春しぐれ / 第5話

 痺れかけた足を立って伸ばし、ウチは部屋に戻った。
 切島と話している上鳴はいつも通りの雰囲気になっている。ウチに気づいて「ありがと」とお礼を言う声にもさっきの寂しげな面影はない。気のせいだったんだろうかと思ってしまったけど、ちゃんと耳の奥にはあの声の余韻が残っている。ウチは切島の隣に腰を下ろして、横になっている上鳴を見た。

「何かウチらにできることある?」
 冷蔵庫の前で考え込んでしまった後、出てきた答えがこれだった。いくら考えたって、どうしたら上鳴の気持ちが紛れるのかウチには分かりっこないけど、今近くに居るのはウチらだけなんだから、何かできることがあればと思ったのだ。
「え? んー、そうだなぁ」
 意外だったのか、上鳴は少し驚いたような声を出した。それから天井を見上げて考え込む。
「そうだな、俺らで代わりにできることならやるぜ!」
 切島も乗り気でガッツポーズをした。だけど上鳴は特に思いつかないらしい。「うーん」とか「そーだなぁ」とかを繰り返しているだけだ。
 自分で尋ねておいて何だけど、確かに頼めることってそんなにないのかもしれない。一人暮らしで面倒なことと言えば家事だと思うけど、クラスメイトに洗濯や掃除をされるのは嫌だろうしな、とは思う。
 上鳴の返事を待って一分くらい経った時、ぐぅっとお腹が鳴る音がした。すぐに上鳴が寝返りをうち、照れたように笑う。
 食欲がないわけではないけど、朝から身体が怠かったからどうも何か食べるのが面倒くさくて、今日はまだ水分とゼリー飲料しか口に入れていないのだという。
「キッチン借りて良ければ、何か作ろうか?」
 ウチがそう言うと、上鳴はものすごい勢いで身体を起こし、目を輝かせた。
「耳郎料理できんの⁉ キッチン使うのは全然良いけど!」
「できるっていうか、皆学校で調理実習するよね?」
「あぁ……」
 すごく当たり前のことを言っただけのつもりなのに、なぜかすぐにテンションを下げられた。ちょっと考えて、「それはできるとは言えない」という意味なのだと分かって、イラっとした。一応家でだって、やる時はやっている。
「てか切島、あんたは一人暮らしなんだからできるでしょ」
「まあ自分で食う分はがーっと作っちまえば良いけど、具合悪い人のはなあ」
 切島に詰め寄ったら、歯切れの悪い返事が来た。確かにこいつは、一皿で完結するような大雑把な男飯を作りそうだ。味が濃くて肉がどーん、みたいな。だけどすぐ切島はやる気な表情を見せた。
「でも、料理良いな! やっぱ体調悪い時に大事なのは栄養だもんな!」
「というわけで、ウチらが何か作るよ」
「おぉ……、マジか」
 かなり強引に話をまとめようとすると、上鳴は掛け布団の下で体育座りした膝を抱いた。
 その時にもう一度、さっきよりも大きい音でお腹が鳴る。ウチらの申し出に不信感しか抱いていなかった様子が、それをきっかけにふっと緩んだ。いや、諦めたのかもしれない。
「じゃー、頼むわ! 食えるもんにしろよ!」
 上鳴は元気にそう言って、了解してくれた。


 風邪の時の定番メニューとしてウチがお粥を挙げたら、即行で却下された。味のしないご飯は嫌だそうだ。切島もそれに同意していたから、男子は好きじゃないのかもしれない。
 それで上鳴から提案されたのは、使いかけの食材が微妙に残っているから使って欲しいということだった。明日自炊する気になるか分からないから、早く消費してしまいたいのだという。
 つまりはあるものでやり繰りして作るということで、料理の腕を全然信じていない相手に頼むわりにはかなり高度なリクエストだったけど、これがやっと上鳴の口から出たお願いだったから、ウチらはその課題に取り組むことにした。

 切島と一緒に冷蔵庫の中身を確認すると冷凍室にうどんを見つけた。切島曰く、だいたいのものはうどんと一緒に煮れば美味くなるし、お腹にも溜まるし、洗い物も少ないから効率的だという。一人暮らし用のキッチンは小さいから、鍋一つで完結するというのは確かに良い。ウチらはこれをメインに使うことを決めた。

