春しぐれ / 第6話

「あれ、耳郎もう英語終わったん?」
 正面に座った上鳴が、ウチの手元のレポート用紙を覗き込む。ウチがシャーペンを走らせているのは、つい先日終わった職場体験の報告を書く用紙だ。
 図書館のロビーにあるフリースペースで、ウチと上鳴は宿題をしていた。椅子とテーブルのセットがいくつか置いてあって、自習をしても良いし、ただの雑談スペースに使っても良い、飲み物持ち込み可の便利な場所だ。蔵書の数が高校のレベルではないくらい膨大な雄英高校は、その敷地内に図書館が独立した施設としてある。
 今日の七限目が英語で、授業が終わってすぐ上鳴に捕まった。今日の内容がよく分からない、一人で宿題が終わる気がしないとと泣きつかれたのだ。放課後ずっと教室に残っていると先生に怒られるから、仕方なく二人で図書館に来たのだった。

「うん。そこまでムズくもなかったじゃん」
「えー、マジ? 俺全然分かんねえんだけど……」
 英語が印刷されたプリントの上で、上鳴が頭を抱える。
「さっき教えたじゃん」
「それは終わったんだけど、長文のとこがさあ。ごちゃごちゃしてて分かんねえ」
「あんたがごちゃごちゃ読んでるからでしょ」
 ウチは手を止めて、上鳴の方に身を乗り出した。
 どこが分かんないのと聞いてやったのに、集中力を切らした上鳴はぼーっとしながら紙パックのアイスティーをストローで吸っていた。
「ちゃんと整理して読めば良いじゃん」
「それができたら苦労しねえって」
「諦め早過ぎ。ほら、一文目から」
 関係代名詞に印を付けたり、代名詞が何を指しているのかを答えさせたり、分からない単語を調べさせたりして、一つ一つ確認しながら読み進めていった。
 うつろな目をしていた上鳴だったけど、三分の一くらい読み終えたところでコツを掴んだらしく、後は自分でできそうだったからウチは自分のやりかけの宿題に戻った。
 職場体験の報告書の書き方は自由。時々立ち止まりながら、真っ白なレポート用紙をちょっとずつ埋めていく。



 ウチの初めての雄英体育祭は、予選突破はできたものの、本選の騎馬戦で敗退。ヒーロー事務所からの指名もゼロという全然ぱっとしない結果で終わった。対して目の前のこいつは、騎馬戦で轟の騎馬として活躍してポイントを稼ぎ、個人トーナメント出場。だけどB組の塩崎に瞬殺されて終わった。
 ウチが貰った職場体験の行き先リストは、あらかじめ学校がアポを取っていた事務所が並んだものだった。上鳴はそれよりも枚数の多いリストを受け取っていた。トーナメント一回戦敗退だとしても、騎馬戦でも目立っていたし、充分アピールはできたんだろう。上鳴は全国のヒーロー事務所から三百近い指名を貰っていた。
 簡単には読み終わらないそのリストを眺める上鳴を、ウチは隣の席から見ていた。羨ましかったけど、前みたいな苛立ちは起こらなかった。騎馬戦での活躍を見ればそうだろうなって感じだし、もともとの個性の強さも含めてその人の実力だもんなと、今は素直に思う。
 それに、指名がなくても職場体験にはちゃんと行ける。与えられたチャンスを活かして頑張れば良い。一週間の体験はあっという間に終わったけど、ウチは実際に事件が起こった現場に赴いて、プロヒーローの後方支援をしたり、市民の避難誘導を手伝ったりした。授業で練習した時よりも、実際にやってみた時の方が気づくことが多くあった。目立つような活動ではなかったけど、本物の経験を得られたことは自分にとって大きかった。



