OH MY LOVE / p.3

「あ、チャージズマいたいた」
 事務所の給湯室に居た上鳴は、先輩サイドキックの声を聞いて水道の蛇口を締めた。洗い終わったマグカップを食器カゴに伏せ、入口に目を向ける。
「何すか?」
 日勤を終えた上鳴とこれから夜勤にはいる彼女は、先ほど事務室で挨拶を交わしたばかりだ。
「今日、無事に引っ越し終わったから。ありがとね」
「あぁ、良かったっすね! もう大丈夫そうですか?」
「うん、最近は静かだったしね。引っ越し先でも何かあったらさすがに警察に相談するわ」
「その方が良いっすよ」
 タオルで手を拭って上鳴は明かりを消した。どちらともなく給湯室から出る。

 この先輩は、別れた恋人とのトラブルを抱えていた。ここ二ヶ月くらい時々自宅近くで待ち伏せされ、復縁を迫られているという。だんだんストーカーっぽくなってきたと彼女がぼやいているのを聞いて、上鳴は警察に相談してはどうかと勧めた。
 彼女としては、元恋人は気が弱いから明らかな犯罪行為を働くとは思えないし、自分は腕っぷしで負ける気はしない。不快には違いないが、目に見える被害がなければ大事にしたくないとのことだった。ヒーローが警察の仕事を増やすのも申し訳ないと言う。とりあえず彼女は引っ越しを検討していた。
 そこで上鳴は、彼女が引っ越すまで、帰宅時間が合う時は家まで送ることを提案した。丁度その時同じ案件に関わっており、勤務時間が被ることが多かったのだ。いくらヒーローと言えどもこの個性社会、何が起こるか分からない。
 週に二、三回、一ヶ月ほどそれを続けたら、元恋人は姿を見せなくなった。これまでも二週間ほど現われないこともあったそうだが、先輩はこの静かになうちにさっさと引っ越しの準備を進め、それが今日完了したのである。

「チャージズマも忙しかったのにごめんね」
「全然大丈夫っすよ!」
 彼女の安心した表情にほっとして、上鳴は元気よく返事をした。ヒーロー業は気の抜けない仕事だというのに、プライベートまで緊張しなければならなかったのは相当なストレスだっただろう。役に立てて良かった、と心から思う。
「あの件も一段落したし、チャージズマも適当に休みなよ」
「はーい」
「あ、でも報告書にミスあったって。さっき所長が言ってたわ」
「げ、マジすか。今直した方が良いかな」
 彼女と一緒に取り掛かっていた任務が数日前に片付いた。上鳴は今日のパトロールの合間に集中して書類を作成したのだが、不備があったようだ。どうも昔から、こういう机に向かう仕事は苦手だ。
「今回チャージズマ頑張ってたし、俺が直しといてやるかーって言ってたよ」
「お、ラッキー」
 とは言いつつ結局一旦事務室へ戻り、間違っていた箇所を教えてもらった。修正は明日で良いからさっさと帰れと言われ、上鳴は素直に従った。日勤で七時前に帰宅するのは久しぶりだった。

 上鳴は鼻歌まじりに更衣室のドアを開け、コスチュームを脱ぐより先にスマートフォンを手に取る。メッセージアプリを開き、手早く文字を打ち込んだ。
『今日飯行かね?急だけど!』
 メッセージの送信先は耳郎だ。彼女に連絡するのは二週間ぶりだった。正しく送信されたことを確認すると、サングラスを外してケースに仕舞い、着替えを始める。
 上鳴はシャツのボタンを留める時に、ふとその仕草を止めた。自分の左手のひらをまじまじと見る。

 最後に会った夜は、耳郎の手を握った。初めてちゃんと触れた温もりを、この手が覚えている。思っていたより肌が滑らかだったことも、ギターやベースを自在に弾きこなす指先は硬かったことも、覚えている。いつでもあの夜の気持ちを上鳴は簡単に引き出すことができた。何度も何度も頭の中で思い出している。


