互い遊びに誘いやすいんだろう。
「しっかし耳郎も見舞いに行こうと考えてたなんてな!」
 さっき話し掛けた時の弱気な雰囲気はすっかり吹き飛んで、切島はいつも通りの元気な調子に戻っていた。ウチも上鳴に会いに行こうとしていたことをなぜか嬉しそうにしている。昨日この辺で起こったことを切島に喋ろうか迷って、止めた。
「まあ、隣の席だし」
「そっか!」
 ウチが声を掛ける前にもう切島は、上鳴へ今から見舞いに行くとメッセージを送っていた。上鳴は起きていたみたいですぐに返事を寄越したそうだ。スマホを見せてもらったけど、喜んでいる様子だった。


 玄関のチャイムを鳴らすと、部屋の中からドタドタと足音が聞こえて来て、すぐにドアが開いた。気を遣っているのか、上鳴はマスクをしていた。いつも外に跳ねさせている髪が大人しく下りていて、毛先だけあっちこっちに遊ぶように寝癖がついている。目が少しとろんとしていて、本当に具合が悪いんだなって感じだった。
「よう、大丈夫か!」
「わりぃなわざわざ。大丈夫、大丈夫」
 朗らかに言った切島の横からウチも顔を出すと、上鳴は心底びっくりしていた。
「あっ、耳郎も居る!」
「うん、来た」
 上鳴は鼻声だったけど、喋り始めたら思ったよりも元気そうにも見えた。症状は熱と鼻水で、今は微熱まで下がっているという。明日一日寝ていれば完全に治ると思うと本人は言っていて、ウチもそうだろうと思った。

 上鳴も寝た方が良いだろうし、顔を見てコンビニで買ったものを渡したら帰ろうと切島と電車の中で話していた。でも実際に会ったら、思いのほか会話が弾んでしまった。
 というか、上鳴が話を終わらせようとしないのだ。ウチらが来たことを本当に喜んでくれているみたいだった。切島も同じことを感じているんだろう。引き上げるタイミングが掴めなくて、なかなか立ち話が終わらない。
 何だかんだ三分は経っただろう時、上鳴が言った。
「ドア開けたまま喋んのもあれだし……。ちょっと、寄ってく?」
 ためらいがちな言い方だったけど、瞳は正直だった。まだ帰らないで欲しいと言っている。そんな目を見たら、ウチと切島は頷くしかなかった。


 上鳴の住むアパートは、外観を見る限りはそんなに新しく見えなかったけど、内装はとても綺麗だった。玄関を開けてすぐ右手のところに小さいキッチンがあって、左手にはたぶん風呂場とトイレだろう、ドアが二つあった。そしてその間の短い廊下の向こうに一部屋だけある。一人暮らし用の間取り。
 上鳴はウチらを部屋に案内すると、換気のために窓を開けた。涼しい風が入って来る。雑貨が多くて賑やかな部屋だけど、それほど散らかってはいなかった。とりあえず寝ろと言うと、上鳴は大人しくベッドに向かった。冷却シートを額に貼ってから横になる。

 床にはドラッグストアの袋が置いてあって、その中にスポーツドリンクとゼリー飲料がたくさん入っているのが見えた。それに気づいて、ウチは切島とアイコンタクトをする。
「すまねえ! 俺らも似たようなもん買ってきちまった!」
 切島がパンっと音を立てて手を合わせ、上鳴に頭を下げる。ウチも「ごめん」と言いながら、レジ袋を広げて見せた。
「いやいや全然! むしろありがと! これでしばらく生きていけるぜ」
「いやさすがに身体に悪いでしょ。相澤先生じゃないんだから」
 合理性を重視する先生は食事を摂る時間も無駄だと思っているのか、いつもゼリー飲料ばかり飲んでいる。プレゼント・マイクにそのことをツッコまれているのを見たことがあるから、きっと本当にそれが食事なんだろう。