 野菜を洗って、ウチが包丁を握る。
「こんな感じ?」
「お、良いんじゃねえか」
 適当に野菜を切っていると、背後に人の気配がした。
「おーい、大丈夫か……」
 振り返ってみれば、さっそく上鳴がキッチンを覗きに来ていた。
「あんたは寝てなって」
「なあなあ、何作ってくれんの」
 使いかけの人参や長ネギと冷凍うどんを一緒に煮て、めんつゆで味付けして、最後に卵を入れる、という計画を切島が説明した。すると不安げだった上鳴の目に光が宿った。
「お、それなら失敗のしようがないな!」
 そしてそんな余計なことを言って、上鳴はいそいそと部屋へ戻って行った。
 お湯が沸いた鍋に野菜とうどんを入れる。野菜と凍ったままのうどんを同時に入れない方が良かったんじゃないかという反省点はあったけど、おおむね順調だ。
「どれくらい入れる?」
 ウチはめんつゆのボトルを持ちながら、隣の切島に尋ねた。
「自分のだったら適当に入れっけど」
「分かる」
「あ、ラベルのとこにちゃんと書いてあるぜ!」
 切島がボトルの側面を指さす。指摘の通りラベルには、「つけつゆ」とか「かけつゆ」とか「煮物」とか、それぞれ用途に合わせて使用量が書いてある。書いてあるけど、もともと水の量をちゃんと計っていなかったので、結局は少しずつ入れて調整することで合意した。
「こんくらい?」
「もうちょい良いだろ」
「あのさあ、味付け失敗する原因って、目分量のせいなんだぜ」
 振り返ると、また上鳴が来ていた。
「大丈夫だぜ、ちょっとずつ入れてっから!」
「ちゃんと味見するし」
 上鳴は不安げに鍋の中を覗いてから、ちょっと頷きつつ、また部屋へ帰って行った。さっきちゃんと説明したのに、闇鍋でも作っていると思われているんだろうか。

 うどんと野菜が煮えたことも、味がおかしくないことも確認して、最後に溶き卵を回し入れ、無事に出来上がった。さっそくラーメン丼に盛って部屋に戻る。
「お、すげえじゃん! 良い匂いする」
 ベッドの中でスマホをいじっていた上鳴は、ローテーブルに置いた丼を見ると飛び起きた。「失敗のしようがない」と自分で言っていたくせに、やっぱりウチらを信じ切れていなかったようだ。食品会社が研究に研究を重ねた上で販売しているめんつゆだけを味付けに使っているんだから、良い匂いがするというのは当たり前だ。だけど上鳴の反応を見たら何だか自分が褒められたような気がして、すでにちょっとした達成感があった。
 湯気が立つうどんを箸ですくい、上鳴はふーふー息を吹きかけて冷ます。そして音を立ててすすると、大きく頷いた。
「うん、美味い! 普通に!」
 上鳴が食べる様子をじっと観察していたウチらは、ほっと一息ついた。
「お、良かったぜ!」
「普通には余計でしょ」
「あ、ごめん。つい」
 特に悪びれる様子もなく謝ると、上鳴は嬉しそうに箸を動かす。時々額の汗を拭き、そんなに見られると食いづれえよと笑って文句を言いつつ、美味いと何度も頷きながら食べてくれた。

 あっという間に丼が空になり、ウチはそれを持ってキッチンへ行った。上鳴が汗をかいたから服を着替えたいと言ったので、部屋から避難しているついでに洗おうと思ったのだ。最初、ウチが居るのに普通に服を脱ごうとしたからびっくりして、慌てて止めた。その時のウチのリアクションをちょっと面白がられたのがムカつく。本当、デリカシーのないやつ。
 そう心の中で悪態を吐きつつ、スポンジに手を伸ばしたその時だった。
 突然部屋の中から「えっ⁉」という切島のデカい声が聞こえてきた。ウチはびっくりしてシンクから離れ、ドアの向こうへ声を掛けた。
「どうしたの?」
 だけど聞こえていないのか、返事がない。ドアに耳たぶのプラグを当てると、また切島の声がした。
「お、俺と耳郎が居ることは黙っててくれ!」
「え? あ、うん?」
 必死な切島とは対照的に、上鳴は状況が読めていないみたいで気の抜けた返事をしている。一拍沈黙した後、上鳴が「もしもし」と言った。
 少し考えて、切島の慌てた理由が分かった。ウチはそっとドアを開けて中を覗く。着替え終わった上鳴はベッドに腰掛けて、スマホを耳に当てていた。
 切島がすぐ振り返り、ウチの傍までやって来る。そして予想通り「相澤先生」とだけささやいた。