 耳郎のことをいつから好きだったのか、上鳴はよく分かっていない。高校時代から耳郎は自分の中で特別な位置に居るとは何となく気付いていたものの、他のクラスメイトよりもちょっと近いという距離感が心地良くて、耳郎もそういう感じだったから、そこから一歩踏み出す必要性を感じていなかったのである。
 意識をし始めたのは、お互い高校を卒業してプロヒーローになってから。いつでも会える距離に住んでいるはずなのに、新しい生活に慣れようと必死になっていたら簡単に疎遠になってしまった。住む場所が少し離れるだけでこんなことになるなんて、思いもしなかった。
 毎日顔を合わせていた耳郎が日常から居なくなることで、むしろ彼女のことを考える時間が増えた。他のA組のクラスメイトを思うと、「きっと元気に上手くやっているだろう」と励まされたが、耳郎のことを思い浮かべると、どこか物寂しい気持ちがした。

 月日はあっという間に過ぎていく。パトロールの最中に桜のつぼみが膨らんでいるのを見つけて、高校を卒業してから一年が経とうとしているのだと気づいた。耳郎とはもう、半年以上会っていなかった。
 上鳴に声を掛けてくる女の子は時々いて、お茶をすることはあったが、それ以上に関係が発展することはなかった。耳郎を思って気乗りしていなかったのだから当然である。きっと耳郎も目まぐるしい毎日を過ごしているだろうけど、自分と同じように声を掛けてくるひとが居て、もしかしたら彼氏ができているかもしれない。そう思うと近況を聞くのも何となく躊躇われて、メッセージすら送れずにいた。
 だから五月に研修で会えたのはラッキーだった。実際に一度会ってしまえば連絡をするハードルはぐんと下がる。今まで音信不通だったのが嘘みたいに気軽にメッセージを送り合い、二人きりで食事へ行くようになった。
 耳郎と一緒に過ごす時間は、やっぱり楽しかった。姿を見るだけで嬉しくて、いつまでも喋っていたくて、自分の心の中で淡く揺れていた気持ちが、会う度に少しずつ固まっていくのを上鳴は感じていた。

 三回目に会った時、上鳴は意を決して尋ねた。
「つーかさ、デートする男とかいんの?」
 特に脈略はなかった。唐突な話題に耳郎は、定食のサバの味噌煮を箸でつつきながら怪訝な目を上鳴に向けた。
「……はあ? 誰に言ってんの」
「じ・ろ・う」
「いるわけないじゃん。ウチだよ?」
 何かを隠しているようには見えなかった。心から呆れた表情で見つめられる。本当にそういう相手は居ないらしい。本人が気づかずにフラグを折りまくっている可能性はあるけれど。
「何でだよ。耳郎は良いやつじゃん。普通に彼氏できるっしょ」
 もちろん「良いやつ」というだけではない。薄く化粧をするようになった耳郎は、この一年でぐっと大人びて綺麗になった。ロックなファッションの趣味が変わっていないところも、いつも必ずシルバーやレザーのアクセサリーを身に付けているところも、赤や黒といったどぎつい色のマニキュアを塗っているところも、芯の通ったこだわりを感じられて好きだった。
 耳郎は魚を一口食べると、黙々と白米を口に運んだ。照れているのが分かったから、外見を褒めるのは止めた。あんまり言うと怒られてしまう。
「じゃあ、今はフリーなんだ」
 上鳴は何気ない風を装って、もうひと押しした。味噌汁をすすっていた耳郎が、お椀越しに鋭い視線を投げてくる。
「今も何も、誰とも付き合ったことないけど」
「あ、そうなん」
 今のやり取りできっとそうだろうなとは思っていた。仮に元彼がいたとしても、それで自分の態度を変えるつもりは微塵もなかった(面白くはないが)。だけど実際に誰とも恋仲になったことがないと知ったらやっぱり嬉しかった。
 ふーん、と上機嫌で頷いたら、耳郎はからかわれたと思ったらしい。
「……もうすぐ二十歳なのにヤバイかな」
 上鳴は全力で手を振った。
「いやいやいやいや、ヤバくない! ヤバくない大丈夫!」
「何そんな必死になってんの」
 ふっと耳郎が笑う。表情が緩んだのを見て思わず嬉しくなる。
「いや、まあ、俺もそうだし」
「え?」
「俺もまだ彼女いたことないし」
「嘘でしょ」
「マジマジ」
 耳郎は本当に驚いたみたいに、目をぱちくりさせていた。普段アホとかドジとか言ってくるくせに、そんな男に彼女ができると思っていたんだろうか。上鳴は逆に不思議になる。
「二十歳だからとか関係ねーじゃん? 好きな人ができたら、付き合うもんだろ」
 好きな人、と言った時、思わず身体が熱くなった。耳郎を目の前にこういうことを言うのは、思いのほか照れてしまった。
「……何か意外。上鳴って、付き合うとかもっと軽く考えてんのかと思ってた」
「俺結構、真面目で誠実だから」
「自分で言うなっつーの」
 素っ気なく返されたが、耳郎がちょっと感心している風なのを上鳴は感じていた。ただ本心を真っ直ぐ言っただけだが、これで耳郎の中の自分の評価が上がるならラッキーだという下心もちゃっかりあった。

