シュガーコート / p.4

「はい、上鳴の」
 ベンチに座っている上鳴に、プラスチックカップに入ったアイスカフェオレを手渡した。そしてウチも隣に腰を下ろす。水族館のそばにある海浜公園はさわやかな風が吹いていて、息を吸い込むと潮の匂いがした。
「うぇい、ゴチです」
「別に。あんたはお昼多めに払ったじゃん」
「あんなん数百円だろ」
 昼食の会計は上鳴がまとめて払ってくれた。ウチが食べた分のお金を渡す時、細かいのが面倒だからと切が良い金額で良いと言われた。それでちょっと奢られた状態になっていた。それが何だか気になっていたから、公園で移動式カフェを見つけた時に、ウチが飲み物奢るよと申し出たのだった。

 上鳴はカフェオレを一口飲み、「お、美味い」とつぶやく。ウチも自分のジンジャーエールを飲んだ。喉が渇いていたから美味しい。
 広い石階段を降りた先にある砂浜には、子どもを連れたお母さんや、大学生くらいのカップルがいて、楽しそうに時を過ごしている。隣の上鳴に一度ちらっと視線をやってみたら、上鳴もストローをくわえながらその景色を眺めているようだった。

 しばらくそのまま二人で黙って座っていた。
 そして飲み物が半分くらい減った頃、上鳴が不意に口を開いた。「耳郎、さ」と静かに切り出されたから、ウチは隣に視線をやった。
「……結構、こっち来てるんだって?」
 ぽつりと、少し躊躇いがちな喋り方だった。こっちは見ずに、視線はさっきと同じく正面を向いている。
 やっぱり聞かれるか、と思った。
 一昨日電話で話した時も、今日会ってからも、ウチらは一度もこの二年間どうしていたかを話題にすることがなかった。絶対に会ってすぐ何か言われるだろうと身構えていたから意外だった。落ち合ってすぐにバスに乗り、車内ではずっと音楽を聴いていたし、水族館を回っている時はその感想ばかり話していた。お昼ご飯を食べている最中もこのことに触れられなかった時、上鳴は避けているんだと確信した。このまま何も言わないつもりなのかもしれないと思った。
 でもそうじゃなかった。タイミングを見計らっていただけだったんだ。

「三月に同窓会あったじゃん、耳郎が来れなくなったやつ。そん時に障子から聞いたんだけど……」
 ようやく上鳴の視線がこっちに動いた。だけどすぐにまた逸らされる。
「全然連絡なかったから、てっきり俺、もう仙台に行きっぱなしなんだと思ってた」
「……うん、ごめん」
「帰って来ることあったら教えてって言ってたのにさ」
「でも、会う余裕ないっていうか、トンボ帰りの時も結構あるから」
「だとしても、でも。ちょっとショックだったぜ」
 上鳴がこんな風にはっきりと、自分の感じた嫌なことを主張してくるのは珍しかった。というか初めて言われたかもしれない。友達が傷つけられた時は本気で怒るけど、自分のことはあまり頓着しなくて、なるべく波風を立てないように振る舞うことが多いから。口調自体は全然強くないけど、むしろその気まずそうな響きがいっそう、本気で言ってるのだと伝えてくる。
 自分のしでかしたことが、こんなに上鳴を不快にさせていたなんて思いもしなかった。というか、思う余裕がなかった。自分の気持ちをどうにかすることに一生懸命で、上鳴がどう感じるかなんてさほど真面目に考えていなかった。上鳴は友達が多いから、ウチたった一人が連絡しなくなったとしても、どうってことないと思っていた。
 だけどこうして面と向かって言われて、今さら胸が痛み出す。

「……ごめん」
 でも言えるのはそれだけだった。まさか、あんたのことが好きだから遠ざけたくて意図的にそうしていた、なんて口が裂けても言えない。
 想像以上に元気のない声が出た。泣いてはいないけど、どこか湿っぽく響いた。
「あ、べ、別に怒ってるわけじゃねえから! そうだよな、遊びで来てるわけじゃねえもんな。ただ、何か水くさいなーって思って。でもこうやってまた会えたから良いんだけど」
 ウチの声に驚いたのか、上鳴は急に賑やかになった。ちょっとこっちに身を乗り出して、身ぶり手ぶりをしている。
「……うん」
 ウチが小さく頷くと、上鳴もほっとしたようで姿勢を直した。
「ていうか、俺が遊びに行っても良いんだよな。そっちにさ」
 そしてそんなことを言う。突拍子のない言葉に顔を上げると、上鳴と目が合った。その表情はもうこわばっていなくて、いつも通りの穏やかな顔だった。
「……え、仙台? 良いよわざわざ、遠いじゃん」
 それは流石に勘弁して欲しい、と思ったらもう口がこう喋っていた。
 今まで上鳴に連絡しなかったことを申し訳なく思ったのは本当だ。出向へ行く前に上鳴から「戻って来る時は教えろよ」と言われて、ウチもその時は「分かったよ」と返事をしていたから。約束を破ってしまった自覚があるから、本当に悪いことをしたと反省している。

