Chapter 1 / 第4話

 黒板の上で力を込めて黒板消しを滑らせると、すーっとスポンジが擦れる音がする。そんな些細な音が聞こえるくらい放課後の教室は静かだった。七限目が終わって四十分も経っていれば、どのクラスの人ももう教室に残っていないんだろう。
 黒板消しは日直の仕事。黒板に書かれているものを消せば良いだけだけど、最初に何となく端から丁寧に始めてしまったら徹底的に綺麗にしたくなってきて、ウチは黙々と黒板消しの作業に没頭していた。チョークの粉で汚れた黒板が深い緑色を取り戻していくのが見ていて気持ち良い。

 黒板の半分くらいが綺麗になり、一息ついた時だった。ふと廊下の方から足音が聞こえてきて、ウチは視線をドアの方へ向けた。
 予想通り、数秒後に人影が現れた。やって来たそいつは教室に入ろうとしたけど、足を踏み出した瞬間にウチを見つけて固まり、それから大袈裟に仰け反って見せた。

「おわっ!? えっ!? びびったー!」
「ちょっ、何。いきなり大声出さないでよ」
 上鳴の驚いたリアクションにウチもびっくりして、思わず黒板消しを落としてしまった。
「あー、びびった! 誰もいないと思ってたから、マジでびっくりした……」
「驚いたのはこっちだよ」
 拾いながら上鳴を睨みつけるけど、当の本人はそんなことは全然気にしない様子で「あー、心臓止まるかと思った~」なんて言いながら教室に入ってきた。

「てか、耳郎何してんの」
「黒板消し。日直だから」
「え、こんな時間まで? つーか綺麗だなおい! すげえな」
 ウチのささやかな努力の成果に気づいた上鳴が、黒板を上から下まで眺める。
「十分くらい前までセメントス先生の資料整理手伝ってたから。それでこんな時間なの」
「あー、そういや授業の時に言われてたもんな」
「で、ジャミングウェイは何してんの?」
「ジャミングウェイじゃねえっつーの! チャージズマ」
 昨日の授業でウチが考えてあげたヒーロー名にきっちりツッコミを入れつつ、上鳴は自分の席に向かった。机の中に手を入れて、「あったあった」とノートと教科書を取り出す。その時、折りたたまれたプリントがはらりと床に落ちた。
「今日数学の宿題出てたじゃん? なのに持って帰んの忘れててさ。いやー良かった、途中で思い出して」
 上鳴はスクールバッグを肩に掛けたまま開き、教科書とノートを中に突っ込む。
「何か落ちたよ」
「え?」
 プリントの方には目もくれないからそう言うと、上鳴はきょろきょろと首を振って足元を見る。椅子の下に落ちていた紙に気がついて、すぐに身体を屈めて拾った。
「あー、そうだ。これも出さなきゃ」
 上鳴はそう独りごちて、その紙も鞄の中に仕舞う。
 透けて見えた印刷面で、何のプリントか分かった。それはウチの鞄の中にも、まだ白紙のままクリアファイルに挟まれて入っているもの。職場体験の行き先の希望を書く用紙だ。

 ウチは再び黒板を振り返って、黒板消しの作業に戻った。上鳴が鞄のファスナーを閉める音がする。かと思ったら、黒板の前に来た。上鳴はもう一つある黒板消しを手に取って、ウチが始めた反対側から拭き始める。
「……何で上鳴もやってんの?」
「え? だって二人でやった方が早いじゃん」
 さも当然とばかりに、上鳴は作業の手を止めずにそう言った。
 男子の方が力が強いからか、ウチよりもスムーズに黒板が綺麗になっていく。好きでやっていただけだから一人でも問題なかったけど、せっかく手伝ってくれるのを断る理由もなくて、お礼を言ってウチも黒板に向き合い手を動かした。
「しっかし、耳郎って几帳面なんだな。俺日直の時こんなにちゃんとやってねえや」
「何かやり始めたらハマったっていうか。別にここまでする必要はないと思うけど」
「お前大雑把そうなのに意外だな!」
「は?」
 反射的にイヤホンジャックを上鳴の顔に向ければ、上鳴はぎょっとして慌てて「何でもないです」と付け加えた。そして何事もなかったかのように、わざとらしく背筋をぴんと伸ばして黒板を拭く。
 どうしてこいつは一言余計なんだろう。せっかくひとが「良いやつ」って思いかけていたところなのに。決して悪いやつではないけれど、彼女が欲しいというわりに全然それが叶わないのは、こういうところなんだろうなと思う。


