紫陽花の浴衣 / p.3

 山車を引いた法被姿の人達を見送ると、辺りはとても静かになった。太鼓や笛の音色がどんどん遠ざかっていく。
 見物人がまばらに離れていくのにつられて、ウチらも屋台のある方へ向かって歩き出した。この辺りはさほど混んでいないから、鞄を掴んでいなくても並んで歩けた。

 巾着に入れていたスマホをちらっと確認したけど、誰からも連絡がなかった。まだお化け屋敷は終わっていないらしい。だからもう少し、上鳴との時間は続く。
 その現状が気持ちを後押しして、ウチは何度か躊躇いつつも、口を開いた。
 ねえ、と呼び掛ける声が緊張してわずかに震えてしまった。
 上鳴が軽く返事をする。目線は俯きがちにしているけど、上鳴がこちらを見たのが気配で分かった。

「……さっきの、残念じゃないって、どういう意味」
 え? と上鳴が聞き返す。すぐに質問の意図が分かったのか、今度は「あー……」とつぶやく。それからしばらく黙った。
 上鳴が最初に歩調を緩め、ウチらはどちらともなく足を止めた。ウチも黙って、上鳴の返事を待っていた。
 立ち止まって十秒ほどが経ってから、「別に、そのままの意味だよ」と上鳴は言った。
 そのままってだから、どういう意味。そう問い詰めるような言葉が即座に浮かんで、でもすぐに頭の脇へ追いやった。モヤモヤするのは自分のせいだから。この気持ちを自覚してからというもの、上鳴の言動についてずっと意味を求めようとする自分がいる。

「ふーん……」
「な、何だよ?」
「別に」
 深追いしたところでしょうがない。
 意識して気持ちを切り替えて、この話題を止めようとしたけど、上鳴が続けた。
「じ、耳郎こそ残念だったんじゃねえの? 俺と回る羽目になって」
「え? そもそも、上鳴から誘ったんじゃん」
「そ、そーだけど」
 今度はなぜか上鳴の方が落ち着きがなかった。その態度の理由を考えようとして、止めた。

「ウチも別に、残念なんかじゃないよ」
 答え合わせができないのに問い掛け続けるのは、もううんざりだった。その代わりに素直なことを言ってみた。案外すんなり言葉が出てきて自分で驚いた。
 上鳴からしてもこういうウチの態度は珍しかったみたいで、一瞬目を丸くした。
「……そっか。じゃあ、良かった」
 そして、少しほっとしたような表情をする。
 それでまた会話が途切れて、ウチらはお互い何となくばらばらの方向を見つめながら黙った。鼻から息を吸うたびに、お祭り特有の甘さと香ばしさが混ざった匂いが微かにする。

 今、残念なんかじゃないと言葉にしたら、急に心が静かになった。ここ数ヶ月間、ずっと何も吐き出せずにモヤモヤしていた胸の中に小さい穴が空いて、すーっと風が通ったみたいな。
 上鳴の一挙手一投足に意味を探して、頭の中で考えていても何も変わらないし。そう、やけにすっきりとした気持ちで思っていた。

 言ってしまおうかな。
 ふと心の中で一度つぶやいてみたら、とてもしっくりきた。今まではずっと、上鳴に直接気持ちを伝えるなんて無理とか、この気持ちはバレたら駄目だとか、そういうことしか考えられなかったのに。
 もう一度そっと巾着を開けてスマホを確認したけど、何も通知はなかった。
 ウチは静かに息を吸って、口を開いた。

「あの、」
「じゃ、」
 声が被った。
「あ、いいよ。何?」
 上鳴が譲るように手をウチの方に差し出す。
 いきなり出鼻を挫かれて、思わず口をつぐむ。
 いつもならこういう場面でウチも譲るようなことが言えるのに、すぐに息をのんでしまったせいでそのタイミングを失ってしまった。
 不自然な沈黙が生まれて、でもだからこそ今を逃しちゃいけないんだと思った。上鳴は「じゃ」と言いかけたからたぶん、また賑わっている方へ戻ろうと言おうとしたんだろう。歩き出してしまったらまた、きっとうやむやになってしまう。

「……さっき、」
 そこまで言って、言葉が止まった。急に唇が重たくなったみたいで口が上手く動かない。
 つい今までの静かな気持ちはどこにもなくて、「本当に良いの?」と心の中で自分が未練がましく問い掛けている。黙ったウチを見て上鳴が、「ん?」と聞き返す。
 もう言いかけたなら引き返す道なんてない。
 ウチはやっとの思いで、重たい唇を開いた。
「……さっき、紫陽花が好きって、言ったでしょ」
「え? あ、あぁ。うん」
 心臓の音が急速に大きくなるのを感じる。耳元までどくどくと脈打つようだ。
 それを堪えるようにウチは巾着を持った手をぎゅっと握りしめた。
「……だから、選んだんだよ。この浴衣」
 運動なんかしていないのに息が浅くなって苦しい。
「……へ?」
「前に、上鳴がそう言ってたの覚えてて、選んだ」
 言い終わった途端に、顔が一気に熱くなった。握った手のひらに汗が滲む。