 だけど今後のことはまた別の話だ。こんな気持ちのまま再び会い始めたら自分がどうなるか、嫌な予感しかしない。上鳴には悪いけど、ここでもう約束をしないことが今のウチにとっての一番の誠実なのだ。
「いや、俺もともと仙台って行ってみたかったんだよ。あんまちゃんと行ったことねえから。案内してよ」
「えー……。でもウチ、観光地とかはよく分かんないんだよね。住んでるだけで」
「あーまあ、そういうのあるよな。あ、じゃあ一緒に探索すれば良いじゃん」
 もちろんウチの事情なんて知らない上鳴は、のん気な調子でそんな提案をしてくる。そう言われたら断る理由を探す方が難しかった。

 だいたい上鳴はどうして、こんなにウチと会いたがってくれるんだろうか。上鳴の人付き合いの仕方からすれば普通のことなのかもしれないけど、意識しているウチはそれをいちいち特別なんじゃないかと受け取ってしまう。でもその瞬間に「だって俺、耳郎のこと女子として見てねえもん」がよみがえって、うっかり期待したがる自分を牽制する。ヒーローになるための場所で、お互いヒーローを目指す身として出会った以上、ウチが上鳴の恋愛対象になることはないのに。
 高校を卒業してから一年の間、ずっとこの考えが頭の中でループしていて、苦しさを感じていた。それがまた同じだけの痛みを持って胸に湧いてくる。
 だいたい今日なんて、あんな柄違いのタンブラーなんか買ってしまって一体どうするつもりなんだろう。あれを見る度に上鳴を思い出すことになるんだろうか。つらいを通り越してだんだん苛々してきた。これは良くない。ウチはもういい加減、こんなネガティブで面倒くさい感情は手放したいのだ。

「ていうかあんた彼女いないわけ? ウチと遊んでる暇あったら、さっさと彼女つくんなよ」
「うぇ、何で急にそうなるんだよ!?」
 上鳴は大袈裟に肩をびくっと揺らして驚いて見せた。
 急、じゃない。ウチからすれば。ウチの中では全部繋がっている話だ。
「……何となく。上鳴、高校の時からいっつも、彼女欲しいって言ってたじゃん」
「まあー、高校ん時はな。俺も若かったよ」
「まだ二十一でしょうが。もうすぐ、二だけど」
「今は別にそんな。まあ、良い人がいれば、みたいな? 感じっつうか?」
 そして軽い調子で言いながら、後頭部の髪をいじる。
「いやウチに聞かれても知らないし」
「お前が振ったんだろ。てか、耳郎とこういう話すんの照れんだけど。初めてじゃね?」
「かもね」
 上鳴の言う通り初めてだった。今まで上鳴と二人きりでいて、恋愛が絡んだ話をしたことなんてなかった。
 上鳴が男女問わず他の友達と恋愛の話題で盛り上がっているのは、教室や寮の共有スペースで何度も見掛けていたから、そういう話が好きなタイプなんだということは分かっていた。でもウチといる時は一切そんな話題を振ってこないし、ウチも自分からは言わないから、いわゆる恋バナなんて上鳴としたことはなかった。
 上鳴にとっては、「耳郎はそういう話をする相手じゃない」ということなんだろうけど、ウチに関して言えばただ避けていただけだった。本当は、上鳴がどういう人がタイプなのかとか、今までどんな子を好きになったのかとか、そういうことを聞いてみたかった。具体的に聞いてしまったら落ち込むことになるかもしれないけど、興味はあった。