 二人でやったら黒板の掃除はあっという間に終わり、自然とウチらはそのまま一緒に帰ることになった。歩きながらウチは上鳴に尋ねた。
「職場体験の事務所、どこ行くかだいたいは決まってんの?」
 今のヒーロー科の話題と言えばこれだ。他のクラスメイトともよくこの話をしているし、自分でもよく考えているから、話題を選ぼうとしなくてもするっと口から出てきた。
 上鳴は渋い顔をして首を横に振った。
「まだ。全然決めらんなくて。耳郎は決めたんだっけ?」
「まだ。出してない」

 雄英体育祭が終わったのが三日前。一日の休日を挟んで昨日、さっそくヒーロー事務所から来た指名数が発表された。ヒーロー活動の実績がない入学間もない一年生にとって、指名は将来性に対する興味なのだと相澤先生は言っていた。そのプロヒーローからの興味は、具体的な数字となって黒板の上に並んだ。
 体育祭で一位と二位だった爆豪と轟がぶっちぎりで四桁の指名数を獲得し、続いて体育祭の順位と同じく常闇が三位だった。トップツーの結果がすご過ぎてついそこに目が行ってしまったけど、よく見れば上鳴の名前もあった。しかもちゃっかりA組の中で五番目に多い指名数を獲得していた。三百近いヒーロー事務所が上鳴を選んでいた。
 それに対して、指名が全く来なかった人もいた。というか、指名数ゼロの人の方が多いくらいだった。そしてウチは、その中の一人だった。
 例年はもっと指名数がバラけると相澤先生が言っていたから、今年は異例な結果だったんだろう。確かに、轟と爆豪のインパクトはとんでもなかった。

 ウチにとって上鳴は普段のビビりまくっている印象が強過ぎるせいで、結果を見た瞬間はちょっと意外だった。だけど騎馬戦では轟の騎馬として活躍していたし、個人トーナメントまで出場していたから、よく考えればかなりアピールできていた気がする。それに電気系の個性は強い上にヒーロー界では珍しいし。
 上鳴がいつも皆に頼りまくっていることや、授業中にうたた寝をして先生に怒られていることなんか関係ない。体育祭の場でどんな結果を残せたかが全てなのだ。そう頭では分かってはいるけれど、こうやって数字ではっきり見えるのは、案外きついものがあった。

「どこか一個に決めるってムズイよな」
「あんたはいっぱい来てたもんね、指名」
「耳郎は?」
「ウチはどこからも来なかったよ」
 職場体験の行き先は、指名が来た人は指名してきた事務所の中から、指名がなかった人は学校があらかじめ依頼していた事務所の中から選ぶことになっている。学校が用意したリストでもそれなりに多くのヒーロー事務所があり、ウチはなかなか選ぶのに時間が掛かっていた。せっかく初めて体験できる本物のヒーロー活動、どんな強みがある事務所に行くべきか悩み出したらきりがない。行き先希望の提出締切日は明日だから、早くしなきゃと気持ちだけは焦っている。

 少し間が空いた後、上鳴が先に口を開いた。
「……でもまあ、俺も運が良かったっていうか。だって騎馬戦って発表された時に俺、「あ、終わった」って思ったもんな」
 終わったって? と尋ねようとして、すぐに意味が分かったからウチは中途半端に開いた唇を閉じた。
 騎馬戦は、騎馬同士が手を組んで足場を作りその上に騎手が乗る。そしてウチらがやったのはただの騎馬戦ではなかった。個性も使用できる雄英高校体育祭種目としての騎馬戦だ。
「ぜってー誰も俺と組んでくれねえじゃんって思ってたから、すぐ轟に声掛けられた時はびびったわ」

 上鳴の個性は「帯電」。身体に電気をまとうことができて、それを放出することができる。だけど放出する電気に指向性を持たせることはできないらしく、放電中の上鳴の近くにいる人は敵味方関係なく感電してしまう。強い個性にもかかわらず上鳴がなかなか演習の授業で活躍できない理由はこれだ。「皆を巻き込んでしまう」というのが上鳴の口癖だ。

「嬉しかったからめちゃくちゃ張り切ったけど、完全に轟の作戦に乗っただけだったからなあ。つーか俺より俺の個性の活かし方分かっててすごくね!? あいつ」
「まあ、轟がすごいのは同意だけど。あんたはあんたで自分の個性の使い方知らな過ぎでしょ」
「くっ……」
 学校を通して申請すればいくらでもサポートアイテムを作ってもらえるのに、上鳴はそこのところを上手く活用できていない。できないことや苦手なことがあるなら、それをカバーしてくれるようなアイテムを考えれば良いのに。こんなに充実したサポート体制があるんだから使わなきゃもったいないとウチは思っている。