 上鳴は、「大丈夫っす」とか「熱はほとんど下がりました」とか「特にないです」とか言っている。ウチらは息を殺して、通話が終わるのを待った。一分ほど経って上鳴はスマホを耳から離し、画面をタップするとこちらを見た。
「先生がちょっと顔出すって」
「げっ」
「やば」
 軽い調子で伝えられた事実に、ウチと切島は同時に反応していた。上鳴がきょとんとした顔をする。
「え、なになに? さっきから」
「じ、実は……」
 切島と目が合って、でもすぐにお互い逸らした。切島が頭を掻く。
「相澤先生から、見舞いに行くなって言われてて」
「へ?」
「もうすぐ体育祭じゃん? だから、風邪がうつらないようにって」
「……え、あっ、そうだったん⁉」
 とりあえず今のマズイ状況は理解したらしい、上鳴は素っ頓狂な声を上げた。ウチらは俯きがちに小さく頷く。
 このことは、上鳴にバレたくなかった。切島と確認し合ったわけではないけど、切島もきっと同じことを思っていただろう。バレてしまったら上鳴が気にしてしまうから。

 案の定上鳴は、
「えぇ……、お前ら悪かったな。しかも俺引き止めちゃったし……」
 と申し訳なさそうに肩をすくめた。
「いやいや、お前が謝ることはねえよ!」
「そうだよ、ウチらが勝手に来たんだし。ってか、やばくない? 先生来るんだよね?」
 ウチがそう言うと、上鳴と切島の視線がこちらを向いた。そして上鳴が、「あ!」とデカい声を出す。
「そうだ、もうこの近くに居るって言ってた! たぶんあと五分……くらい?」
「それを早く言いなさいよ!」
「うぇ、こわっ……」
「じゃあ今帰るか⁉」
「でも近くで鉢合わせちゃうんじゃない? そもそも先生、部屋上がるのかな」
「昼間はちょっと上がったけど」
「え、どうしよ」
「か、隠れるか!」
 切島の提案に、ウチは固まった。
「……マジで?」
「だって出るわけにもいかねえんだったら、それしかないだろ!」
「そ、そうだな! お前らはとりあえず隠れろ!」
 男子二人が意気投合して、さっそく部屋の中を見渡し始めた。ベッドの下、棚の横、カーテンの裏、どれも身を隠すには無理があるだろって場所ばかりをあたっている。

 上鳴が電話を切ってからもう何分か経ってしまった。こうしている間にも一歩一歩、相澤先生はこの部屋に近づいている。ウチも観念して、二人に参加することにした。
 そして最終的に隠れ場所に選んだのは、クローゼットだった。中を見せてもらったら服や雑貨で結構埋まっていたけど、それらを押しのければ無理やり二人、手前付近に立てないことはなかったからだ。
 刑事ドラマの張り込みよろしく上鳴が窓辺にぴったりくっついて外の様子を観察し、ウチらはクローゼットの前でスタンバイした。そして相澤先生の姿がアパートの傍に現れたのを確認してすぐ、二人で中に入った。
 上鳴が「閉めるぞ」とささやいて、ゆっくり扉が閉まる。辺りは一気に真っ暗になった。
「おぉ、暗いな」
「うん。切島狭くない?」
「大丈夫、耳郎は?」
「平気」
 それきりウチらは黙った。上鳴が部屋の中で立ったり座ったり、廊下の方に行ったり、またこちらへ戻ってきたり、落ち着きのない音が聞こえてくる。改まってみると何ていうシチュエーションだろう。まさか上鳴のお見舞いに来て、切島とクローゼットに閉じ込められるとは思いもしなかった。相澤先生にバレないか緊張しているくせに、かくれんぼをするなんていつぶりだろう、なんてのん気に考えている自分も居た。