 だから半ばやけくそになっている今は、何でも聞けそうな気がした。自分に腹が立ち過ぎて、もうどうにでもなれと思っている。上鳴の恋愛エピソードについて根掘り葉掘り聞いて、いっそ打ちのめされてたって良いとすら考えている。
「この二年はいたの?」
「え?」
「彼女」
 高校時代の上鳴に彼女はいなかった。卒業後も、ウチが出向に行くまでの間はいなかった。
 ウチがじっと見つめると、上鳴は目を丸くして見つめ返してきた。何を聞かれたのか一瞬分からなかったような、そんな表情だった。本当にウチとはこういう話が結びついていないらしい。質問をようやく飲み込んだのか、数秒経ってから、こう呟いた。
「……まあ、一応。っても、もう一年くらい前だし、二ヶ月くらいで振られちゃったけど」
 いたんだ。
 彼女がいたことなんて予想していたのに、むしろそれを聞き出そうと話題を振ったくせに、いざ聞いたら聞いたで面白くなかった。たった二ヶ月で振ってしまえる、上鳴と付き合うことが何てことないような、そんな女の子が上鳴の彼女になれていたことが。二人の事情を何も知らない人間があれこれ言えることではないけれど。これは嫉妬なんだろうか。
「へー。どんな人?」
「どんな? 中学の同級生、だけど」
「連絡取ったりしてたんだ」
「いや同窓会があって、久しぶりに会って……。ってか、耳郎めっちゃ聞いてくんじゃん! どうした!?」
 上鳴は自分で言った通り、明らかに照れていた。ちょっと顔が赤くなっている。
 一方ウチは、ツッコミを入れられても別に気まずくもなんともなかった。どう思われても良いやと、投げやりになっているからだろう。
「良いじゃん、減るもんじゃないし」
「減るもんとかじゃねえけど、何かお前にこういうこと言うの恥ずいんだよ! だいたいこんなこと聞いて面白いか?」
「面白いけど。あんたからそういうの、聞いたことなかったし」
「……へ?」
「てか、人がこっちに来てるの黙ってたらショックとか言うくせに、自分は隠し事するわけ?」
「べ、別に隠し事じゃねえだろ」
「だってウチ、あんたに彼女がいるなんて知らなかったよ」
「それは耳郎が連絡寄越さないからだろ。……てか俺のことは良いんだよ! お前はどうなんだよ、耳郎は」
 上鳴はぶんぶん手を振った。反対の手も、プラスチックのカップを握り潰さんばかりの勢いで力が入っている。それを見てジュースを飲むのを忘れていたことに気づいて、ウチはストローに口を付けた。
「ウチが何?」
 ジンジャーエールは氷が解けて、味も炭酸も薄くなっていた。
「あ、ずりーぞ! 自分ばっか。耳郎は彼氏できたのかよ?」
「別にあんた興味ないでしょ」
「あるある、めっちゃある! 聞きたい!」
「嘘」
「嘘じゃねえよ。あの耳郎響香がどういう男選ぶのかめっちゃ気になる」
「あのって何。しかも選ぶことができるような側の人間じゃないよ」
「えー、そうかぁ。耳郎は普通にモテそうだけどな」
 そう言って上鳴も、味が薄まっているだろうカフェオレを飲んだ。

 ウチはさらっと言われた台詞にびっくりしていた。上鳴からそんなことを言われるなんて思ってもみなかったから。声の調子から、口から出まかせを言ったとか冗談だとか、そういうことではないことは何となく分かった。
「モテたことなんてないよ。初めて言われた。告白されたことだってないし」
「それはたぶんあれだろ。耳郎がカッケーからさ、気安く近づけないっていうか。たぶん言わないだけでお前のこと好きだった人、いたと思うけどな」
「……そんなこと、ないと思うけど」
 本来は嬉しい言葉のはずなのに、上鳴の口から聞くのは残酷だった。そんなことを言うなら、ウチはあんたからそう思って欲しかったのに。

 膝の上に置いたカップは汗をかいている。しずくがジーパンに染みて、その部分だけ濃い色になる。
 うつむいて少し考え事をしてから、ウチはその姿勢のまま口を開いた。
「てか別に、モテるかどうかはどうでも良くない? モテたことない人間が言うのもなんだけど」
 上鳴が何かを言おうとしたのが気配で分かったけど、気がつかない振りをして言葉を続けた。
「自分の好きな人が、同じく自分を好きになってくれるかどうか。それだけじゃない。それがなきゃ、どうしようもないじゃん」
 言葉に表わすととてもシンプルだけど、それを現実にするのはとてつもなく難しい。ただそれだけのことなのに、どうしてこんなに難しいんだろう。

 上鳴は確実に、ウチに好意を持ってくれている。高校を卒業してからもこうして遊ぶことができて、物理的に距離ができてしまっても会いに来ようとしてくれて、ウチにされて嫌なことがあったらちゃんと教えてくれる。ただの友達というエリアよりも、もう少し内側に入ったところにウチを置いてくれているような気がしている。
 それなのに、恋人にはなれないのだ。よく遊んでいても全く踏み込むことができなかった上鳴の隣のスペースに、同窓会で久しぶりに会った中学時代の同級生がすっと入れてしまう、そのからくりがウチには分からない。

「もしかして、耳郎。……好きな人いんの?」
 おずおずといった様子で、上鳴が聞いた。
 ウチは何て返事をするか迷ったけど、たった今あんなことを言っておいて「いない」と言う方が嘘っぽいだろうと思って、黙ったままひとつ頷いた。
「……でも、ウチ駄目なんだよね。恋愛対象には見られないみたいで。仲良くはなれるけど、そこまでっていうか」
 あまり先のことは考えずに、こう言っていた。緊張して、最初の方は声が少しだけ震えてしまった。上鳴にこんなことを話してどうしたいのか、自分で分かっていない。
「そうか? 耳郎が自分でそう思ってるだけじゃね? 俺から見れば、耳郎は……普通に良いと思うけどな」
 上鳴がそれを言うなよ、と思った。そうしたらぴんと張っていた糸が切れたみたいに気が抜けた。
 別に自分で思ってるだけじゃないし、それに普通に良いって何だよ。