 苦い顔をした上鳴は、だけどすぐに表情を元に戻して前を向いた。
「だから俺の力で指名が貰えたかって言うと、正直微妙だなとは思ってるよ。轟に上手く活かしてもらったっていうかな」
 ウチは上鳴の横顔を思わずじっと見つめてしまった。上鳴にしてはかなり謙虚なことを言ったと思ったからだ。相澤先生から指名数が発表された時は、めちゃくちゃ手放しで喜んでいたから、内心そんな風に思っていただなんて意外だった。そういえば同じく轟の騎馬だったヤオモモもそう言っていた。騎馬戦での活躍を素直にすごいと思ってそう伝えたら、轟さんの指示に従っただけですわ、と。
「つーか、そもそも種目にもよるじゃん! 自分の個性を活かせるかどうかって」
 上鳴は急に明るい声を出して、ウチの方を見た。髪と同じ色の黄色い瞳が真っ直ぐこちらに向けられる。ウチとは全然違う、色素の薄い瞳はガラス細工のようだ。

 ……もしかして、慰められてる?

 唐突に見つめられて何事かと思ったけど、そう思うと上鳴の言動も腑に落ちた。指名がなかったというウチに対して、上鳴は気を遣ってくれているんだ。
 バカだなぁ、とウチは思った。そんなこと気にしなくて良いのに。雄英高校のヒーロー科に入ったからには、これからもこんなことは沢山あるだろうに。

「何、慰めてくれてるわけ?」
 真っ直ぐな視線を受けるのは正直恥ずかしい。そんな感情を悟られないように意識して喋ったら、思いのほか感情のこもっていない不愛想な声が出た。やっぱり図星だったらしく、上鳴は分かりやすく目を泳がせた。
「いや、別に。そんな」
 おまけにウチの声が低かったから怒っていると思っているみたいだ。明らかに「やばい」って表情をしている。誤解を解くためにウチは、何も気にしていないことが伝わるように、努めて声のトーンを少しだけ上げた。

「そんなの最初から自分で分かってたっての。だってウチ何もアピールできてなかったんだよ。逆に指名来るなんて期待する方が難しいって。どっちにしろ職場体験は行けるんだからさ、むしろ大事なのはこれからでしょ。どこの事務所に職場体験に行くか。学校が用意してくれた事務所のリストだって、良いとこばっかりなんだからね」
 喋り過ぎかなと思ったけど、ここまで言わないと信じてもらえないような気がして言葉を重ねた。
「だからまだ迷って出せてないだけ。ウチの個性的に、索敵に強い事務所が良いかなとは思ってるんだけど」
 耳たぶから下がるコードを少し伸ばして、ウチはそれを人差し指に巻き付けた。ちらっと上鳴の顔に視線をやれば、さっきまでの気まずさは消えているようだった。
「お、いーじゃん! 耳郎そういうの得意だもんな」
 そして声の調子もいつも通りに戻っていた。
「俺はどんなとこが良いんだろうなあー。なあ、どう思う?」
「知らないよ。自分で考えな」
「俺の強みかあー……」


 上鳴とは駅まで一緒に行き、乗る路線が違うから改札に入ったところで別れた。
 電車の中はそこそこ空いていて、座ることができた。リュックを身体の前に抱いて体重を背もたれに預け、目を閉じる。その途端、どっと身体が重たくなるのを感じた。嘘を吐いたから疲れた。

 本当はウチは、一つか二つくらいどこかの事務所から指名が来るんじゃないかと思っていた。
 だってあんなに数えきれないくらい大勢のプロヒーローが観客席に集まっていたんだから。ウチだって競技中に全く個性を使っていなかったわけでもなかったし。別に百も二百も望んではいない。一つや二つだ。だけど自分にとっては、それすら高望みだったらしい。
 体育祭での自分を振り返ってみて、当たり前の結果だろうと言い聞かせていたけれど、さっき上鳴に話していた時にふつふつと悔しさが込み上げてきて、やっぱりまだ受け止め切れていないんだと気づいた。今まで自分が望んだことで、満足のいく結果を手に入れられないことなんてなかった。楽器の演奏も学校の成績も検定試験も全部。雄英高校のヒーロー科にだって受かった。本当に欲しいと思ったものはちゃんといつもこの手の中にあった。