「終わったー!」
 上鳴がシャーペンをぱっと放し、両腕を広げて伸びをする。ちらっとプリントを見ると、ちゃんと最後まで解答が埋まっているようだった。
「思ったより早かったじゃん」
「あー、やべえ。もうすぐで脳みそ全部使い切るところだった」
 上鳴の脳みそは消耗品なんだろうか。馬鹿みたいなことを言っている本人は満足げに残りのアイスティーを飲み干した。そしてウチの手元を指さす。
「そのレポートの提出まだだよな?」
「月曜まで」
 ウチが期限を答えると、じゃあまだいいや、と上鳴はのん気に言った。たぶん前日まで忘れていて慌ててやるんだろうなと思った。どちらともなく帰り支度を始める。
「耳郎に頼んで良かったぜ。ありがとな」
「うん。ていうか、何でウチだったの? もっと教えるの上手い人居るでしょ」
 テーブルの上に広げたものをリュックに仕舞いながら尋ねた。授業終わりの雑談の延長でここまで来てしまったけど、自分が選ばれた理由がイマイチよく分からなかった。鞄の中を見ていた上鳴が顔を上げる。
「だって耳郎英語好きそうだから」
「え?」
「授業で当てられた時とか、さらさら~っと読むじゃん。英会話とか習ってた?」
「別に習ってないし、喋れないし。……てか読んでるのとか聞かないでよ」
「いや聞かないとか無理だろ」
 授業中なんだから、と上鳴が笑う。
 こいつに言われた通り、ウチは英語が結構好きな方だ。子どもの頃から家で国内外を問わず色んな音楽を聴いていて、特に海外のロックミュージックが好きだから、ウチにとって英語はただの授業科目と言うよりは、もっと身近なところにある。別に発音とかは適当だけど。
 まさか上鳴からそんな風に見られていたなんて思いもしなかった。何だか気恥ずかしくてウチは、さっさとリュックを背負って立ち、もたもたしている上鳴を急かした。





 図書館を出ると、空は暮れかけていた。校門までウチらはほとんど誰ともすれ違わなかった。帰宅部はとっくに下校しているし、部活をしている生徒にとってはまだ活動中の中途半端な時刻だ。
「学校出た時点でもう宿題が終わってるって素晴らしいな!」
「そういう時に限って明日持って来るの忘れそうだけどね、あんた」
「何だと! あ、じゃあもう教室に置いてくれば完璧だったんじゃね?」
 さも名案かのように上鳴はそう言った。ウチは適当に返事をしつつ、こいつなら本当に教室に引き返すんじゃないかと思ったけど、さすがにそれは冗談だったみたいで、ウチらは真っ直ぐ校門をくぐり、駅までの道をたどった。
 近くの住宅街から夕飯の良い匂いが漂ってきて、お腹空いたなと思った。毎日身体も頭もたくさん使うから、高校生になってからというもの、すぐにお腹が空くようになった。図書館を出た時に飴を一つ口に入れたけど、そんなんじゃ全然腹の足しにならない。舐めている間の気がちょっと紛れる程度だし、噛んでしまったからもうない。

「なあ、ちょっと早いけど夕飯食って行かね?」
 上鳴も似たようなことを考えていたのか、ご飯の話を始めた。雄英高校の最寄り駅から二つ先の駅の近くにファミレスができたから、そこにでも行かないかということだった。そこは学生の財布にも優しい安くて有名なチェーン店だ。
 上鳴は、とん、と自分の胸を叩く。
「俺、奢るし!」
「え、何で?」
「だってこの前お見舞い来てくれた時に、色々買って来てくれたじゃん」
 笑いながら、透き通った金色の瞳が見つめてくる。真っ直ぐな視線を受けて、一瞬ぐっと息が詰まった。
「それはいいよ、気にしなくて」
「いーじゃん、俺がしたいだけだし」
 お見舞いに行ったんだから何か買っていくのは当たり前だと思うんだけど、上鳴はお返しをしたいようだった。実際、切島とは体育祭が終わった頃に一緒にラーメンを食べに行ったそうだ。
「耳郎もって思ってたんだけど、職場体験とかでバタバタしてたからさ。今日はもう宿題終わったし、良いだろ?」
 ファミレスに行くことをほとんど決定事項だと思っている上鳴を見ながら、行っても良いかな、とウチも思い始めていた。すでにそのファミレスのメニューがいくつか頭の中に浮かんでますますお腹が空いてきたし、何となく、もう少し上鳴と喋っていたいような気がしたからだ。