「はいはい、ありがと。慰めてくれて」
「ほ、本当だぞ!? 別に適当なこと言ってんじゃ、」
「分かったって」
 お前は恋愛対象にならないことなんかないんだと、そういう意味のことを上鳴の口から言われると本当に堪える。そこには、「俺はそうじゃないけど、誰かにとってはきっと」という言葉が隠れている。そんな姿かたちも見えない誰かなんていらない。これなら、女子として見えないと言われる方がまだマシのような気がしてくる。
「……でも別にそう言ったからって、あんたはウチと付き合わないじゃん? そう言ってくれるのは嬉しいけど、」
 苛々して、つい口調が強くなってしまった。
 おまけに言ってから気がついたけど、これじゃあウチが上鳴と付き合いたがっているように聞こえそうだ。だけどもう、何でも良かった。仮にそう聞こえたところで実現なんかしないんだから。
 ひびが入った心の殻は、完全にもう粉々に砕けていた。あんなに長い時間をかけて硬くつくったのに、壊れてしまうのはこんなに簡単だ。
 もうどうにでもなれ、と開き直ったその瞬間だった。

「耳郎が良ければ俺は良いぞ」
 上鳴がそう言った。
 予想外の言葉に、思わず「え、」と唇の隙間から間抜けな声が漏れる。
「耳郎さえ良ければ、俺は。……もし耳郎と付き合えたら、嬉しい」
 視線を横にやれば、上鳴は真っ直ぐにウチを見ていた。
 ……こいつは一体何を言っているんだろう?
「や、耳郎から見て俺はないってのは分かってるよ!? 全然格好付かねえし、頼りないし」
 何をそんなに慌てて、いきなり言い訳みたいなことまで始めて。
「だから、今すぐ返事しろなんて言わないし、逆に聞くの怖ぇし。あ、てか耳郎好きな人いるんだよな!? じゃあ、駄目か……。そもそも、今日はまだこんなこと言うつもりなかったんだけど……、あー、めちゃくちゃじゃん俺!」
 忙しく表情を変えて、頬だけじゃなくて耳まで真っ赤にして照れている。おまけに落ち着きなく髪の毛をくしゃくしゃにかき混ぜている。
「え、どういう、」
 展開が急過ぎて頭が混乱していた。ウチが状況を飲み込もうとする前に、上鳴は勝手にどんどん突っ走っていく。待ったをかけたいのに、全然人の話を聞く気配がない。
「あの、でも、俺がこんなこと言ったからって、変に気遣わなくて良い! 俺はお前と、これからも遊んだりしたいから、駄目なら駄目で今言ったことは全部忘れて欲しい。それだけは、」
 真っ赤な顔を手で覆い、上鳴はうなだれた。よっぽど今まで身体に力が入っていたらしく、呼吸をする度に肩がわずかに上下している。
 だけどとりあえずは停止したらしい。ようやく静かになった隙に、ウチはたった今浴びた上鳴の言葉をもう一度、思い返してみた。それらはどう聞いても、ウチの上鳴に対する気持ちを抜きにしてみても、そうとしか解釈できない言葉たちだった。目の前の上鳴の態度も、どう見てもそうだった。

 何か言おう、と思ったら、急に心臓がドクドクと大きく鳴り出した。ゆっくり深呼吸をして鼓動を鎮めようとしたけど、全然落ち着く気配がない。緊張して舌が固まっていたけど、ウチは頑張って口を開いた。
「……上鳴、ウチのこと好きなの?」
 こんなことを、自分の口から言う日が来るなんて思ってもみなかった。
 上鳴はそのままの姿勢で小さく頷く。
「そーだよ」
「何なの、それ。どういうこと」
「ど、どうって言われても」
 ウチの問いかけに上鳴は顔を上げた。戸惑った瞳と目が合う。

 高三のあの日から、丸三年以上が経っている。これだけの間、ずっとこれは不毛な片思いなんだと思っていた。気持ちを切り替えようとしてもできなくて、ひねくれていたところもある。だからいきなりこんな風にポンと好意を差し出されても、すぐには手放しで信じ切れない自分がいるらしい。戸惑っているのはウチも同じだ。

 だけど面食らっている上鳴を見たら、そんな自分の混乱をぶつけることに意味なんかないと気がついた。
「……さっき、好きな人いるって言ったでしょ」
 上鳴の目を見つめたまま、ウチは言った。
「あれ、あんたのことだよ」




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