 ウチが先生の名前を出したら、
「そう、相澤先生がさ!」
 と言いながら上鳴はガバッと身体を起こした。
 どうやら午前中に相澤先生が来て、病院に連れて行ってくれたそうだ。このスポーツドリンクとゼリー飲料はその帰りに買ったとか。
「俺、先生に怒られると思ったんだよ。気が緩んでるとか、緊張感が足りねえとか。でも全然そんなことなくて普通でさ。良かったー」
「俺らには上鳴のとこ行ったなんて言わなかったよな」
「うん。もともと午前に相澤先生の授業なかったし、気づかなかったね」
「あ、そうなん。でも黙ってんの先生っぽいな」
 ウチらはうんうんと頷き合った。
 相澤先生は、高校生活初日なのにウチらを入学式に出席させてくれず、いきなり始めた個性把握テストでは「最下位は除籍にする」と嘘を吐き、その時は何つう担任だと思った。
 だけどこの間USJで敵に襲われた時は、ウチら生徒を身体を張って守ってくれた。今はとても頼りになる先生だと、きっと皆が思っている。時々やる気なく寝袋に入って、所構わず寝転がっているのはどうかと思うけど。

 ウチと切島も適当に腰を下ろした。その時にふと、手に持っていたレジ袋の中身を思い出した。ゼリーやヨーグルトも買って来たんだった。上鳴に冷蔵庫を開けて良いか尋ねると、全然良いよ、と返事が来た。
 ウチは買ってきたものを仕舞うために部屋を出た。冷蔵庫は廊下に置いてあったからだ。
 ウチの腰の高さくらいしかない一人用の冷蔵庫を開けると、中身はほとんどスカスカだった。卵が二個と、牛乳と、使いかけの野菜がちょっと。あとは飲み物と小さい容器の調味料がいくつか入っているだけ。
 一人暮らしってこんな感じなんだ、と思いながらゼリーやヨーグルトをプラスチックの棚の上に並べる。野菜があるってことは自炊をしているみたいだ。上鳴が料理をしているところはあんまり想像できないから意外だった。

 部屋のドアを細く開けたままだから、二人の話し声が時々聞こえてくる。何か笑いながら喋っていたかと思ったら、ふっと静かになった。
 買ってきたものを仕舞い終えてウチが冷蔵庫の扉を閉めた、その時だった。
「あー……、家に帰りてえな」
 上鳴が静かにぼやく声が聞こえた。
 もう廊下でやることはないから部屋に戻れば良いのに、ウチはその場にしゃがんだまま立ち上がれなかった。上鳴の言葉があまりに寂しげに響いて、いつも賑やかなあいつの口から出た声だとは思えなくて、びっくりしたからだ。

――そっか、ここは上鳴にとって家じゃないんだ。

 ウチは床を見つめながらそう思った。
 それはそうか。まだ引っ越して来てから一ヶ月くらいしか経っていない、見知らぬ土地にある慣れない賃貸アパートの一室なんだから。ここはただ、学校から帰る場所なだけであって、家という感覚ではないんだろう。
 ウチは実家暮らしだから毎日家族と会える。入学してから地元の友達とはまだ遊べていないけど、学校の行き帰りに駅でばったり会って話すことはよくある。
 でも上鳴は、ウチにとってそんな当たり前なことができない。家族も、ウチらなんかよりもずっと仲が良い友達も皆、埼玉に居る。

 家を出たことがないウチだって、地元に帰りたいと思う気持ちは想像できる。おまけに体調を崩してしまったら、なおさら心細いだろう。玄関で向けられた縋るような瞳がふと頭の中によみがえる。
 すっかりクラスに馴染んでいて、面白いクラスで良かったと言っていて、毎日楽しそうに笑っている上鳴にも、ここではないところに本当の居場所があるんだな、っていうこと。ウチらがお見舞いに来て嬉しそうにしてくれているけど、それでも完全に心が晴れるわけじゃないんだな、っていうこと。そんな当たり前のことに、今気づかされた。
 そして、そんな当たり前のことをウチは、なぜか寂しいと思ってしまっている。すごく勝手な感情だ。どうしてこんな気持ちになってしまっているのか、よく分からなかった。
 頑張って上鳴を励まそうとする切島の声を聞きながら、ウチはしばらくそのままじっとしていた。




2020.08.21
2021.06.06 修正



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