紫陽花の浴衣 / p.2

「耳郎、本当に良いの?」
「良いよ、良いよ。ウチになんて気遣わなくて良いから」
 向かいに座った芦戸が、祭りの喧噪に負けないように少し声を張り上げる。ウチは答えてから、手に持っていた唐揚げを口に入れた。
 焼きそばやお好み焼き、たこ焼きなど色々と買い込んだはずなのに、どの容器もあと少しで空になりそうだった。この飲食スペースに来てからそんなに時間は経っていないけど、みんなでシェアして食べたらあっという間だ。

「でも、耳郎ちゃん一人にするの悪いし……」
「全然。適当にその辺見てるから大丈夫だって」
 遠慮するような口調の麗日にウチは手を振る。
 その時ふいに、少し離れた場所でちらちら揺れる金髪が視界に入った。入った、というより自分の視線が勝手に動いたんだろう。
 そんな自分に腹が立って、ウチは意識的に目線を正面に戻した。自分ばっかり馬鹿みたいだ、と心の中でつぶやく。
 上鳴は通路を挟んだ隣のテーブルで、切島や瀬呂、峰田達と何やら楽しそうに喋りながら焼きそばを食べていた。

「人気みたいですから、結構お待たせしてしまうかもしれませんわ」
「そうね、さっきも行列ができていたし」
「大丈夫、大丈夫。みんなが我慢する方がウチは嫌だって」
 そう言いながらふと、たったさっき、上鳴に言われた一言が頭の中によみがえる。
 ――あ、耳郎も浴衣じゃん。
 ヤオモモや梅雨ちゃんの浴衣を褒めた後に、取ってつけたように言った一言。
 その言葉は、みんなと話している間もこうして勝手にウチの脳内で再生されて、その度に胸の奥をチクリと刺す。
 だけど何よりショックなのは、(え、それだけ?)と拍子抜けしてしまった自分がいることだった。

 というのも、上鳴達は今日早めに寮を出発していて、ウチが浴衣姿で会うのはこの夏祭り会場が初めてだった。だけど着付けの準備が早く終わった芦戸と麗日だけは、先に寮の共有スペースで浴衣姿を披露していて、その時にどうやら上鳴が「なあ、耳郎も浴衣着んの?」と聞いてきたというのだ。
 それで女子棟へ戻ってきた芦戸から「上鳴が楽しみにしてるよー!」なんてからかわれて、でもウチはそんなわけないじゃんとか適当に返事をしていたんだけど、本当は……気に掛けてくれているかもと期待してしまったんだと思う。

 こういうところだ。今までもこういう小さな出来事の積み重ねがあって、ウチの心はあいつの方に傾いていったんだと思う。なのに言っている本人は何も気にしていないっていうのを後から思い知らされて、結局ウチがいちいち一喜一憂しているだけ。
(ウチってこんな人間だったっけ? ほんと、恋愛ってめんどくさ……)
 ここ数ヶ月何度思ったか分からないことをまた改めて思う。

「一人でいて、もし悪いやつにナンパでもされたら!」
「いや、ウチのことナンパする人なんかいないでしょ」
 胸の中で渦巻いている気持ちが、葉隠への返事に思い切り乗ってしまった。全く可愛げのない低い声が出た。いや、いつも別に可愛くはないけれど。
「なになに、誰がナンパされるって~?」
 突然、軽い調子の言葉が飛んできた。
 視線を斜め上の方に向ければ、上鳴がウチらのテーブルの脇に立っていた。手をついて、ウチの向かいの芦戸の方に身を乗り出している。
「勝手に入って来ないでよ」
 自分の意思とは関係なく、一瞬で心が浮つく。
 それを静めるようにウチはぶっきらぼうな声でそう言った。

 上鳴が現われた瞬間、不覚にも心臓がどきりとした。今の今まで落ち込んでいて、何なら腹立たしいくらいだったのに、心は思いとは裏腹だ。会話に割り込んできたくらいで喜んでいる自分がムカつく。
 上鳴はウチの文句は綺麗にスルーして、芦戸や葉隠に話を促した。
 それで二人は、上鳴に最初から説明したのだった。今までウチらが話し合っていた、「お化け屋敷に行く行かない問題」について。