 そして五回目の食事の帰り。我ながら思い切ったことをしたと思う。上鳴としては分かりやすく好意を出して食事に誘っているつもりだったが、耳郎の気持ちはいまいち読み切れなかった。だから自分を意識して欲しくて、勇気を出して手を握ってみたのだ。
 すぐに「何してんの!」と怒られて振り解かれるかと思った。だけど耳郎は大人しくなって、それからさり気なく握り返してくれたのだ。なるべく平静を装っていたが、心の中で何回ガッツポーズをしたことか、耳郎は知らないだろう。
 翌朝ふと冷静になって、流石にやり過ぎだっただろうかと心配になった。だがその後すぐ多忙になった上鳴を気遣うように、耳郎は「ウチがなるべく予定合わせるよ」と言ってくれた。結局都合が付かず申し訳なかったが、この気遣いは上鳴を勇気づけた。前回デートに行こうと誘ったが、とにかくいつも通り食事で良い、何ならちょっと顔を見るだけでも良い。早く耳郎に会いたかった。


 返信が来たらすぐに動けるよう、上鳴は事務所の最寄り駅周辺でぶらぶら時間を潰していた。メッセージを送ってから約三十分後に耳郎から連絡があった。今日はまだ帰れそうにないから会えないという。
 もともと急に誘って当日会えることはほとんどない。取り掛かっていた仕事が片付き、先輩も大丈夫そう、そして帰りも遅くならなかったから、つい気持ちがはやってしまったようだ。仕方ない。それでも近々会えそうだなと浮足立ちながら上鳴は家路に着いた。

 だがそれからも耳郎と会うことはなかった。上鳴から積極的に何度か誘ったのだが、良い返事を貰えなかったのである。今まで耳郎の都合が悪い時は、彼女から代わりの日程を示してくれていたのにそれもない。
 当然食事すら行けないのだからデートの行先の話にもならない。詳しいことは知らないが、事務所に依頼が立て込んでいて忙しいのだろうと思うしかない。
 何度か上鳴発信のやりとりをした挙句、「会えそうな日があればウチから連絡するから」と言われてしまった。急に耳郎のテンションが下がってしまった気がする。何かしただろうかと思い出そうとしても、そもそも会っていない。メッセージの履歴を読み返しても、問題はなさそうだ。
 結局それきり連絡しづらくなってしまって、気が付けば最後に会った日から二ヶ月が経とうとしていた。




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