 上鳴は「運が良かった」と言った。だけどその運だって、来る人と来ない人がいる。たまたまのようでいて、やっぱり運を引き寄せる人っていうのは居る。そして何となく分かる。上鳴にはそういうチャンスが巡ってきて、掴むのが上手そうって。
 そこまで思って気がついた。ウチは上鳴に嫉妬しているんだって。

 車掌のアナウンスが流れて、ゆっくりと電車はその身体を揺らしながら走り始めた。目を開けて辺りを見るとまだ空席があったから、ウチはそのまま座っていることにした。薄いオレンジ色の日射しが、線路沿いの家やビルに降り注いでいるのをぼんやり見ていた。

 父さんや母さんの友達でもそうだ。すごく楽器の演奏が上手かったり、歌が上手かったり、良い曲を書いたりできるのに、なかなか仕事がなかったり売れたりしない人たちを知っている。もっと有名になっても良いのにどうしてなんだろうと、本当に不思議に思う。どこにどう線が引かれているのか、ウチには分からない。
 実力だけでも駄目だし、運だけでも駄目。それは何となく分かるけど、考え過ぎるといつも怖くなってくる。ウチは一体、どっち側の人間になれるんだろう……? って。





 翌朝、高校前の上り坂に差し掛かった時、前を歩く上鳴を見つけた。眠いのかのんびりとした歩調だったから、少し早足にするだけで簡単に追いついた。
 そこで声を掛けようとしたけど、不意に悪戯心が湧いてウチはイヤホンジャックを伸ばした。黙って上鳴の肩をつつこうとしたのだ。だけど気配を察したのか振り返られてしまって、あっさり不意打ちは失敗した。
 そんなウチの思惑も知らず、上鳴はのん気に、
「あ、耳郎じゃん。はよー」
 と、スラックスのポケットに手を突っ込んだままそう言った。
「おはよ」
 ウチも挨拶を返して隣に並び、どちらともなく歩き出す。
「ねえ、ジャミングウェイ」
「だからちげーって。ふあ」
 上鳴は小さくあくびをした。朝だからか、いつもみたいなツッコミの切れはなかった。

「職場体験、どこの事務所にするか決めたよ」
「マジ? 俺まだちょっと迷ってんだよな」
「うそ、今日いっぱいなのに?」
「耳郎どこにしたん?」
「デステゴロ事務所」
 上鳴はあくびのせいで少し潤んだ目を何度か瞬かせながら、まじまじとウチを見た。
「え、デステゴロ事務所?」
「うん」
「……あれ、索敵に強いとこが良いって言ってなかったっけ?」
「言ったけど」
「イメージだけどデステゴロのとこって、ゴリゴリ肉体派の事務所じゃね?」
「うん、ウチもそう思ってる」

 上鳴に話した通り、最初は自分の個性に合った事務所に行くつもりだった。
 でも昨日家に帰ってぼんやり上鳴との会話を思い返していたら、とある言葉が引っ掛かって、考え方を変えてみることにしたのだ。それで、最初の自分では選ばなかっただろう傾向の事務所を選ぶことにした。
 ウチは女子の中でも小柄な方で、普通科の女子よりは体力はあるけれど、ヒーロー科の中で比べれば持久力は心許ない。筋トレも毎日しているけど、体質なのかなかなか筋肉が付きづらい。
 でも何かが起こった時に、苦手を言い訳になんかできない。本物のヒーローになりたいなら、「活躍できるのは種目による」なんて言っていられないのだ。今のウチには足りないものばかりだ。だからそれならばいっそ、ないことを思い知ったって良いのだ。

「やっぱり方向転換して、新しいことに挑戦しようかなって」
 耳たぶのプラグが自然とふらふらと浮いたから、ウチはそのコードを指にくるっと絡ませた。
「良いじゃん。ニュー耳郎のデビューだな!」
「は、何それ。語呂わる」
 素っ気なく言ったけど、なぜか上鳴はニヤニヤしながらこっちを見ていた。
「つーか大丈夫かあ、体育会系のとこなんて行って。ぜってーきついぞ」
「うっさい。あんたこそ早く決めなよね」
「そーだよ! そうなんだよ。あー、どうしよう!」
 頭を抱えて上鳴がうなだれる。ようやく目が覚めて調子が戻って来たらしい、いちいちデカいリアクションがおかしくて、ウチは声を出して笑った。




2022.01.13
※原作では耳郎の職場体験先は不明ですが、アニメでデステゴロの事務所に行っていたのでその設定で書きました。



| ← 第3話 | NOVEL TOP | 第5話 → |