 今年の夏祭りには毎年恒例の花火大会の他に、もう一つ目玉イベントがあった。それは、出張お化け屋敷。
 ホラー物が好きな葉隠はもちろん、何かと好奇心旺盛な他のみんなも怖いもの見たさなのか、何週間も前からこのお化け屋敷に興味津々だった。
 本気で苦手なのはウチ一人だけ。お化け屋敷や肝試しの類は本当の本当に無理で、子どもの頃からずっと変わらないどころか年々苦手度が増しているまである。だからウチに行く選択肢は最初からなかった。
 だけど、自分のせいでみんなの楽しみが奪われるのも嫌だった。だから気にしないで行って欲しいと言っているんだけど、やっぱりみんな遠慮してしまうみたいだった。

 それでさっきの会話だったわけである。
「なーんだ、そういうことか」
 一通りいきさつを聞いた上鳴は、のん気な調子で頷いた。
 そして、
「じゃあみんながお化け屋敷行ってる間、一緒に回ろうぜ」
 何でもない風にあっさりと、ウチの方を見てそう言ったのだった。





 屋台のある通りに行くと、夕方に到着した時よりも人が多かった。
 もうじき七時を回る頃だからか、さっきよりも同年代や大人の姿が目立つ。女子のみんなと別れ、切島達とも別れ、ウチは上鳴と二人きりだった。
 てっきり男子のグループに混ぜてもらうものだと思っていたのに、上鳴は「ちょっと耳郎と回って来るわ! 後でまた連絡する」とだけ言い残して、切島達も切島達で「おう、分かった!」とあっさり受け入れて、今に至る。
 その光景を見ながら思わず「みんなで回るんじゃないの」と出かけた言葉を、ウチは慌てて飲み込んだ。そんなことを言ったらきっと上鳴は、そうするに違いなかったから。

 上鳴と並んで歩きながらウチは、上鳴がわざわざ一緒に時間を潰してくれることの意味を考えていた。
 まあ一年の頃からずっと教室で席は隣だし、普段からよく話をしてCDや漫画の貸し借りもするけれど、これってそれらと同じくらいどうってことない出来事なんだろうか、とか。

 前を向いていた視線を横に向けると、上鳴と目が合った。
 考え事に気を取られて全然視線を感じていなかったけど、上鳴はウチが目を上げる前からこっちを見ていたみたいだった。
 予想外の出来事に心臓が跳ねる。それを誤魔化すようにすぐ、「何」と言いかけたけど、それよりも先に上鳴が口を開いた。

「何か、浴衣姿の耳郎って新鮮だな」
 そう言いながら目線が一度ウチの足元まで落ちて、また上に戻ってくる。
「あんたの前で初めて着たんだからそりゃ新鮮でしょ」
 さっき、浴衣について何も言ってくれずに面白くなかったくせに、いざ話題に上がったら上がったで口から出るのはこんな言葉だった。本当に可愛げがないなと自分で思う。
 だけどこうなってしまうのはむしろ、上鳴が相手だからっていうのもある。一年生から今までの積み重ねで、こういうテンションが自分の中で染み付いてしまっているし、そこに更に動揺を知られたくない気持ちが上乗せされて、どうしようもない悪循環が起こっている自覚はある。
 ウチの心の内とは対照的に、上鳴は「確かにそうだな!」とあっけらかんとした調子で相槌を打った。そしてウチを見たまま続ける。