 そう、ウチは分かっていて紫陽花の浴衣を選んだ。
 高校一年生の一学期、梅雨の時期だった。たまたま上鳴と下校のタイミングが合って一緒に駅まで歩いていた時に、通学路にあるどこかの家の庭を見ながら上鳴が言ったのだ、紫陽花が綺麗だと。
 上鳴が花を愛でる感性を持ち合わせているなんてこれっぽっちも思っていなかったウチは、意外過ぎてびっくりした。一瞬聞き違いかと思ったくらいだった。
 上鳴は六月生まれだから、梅雨の時期に関わるものはみんな親近感があって好きなのだと教えてくれた。

 他愛のない出来事だ。
 今日紫陽花が好きだと話した時の口ぶりからして、上鳴はこんな話をウチにしたことを覚えてはいないだろう。
 自分ばっかり、こうして何でも大切にしている。浴衣を買いに行った日に紫陽花の柄を見つけただけで、こいつの顔が思い浮かんでしまうくらいには。

 色んな感情が洪水のようにあふれて、いたたまれなくなってしまった。
 顔を上げれば、上鳴はウチを見たまま固まっている。驚いたような困ったような、とりあえず戸惑っていることだけは分かる、そういう表情をしていた。
 上鳴の唇がわずかに動こうとしたのを察知して、それよりも早くウチは一歩後ずさりをした。
 そして、
「……そ、それだけっ」
 と喉を振り絞って言い、回れ右をして、祭り会場とは反対方向へ駆け出した。
 慣れない格好のせいで全然思うように速く進めないけど、ひたすら前を向いて走った。背中の方から「え、あ、耳郎!?」と上鳴の素っ頓狂な声が聞こえる。

 自分なりに必死で走ったけど、後ろから足音が迫ってきて、簡単に追いつかれた。
 肩を押さえられて上体が後ろに傾いたところで、腕を掴まれた。大して走っていないのに呼吸が荒い。
「おいっ! 逃げるやつがあるか」
 上鳴が大きく声を上げる。腕の掴まれたところが浴衣越しなのに熱かった。
 上鳴は全然息が上がっていないようで、ウチの呼吸音だけが沈黙の中に浮かんでいる。こちらの言葉を待っているのが分かったから、浅い呼吸を繰り返しながら、やっとの思いで口を開いた。

「……すごい変なこと、言っちゃったから」
 よくよく考えてみたら、かなりヤバいことを言ってしまった。
 本人が覚えていないような、二年前に何気なく言ったことを引き合いに出して、それで勝手に浴衣を選んだって。
「てか、キモいねウチ。普通にヤバい」
 嫌な汗がじっと身体中に滲む。掴まれていない方の手で額を拭った。
 それらしいことを言うならもっと他にあっただろうに。今さら後悔しても遅いけど、後悔しかなかった。上鳴から引かれることが何よりも怖かった。
「やばくねえよ」
 はっきりとした口調で上鳴が言った。緊張でこわばっていた身体が思わずびくっと震える。
 上鳴が一歩ウチの方へ歩み寄る足音が聞こえて、うつむいた視界に上鳴のスニーカーが映った。

「……だ、だって俺、すげぇ嬉しいもん」
 ウチの腕を掴んでいた上鳴の力が少し緩む。そしてウチの顔を覗くように近づいてくるのが気配で分かった。
 緊張した頭の中にまず、ただ音として言葉が入ってくる。それをゆっくり飲み込んで、理解しようとする。
 上鳴に顔が見られないように、ウチは咄嗟に顔を背けた。
「あ、あれ、泣いてる!?」
 だけど上鳴の動きの方が早かったみたいだった。
 そう言葉にされて、熱くなっていた目元が一気に潤んだ。
「泣いて、ない」
 緊張がほどけて視界がぼやける。自分で想定していなかったほどの湿っぽい声が出た。
 指で拭ったら本当に泣いているみたいだから絶対にやりたくなかったけど、我慢していたら両目から一粒ずつ涙がこぼれた。
「うぇ、どうした、え、え、」
「見ないで」
 緩んだはずの上鳴の手の力がもう一度こもって、腕をぎゅっと掴まれた。逃げようとするウチに構わず、上鳴は顔を近づけてくる。
「見ないでって、え、どうしよう。えっ、俺のせい? え?」
「もー、うるさい」
 涙が流れたおかげで視界がクリアになった。もう流れる気配はなかったけど、目はまだ潤んでいる。濡れた頬を雑に拭ってから、そういえば今日はメイクをしたんだったということを思い出した。せっかくちゃんとしたのに汗や涙のせいでぐちゃぐちゃだろう。もう、何でも良いか。

 ずっと顔を見せないように頑張って、上鳴はそれをかいくぐろうとしていたけど、しばらくの攻防の末に上鳴が「あー、もー!」と投げやりな声を上げた。
 そして次の瞬間、頭に手が置かれてそのまま軽く引き寄せられた。突然のことで少しよろめく。
 顔を上げると上鳴のTシャツの胸元が目の前にあった。あと二センチくらいで触れ合う、それくらいの至近距離だった。

「……もー、俺、耳郎が泣いたらどうしたら良いか分からん」
 上鳴の心底困ったような声を聞きながら、ウチはそのまま固まっていた。驚いて涙はすっかり引っ込んだ。
 上鳴の手がゆっくり何度もウチの頭を撫でる。
 身体の位置はそのままで、決して寄り掛かることはなかった。でも少しだけ体温の熱さが伝わってくるような距離感のまま、ウチらはしばらく立ち止まっていた。




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