 でも。
「もしかしたら、親がもう夕飯作ってるかも」
 今日は父さんも母さんも家に居るから、もう夕飯の支度を始めていると思う。それが気がかりだった。
「あ、そっか。耳郎自宅通いだったな。じゃあまた……」
「待って、聞いてみる」
 上鳴の言葉を遮って、ウチはブレザーのポケットからスマホを取り出した。そしてその場から離れつつ、通話履歴から母さんの電話番号を探してタップする。
 数コールの後、母さんが出た。夕飯の支度をしているか尋ねたら、やっぱりもう始めた後だった。
「何かあったの?」
 ウチが何の前置きもなくそんなことを聞いたから、母さんが不思議そうにしている。素直に今の状況を話したら、こっちの心配をよそに母さんはあっさりと、「食べてきなよ」と言った。
「でも、もう作ってるんでしょ?」
「そんなのどうにでもなるから、行ってらっしゃい」
 たぶん母さんならそう言うだろうなと思っていた。良かった、と安心しつつ申し訳なさもある。高校に入学してから、ウチが毎日お腹を空かせて帰って来るから、母さんは仕事がない日や早く帰ってきた日は色々頑張って作ってくれるのだ。
「急にごめん。明日の朝食べるから」
「まだ始めたばかりだからどうとでもなるし、大丈夫よ。むしろ、ちょっと嬉しいし」
「え?」
 電話の向こうで母さんが小さく笑ったのが分かった。
「高校に入ってからずっと、放課後に友達と遊んでくることなんてなかったじゃない。ヒーロー科って忙しいんだなっていつも思ってたから。気にしないで楽しんで来てね」
 嬉しそうな母さんの声を聞きながら、そういえばそうだったと気がついた。

 ヒーローを目指す前は、高校生になったら軽音部に入ってバンドを組んで、趣味の合う仲間とたくさん音楽の話をして、自分で曲を作ってみたりして、バイトもしてみたいし、放課後ふらっと友達と街まで遊びに行ったり、なんて生活を夢見ていた。中学生とは違って行動の範囲が広がって、もっと自由な世界に飛び込んでいけることを楽しみにしていた。
 今は、一時期思い描いていた高校生像とは全く違う、勉強と訓練でいっぱいな毎日を送っている。音楽に費やす時間は減ってしまったし、休日は週に一日しかないし、皆も忙しいだろうから遊びに誘うのもちょっと躊躇ってしまう。
 だけどそういう生活を、不自由だとは全然思っていない。今まで生きてきた中で一番やりがいの詰まった毎日だ。それに、そういう生活を送っているからこそ、こんなちょっとした寄り道が楽しみに感じられる。

 母さんにお礼を言って電話を切り、一人でスマホをいじって待っている上鳴のところに戻った。
「行こう」
 声を掛けると、上鳴は顔を上げた。
「あ、大丈夫だった?」
「うん。食べて来て良いって」
「おっし、じゃー行くか!」
 上鳴はぱっと表情を明るくして、スマホをスラックスのポケットに仕舞った。ウチはそれに一つ頷く返事をして、また二人で並んで歩き始める。

 ――高校に入ってからずっと、放課後に友達と遊んでくることなんてなかったじゃない。

 母さんの言葉を思い出しながら、ウチはちょっと不思議な気持ちがしていた。ウチ、こいつと友達になったのかなって。そうなら、それはいつからだったんだろう。友達を始める言葉なんてないから、全然分からない。でも友達じゃないなら、上鳴って何なんだって話だ。
「――って、耳郎聞いてる?」
「あ、ごめん全然聞いてなかった」
「えー、何だよ。これ絶対お前笑うと思って言ったのに」
 不貞腐れたように上鳴が口をとがらせる。
 何か機嫌良く喋っているなとは思っていたけど、考え事をしていたから全く耳に入っていなかった。
 ウチが笑うと思って、上鳴は何を言ったんだろう。そういう風に上鳴が、ウチの好みを考えて話を用意したということに、ちょっとびっくりした。
「じゃあ、もう一回言ってよ」
 ウチがそう言うと、上鳴は軽く文句を言いつつも、結局また一から話し始めてくれた。
 今日あった出来事を楽しそうに話す横顔を見ながら、ウチは心の中に浮かんだ「友達」という言葉を慎重に取り出してみた。何度も繰り返し心の中でつぶやいてみたらだんだん馴染んできて、しっくりするような気がしてきた。

 そっか、そうなのか。
 ウチはいつの間にか、上鳴と友達になったみたいだ。
 四月の初めの自分が知ったらきっとびっくりするんだろうな。そう思うと、何だかちょっと可笑しい気持ちがした。



- END -


2020.09.04
2021.06.06 修正



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