「俺さあ、耳郎ならもっとこう、ロックな浴衣を着るかなーって思ったんだけど。意外だったな」
「意外」というフレーズがやけに耳に残った。良いとも悪いとも言われていないのに、やっぱり似合わなかっただろうかと咄嗟に思ってしまう。
「ロックな浴衣って何」
「んー……。例えば、黒とか赤とかはっきりした色で、柄も何か尖ってて、とりあえずロックって感じ!」
 こいつのロックのイメージって何なんだろう。
 ……と思いつつ、言いたいことは分かるような、分からないような。とりあえず深くは追究しないことにする。
「……まあ実際、黒と迷ったけど」
「あ、そうなん? でもこういうのも良いんじゃね、夏っぽくて」
 さらっと肯定されて、「意外」と言われてどぎまぎしていた心が少し落ち着く。悪くないなら良かったかな、と淡いピンク色の帯を見下ろしてみる。
「そう、かな」
「おう。それに良いじゃん、紫陽花。俺、紫陽花って好きなんだよな~」
 肩の辺りに配置された薄紫色の紫陽花を見ながら、上鳴が穏やかに笑う。
 その瞬間、心臓が大きく跳ねた。身体の中でドッドッと激しく脈打つ音が聞こえる。
 顔が熱くなるのを感じて、ウチは視線を上鳴から逸らした。

「別に、あんたの好み聞いてないから」
 声が震えないように頑張るので精いっぱいだった。
 そのせいで声は少し小さくなってしまったけど、上鳴にはちゃんと届いたようで、「それ、言うと思った~!」と調子の良い返事が返ってくる。
 そのリアクションに心底ほっとして、ウチは足元に目線を落としたまま、そっと呼吸をした。


 屋台を見て一言二言感想を言いながら、あてもなく歩く。
 反対方向から歩いてくる人の合間を縫うように進んでいくと、自然と並んではいられなくなり、上鳴の後を追うようなかたちになった。
 なるべく歩きやすそうな下駄を選んできたものの、慣れない履き物だから速く進めないし、浴衣が乱れないように気を付けてもいるから、距離が少しずつ離れていく。
 ウチらの間に人が入り、そのまま離れてしまったから呼び止めようとした時、上鳴も気づいたみたいでこちらを振り返った。
 少しきょろきょろした後ウチを見つけたようで、慌てて引き返してくる。

「わりい、先行ってた! 歩きづらいよな、そういうのだと」
 絶え間ない人の流れを避けるように、ウチらは端に寄った。上鳴がウチの足元を見つめる。
「ごめん遅くて」
 上鳴は首を横に振る。
「全然。つーか足痛くねえ? 大丈夫?」
「それは大丈夫」
 上鳴と二人でいて、歩く速度を気にしたことなんて今までなかった。普段だったらむしろウチの方が速い時すらあるのに。こんな風に気を遣われるのは初めてで、変な心地がする。
 上鳴が、人すげえ増えてきたな、と周りを見渡しながらつぶやく。
 すると何かを思いついたような顔をして、もう一度ウチを見た。

「あ、じゃあ、ここ持ってる?」
 そして、斜めに掛けている自分のボディバッグの肩紐を触って見せた。
 一瞬どういうことか分からなくて、え、とつぶやく。
 だけどワンテンポ遅れて理解した。上鳴も「はぐれないようにな」と付け加えた。
 鞄とはいえ、男子に掴まって歩いたことなんてない。しかもよりによって相手は上鳴だ。上鳴から気を遣われているという状況に戸惑ってしまって、返事が遅れた。
 ウチが言葉に詰まっていると、上鳴は、
「……ヤじゃなかったら、だけど」
 そう言って、気まずそうに視線を外した。

 上鳴は大雑把に見えて、案外色々と気にするところがある。ウチの反応をネガティブに捉えてしまったみたいだった。
 別に嫌だとか触りたくないとかそういうわけではないから、誤解されないようにウチは考えるのを止めて、おずおずと手を伸ばした。
「……じゃあ」
 腰より少し上の位置にある、黒いナイロンの肩紐を握る。
 バッグは身体にぴたっと沿うように掛けているから、肩紐を握ると自然と上鳴に触れた。Tシャツ越しでも、握った指の背に確かに体温が伝わってくる。
 ウチよりも高い、男子の体温だった。
 こんな風に男子に触れるのは初めてのくせに、なぜか直感でそう思った。

「じゃ、行くか」
 ウチが掴んだのを確認して、上鳴が歩き出す。
 少し遅れてウチも着いて行く。
 手、このまま当たっていても良いんだろうか。少し紐を引いて触れないようにした方が良いんだろうか。でも鞄引っ張ったら悪いし。上鳴はウチに触られて嫌じゃないんだろうか。嫌ならこんなこと言わないか。
 数秒間のうちにぐるぐると色んな気持ちが胸の中で行きかう。