 少しして、部屋のチャイムが鳴った。来た、と切島が呟く。上鳴が玄関へ向かったようで、足音が遠ざかっていく。ウチは耳たぶのプラグを伸ばして、クローゼットの扉に当てた。コツン、という音が鳴る。ウチが何をしたのか察した切島が、
「お、そうか。耳郎の個性」
 と声を抑えながら言った。暗くて切島からは見えないだろうけど、ウチは一つ頷いた。
「ちょっと聞いてみる」
 上鳴と相澤先生は玄関に居て、立ち話をしているようだった。先生が体調を尋ねていて、上鳴がそれに素直に答えている。受け答えに淀みはないけど、ちょっと声が上ずっているような気がする。その声を聞いていたらだんだんこっちまでドキドキしてきて、心臓の鼓動が速くなった。
 クローゼットの中はとても静かだから、切島に心音が聞こえてしまうんじゃないかと思ってしまう。たぶん切島も同じような状態になってるんだろう。緊張した二人分の体温で、クローゼットの中の空気がぬるくなっていく。
 二人の会話がひととおり終わって、少し沈黙した後、先生がぼそりと呟いた。その言葉を聞いて、どくんと心臓が跳ねた。
「やばっ」
「何、どうした」
「料理したのか、だって」
「げっ」
 キッチンは玄関に入ってすぐのところにあるから、相澤先生からよく見えるだろう。うどんを煮た鍋はそのままコンロの上に置きっぱなしだし、まだ洗っていない丼はシンクの中にある。上鳴は、「えっ、あー……」と一瞬言葉に詰まった。
 だけどすぐに、
「熱下がってきたら腹減ったんで。ちょちょいっと」
 と軽い感じで答えていた。さほど気にならない程度の間しか空かなかったと思う。先生はそれに対して返事はせずに、簡単に月曜日の連絡事項を伝えた。上鳴がほっとしたようにいきなり元気な声になる。その分かりやすさにハラハラしてしまったけど、先生はただ「具合が悪化したら連絡しろ」とだけ言って、帰っていった。上鳴がお礼を言った後、バタン、と玄関のドアが閉まる音がした。

「……帰った」
 ウチが呟くと、ふーっと切島は息を吐いた。部屋に戻ってくる一人分の足音が聞こえる。それはクローゼットの前を通り過ぎて、少しすると戻ってきた。きっと窓からこっそり、先生が帰る様子を見届けたんだろう。
「開けるぞ」
 という上鳴の声とともに、視界が一気に明るくなった。
 大した時間ではなかったはずなのに、目はもうすっかり暗闇に慣れていて、目の前が少しちかちかした。部屋の中のただの空気が、ものすごく新鮮なものに感じられる。知らず知らずのうちに呼吸を抑え気味にしていたみたいで、ウチも切島も大きく深呼吸をした。
「やべえ。先生に鍋見られて、料理したのか聞かれちゃって」
 上鳴はすごく慌てていた。さっき先生と話している時も落ち着きがなさそうだったけど、あれでもかなり抑えようと頑張っていたんだということが今分かった。
「うん、聞いてた」
 ウチはプラグを浮かせて、コードを指で巻く。
「あ、そうなん。俺ちゃんと返事できてた? すげえテンパった気ぃするんだけど」
「まあ、普通に答えてたよ」
「そっか、良かった……。あ、お前らの靴、直前で気づいて隠しといたからな!」
「おぉ、ナイスプレーだぜ上鳴!」
 靴のことはすっかり頭になかった。切島のはともかくウチのはどう見てもサイズが小さいから、玄関にあったらマズかっただろう。
「へー、やるじゃん」
 ウチらが口々に褒めると、上鳴は照れながらも嬉しそうにしていた。
 クローゼットより風呂場に隠れた方が広くて良かったということに後から気がついて、こんな単純なことを思いつけなかった自分たちの焦り具合に三人で笑った。



 鍋や食器を洗って片づけ、たっぷり二十分くらい待ってから、ウチと切島は上鳴の部屋を出た。上鳴はベランダにまで出て見送ってくれた。ウチらが何回か振り返ってもまだ居たから、たぶん見えなくなるまでそこに立っていたんだと思う。
 やっぱり行って良かったとか、うどん上手くできたなとか、先生が来た時ビビったとか、あの部屋で起こった出来事を二人で振り返りながら駅までの帰り道を辿った。

「ねえ」
 会話が途切れた時に、切島を見上げた。
「ん?」
「上鳴ってさ、一人暮らしだから、学校でいつもあんなにうるさいのかな」

 覚えている限り、今日の上鳴はほとんど笑顔だった。でも顔は見ていないけど、寂しそうに弱音をこぼした時もあった。どれくらい、気は紛れただろうか。ウチらが帰って、上鳴は今また一人きりだ。上鳴が黙ってしまえば、部屋の中はとても静かになってしまう。
 ちょっと感傷的な気持ちになっているのは自覚していたけど、言葉にしたらなおさらしんみりとした気分になってしまった。だけどウチのそんな気持ちを知らない切島はすぐに笑って首を横に振り、言った。
「いや、性格だろ」
「……そっか」
 あっさり言われてしまって、今度はむしょうに恥ずかしくなった。もしかしたら、ウチが考え過ぎなのかもしれない。
「それを言ったら俺もそうなるし」
「まあ、あんたもよく喋ってるよ」
「え、そうかな?」
 駅に着くまで他愛のない話を続けながらウチは、月曜日の朝、隣の席に上鳴が居る景色を頭の中に思い浮かべていた。




2020.08.28
2021.06.06 修正



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