 明らかに混乱している中で、でも感心もしていた。こういう人混みを歩く時、付き合っている同士なら手を繋げば良いけど、ウチらみたいに何でもない人達はこうやってはぐれないようにすれば良いのか、と。
 ウチが知らないだけでこんなの常識なんだろうか。男子と二人で出掛けたことなんてないから何も分からない。
 こんな風に気を遣える上鳴は、きっとウチよりは色んな経験があるんだろうと思う。ふと見上げた横顔が、何だか初めて見る男子のように見えた。

「……慣れてんね」
「ん、何が?」
 聞こえなければそれでも良いと思いつつつぶやいた声は、ちゃんと上鳴の耳に届いたようだった。周りに溢れる人々の話し声に紛れないように、上鳴は少し首を屈めてウチとの身長差を縮める。
「こういう……何ていうか。はぐれないように、鞄のここ持たせるとか」
 気になっていたから言ってみたものの、いざ言葉にしたら急に恥ずかしくなってきた。
 はぐれないようにどこか掴ませるのって当り前じゃない? と我に返ったのだ。
 二年間一緒に寮で暮らしてきて、散々生活を共にしてきたんだから、これくらい全然気にするようなことじゃなくない? 慣れてるとか慣れてないとか、そういう話ではなかったような気がしてきた。
「いやいやいや、べ、別に慣れてねえよ! はぐれないようにすんのは当然だろ」
 慣れてる、の意味は伝わったらしく、上鳴は明らかにびっくりしていた。
「ん、まあ、そうか」
 上鳴の気遣いを変な風に受け取ってしまったことが恥ずかしい。早くこの話題を切り上げたくて、ウチは何も気にしていないような簡単な返事だけをした。

 上鳴は姿勢を元に戻して、おもむろに自分の後頭部に手をやった。指先で髪をいじる。
「……こんな、浴衣着た女子と二人で歩くとか、初めてだし」
 そして、少しボリュームを抑えた声でそう言う。
 気づいたらウチのイヤホンジャックが勝手に動いて、上鳴の方を向いていた。無意識にちゃんと聞き取ろうとしていたらしい。
「……そーなんだ。意外」
 上鳴から女子とカウントされたのなんて初めてかもしれない。
 これ以上緊張できないと思っていた心臓の鼓動が、さらに速まるのを感じた。首筋に汗が流れる。夏の人混みで暑いのか、自分のせいで暑いのかよく分からなくなってきた。
 上鳴はてっきり中学時代なんかは、毎年のように女子と夏祭りにでも行っていたのかと思っていた。でも高校入学当初のあの下手くそなナンパを思い出せば、そんなわけないような気もしてくる。

「じゃ、その初めてがウチで残念だったね」
 ウチはそう言い、ストラップを掴んだままのこぶしで大げさに上鳴の背中を小突いた。動揺する心を少しでも静めたかった。
 そうだよ、ほんとにな! と、いつもの調子で言って欲しかった。これ以上普段と違うことが起こったらもう、平常心でいられなくなる。ウチは上鳴の言動の全てを、都合の良い方向に解釈してしまう。
「え、何で。全然残念じゃねえだろ」
 だけど上鳴はそう言った。
 冗談っぽさもなく、ごくごく普通の調子で。
 上鳴は前を向いているから、斜め後ろにいるウチからは表情はよく見えなかった。
「……それって、」
 どういう、と言いかけた時に、進行方向の向こうの方から威勢の良い掛け声が上がった。続けて陽気な太鼓や笛の演奏が始まる。ウチらは会話を止めて、その方を見た。
 そういえば今日は山車もあるんだったと思い出した。周りにいる人達もそれに反応して、音がする方向を見てざわざわしている。
「お、すげえ! ちょっと見に行かね?」
 興味を示した上鳴は、人波の向こうを覗こうと少し背伸びをする。それからいつもの屈託のない笑顔でウチを見た。
「……うん。行く」
 うやむやにになった言葉を飲み込んで、ウチはそう頷いた。




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